武田梵声です。 ボイストレーニング のバイブルと呼ばれた フースラー 理論を専門とするものです。
フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。
そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。
フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。
これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。
現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、
それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、
~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。
要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、
それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。
ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、
先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。
~
にあたるものになります。
ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、
すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。
それに唯一成功したのがフースラーでした。
武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで
オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/
武田梵声の著書
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks
先日の SMAP の 中居正広 氏の
被災地でのイベントにおける発言を元にプロ歌手と音程という事をもう少し考えてゆきたいと思う。
中居正広氏は、音程じゃなくて気持ちが大事 と言った事を被災地でのイベントで再実感したとの事であったが、
それに対してツィート等のコメントでプロ歌手は音程が大事とする意見が多々寄せられていた。
本当にそうであろうか?
おそらくは、この音程が大事とするコメントをした者の大半は十二平均律をその大事な音程と考えている事と思うのだが、
だとしたら中居正広氏が実感したような東北の人達とのある種の交感の方が遥かに重要であると言える。
そもそも流行歌、 JPOP 演歌 などにおいても十二平均律が基本となっている事は確かなのだが、大衆的な歌い手の多くはやはり無意識的にではあるが微分音の表出が行われている。
JPOP 演歌 アニソン 歌謡曲 ニューミュージック 関西フォーク カレッジフォーク グループサウンズ ムード歌謡 青春歌謡 故郷歌謡 アイドル歌謡 リズム歌謡 等々の20世紀~21世紀の 流行歌 の基本的な遺伝子は大きく三つだ。
一つは 放浪芸 の節の集大成的な 浪花節 都々逸 そして 読売 である。
もう一つは、いわゆる 蛍の光 等に代表される パーラーソング
最後に フォックストロット 経由の ブルース的な遺伝子だ。
最後の ブルース 的遺伝子はそれこそ時代事に様々な形で輸入されている。 戦後は ブギウギ 1950年代の ロックンロール 1960年代の ブリティッシュインベージョン それから R&B や ソウル ダンスクラッシックス ファンク ヒップホップ と様々な形でブルース的な遺伝子は輸入されている。
やや乱暴な論ではあるが、南米などの ソン サンバ マンボ ボサ エンペベ 等も 極論 ブルース的遺伝子(アフリカ的な遺伝子と言えばしっくりくると思う。)の変化したものであり、 レゲエ や ハウス テクノ トランス 等も アングラ・ブラックカルチャー から発生してきたものである
この三要素がシンクレしてゆく中から 日本の大衆歌謡は発生してきたのだと言える。
ちなみに ジャニーズ の アイドル歌謡 というのは昔から極めて ブラックなサウンドが多く、しかも比較的 最新の 流行りの黒っぽい要素を 取り入れてきた傾向がある。
こうした 俚謡段階の芸能、 歌謡 の習合 こそが 大衆歌謡 の本体なのだから その意味において 十二平均律的な厳密さはむしろ 無用な ジャンルと言えるし、 そのように こういったジャンル自体が 芸能分化理法 に基づいて 展開してきたというのが 事実であろう。
そもそも ブルーノート や バレルハウス 自体が 十二平均律 の解体 から発生してきたものである。 北米歌謡 の ベースはそこにあり、 それを 集大成 した ハリースミスコレクション こそを 皆様の 大好きな アメリカ様 ご自身 が 理想として 掲げてきた事は 今一度 押さえておくべき事だろう。
だが 世の中のメインカルチャー自体が 顕在的な思考としては、十二平均律 を重要視
する方向に 進んでいるのだから それに従わなければ 世の中の負け組になってしまうのでは? という意見もよく聴く
こうした 芸能に 勝ち負け は本来 ない
あるとすれば 相撲 や カガイ のように 神 や マレビト と 戦う事 位だ
かつて インド哲学は 宇宙法 としての ダルマを掲げた。 宮沢賢治 の作品も 宇宙法 に基づいてきたものであり、 法の発生 も ジネン の秘密や法則 からきたものである。 そこから 外れたものは 本来 宇宙法を司る 芸能人がすべきではないのだ。
その意味において 音痴の ものというのは 下方倍音列的なる 宇宙根音 に 稀にでも 触れている分 近代化を 遂げた 素晴らしき 者達 よりも 宇宙法に近い世界を 生きていると言ってよい。
そして 大衆歌謡 の 本質とは ビッグビルブルンジー が唱えたように 民謡 俚謡
にこそあるのである。
因みに プロ歌手 というのは ここでは 単に 職業歌手 という意味で使うが、 アマチュア 歌手 と プロの歌い手 のどちらが総じて優れているかと 問われれば答えは、アマチュア歌手の方が遥かに優れている歌い手が多いと言ってよい。
もちろん、職業歌手の中にも優れた歌い手はいるし、アマチュア歌手の中にもいまいちな歌い手も山のようにおる訳だが、
世界全体のいわゆる第三世界を含めてゆくならば、 職業歌手ではない、優れた歌い手は山のようにおり、そしてその数は 職業歌手を凌駕すると言っていいだろう。
そして近代化に拍車がかかった現代において職業歌手の力の近代化も頂点に達してきている。この事は欧米様 も大変お喜びの事と思う。
かつて 黒人 の アフリカ性 が喪失しつつある時に その アフリカ性の 再生 を試みた 歌い手 にして ダンサー がいた・・・
この遺伝子 は マイケルジャクソン を経由 して マサラ・ムービー や フィルム・ソング にも多大な影響を与えたし何よりも パンアフリカニズム のある種の核 となり アフリカ大衆歌謡の要になっていた。
それはもう一つのアフリカ大衆歌謡の核ともうしてよい ルンバ や ベルパターン 更には パームワインミュージック や ハイライフ といったはじまり の 混血音楽 以上の精神的な アクシスムンディ となっていたといいだろう。 そして フェラクティ により アフロ大衆音楽、アフロ大衆芸能の集大成と言ってもよい アフロビート が発想されたのである。
こうした アフロ性回帰の 背後にいた者こそが JB すなわち ジェームス・ブラウン である。
我々は トビー となるか? クンタキンテ となるか? という質問に対して クンタキンテ である事を 宣言せねばなるまい。
それは近代を解体し、古代性を獲得する事に繋がる。 もしくは 岡本太郎 の 対極主義 のように その近代性 と古代性をぶつけ合い、葛藤し続けながら 爆発 させ続けてゆく 超芸能の地平に たたねばなるまい。
音痴 というのは 極論 対極主義のような地平で葛藤し続ける者達の事であり、それは 極めて 美しい!!!
かつて 無意識 の肉体を得ようとした アルトー 以降の 肉体の演劇 もしくはイサドラ 等のモダンダンス コンテンポラリーダンス 暗黒舞踏 等により 抹殺されてきた 肉体の 復活が行われてきた。 身体の障害 や 病 O脚 がに股 抹殺されてきた肉体の中にこそ 無意識の肉体 零の肉体 があるのではないか? と そしてその試みは 正解であった 例えば ダウン症 の人達の 舞踏 や 芸術 は極めて優れたものを 表出した。
また 精神疾患 等による 抹殺されてきた精神 も 演劇や エサレン研究所 などにより 捉え直されてきた
我々は近代により肉体 歩行 言語 声 エロキューション 精神 音 ノイズ 微分音 シュルティ ガマカ 下方倍音列 メリスマ 野生の思考 アナロジー 類化性能 萃点 ヌミノーゼ 妖怪 悪魔 精霊 と様々な重要なものを抹殺し続けてきたわけだが、この音程の問題とこれらは全てリンクしてくる
東北の交感と音程の問題は極めて重要な事を我々に考えさせるのだ。
また 心が大切 の 心の射程という事も我々は考え直す必要があるだろう
マズロー 的な 自己実現 の 自己を完全に取り違えているものがあまりに多い昨今であり、 当然ながら ユング の自己も完全に取り違えている。
心 精神 の壮大な世界は ユング ラカン フロイト タート ライヒ グロフ 等 はもとより 世界各地の シャーマニズム や 芸能 インド哲学 上座部仏教 大乗仏教 新プラトン主義 グノーシス主義 また ラスコー ショーベ アルタミラ 等の 洞窟壁画 動産芸術 等を 踏まえて見てゆく必要があるだろう。
フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。
そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。
フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。
これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。
現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、
それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、
~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。
要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、
それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。
ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、
先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。
~
にあたるものになります。
ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、
すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。
それに唯一成功したのがフースラーでした。
武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで
オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/
武田梵声の著書
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks
先日の SMAP の 中居正広 氏の
被災地でのイベントにおける発言を元にプロ歌手と音程という事をもう少し考えてゆきたいと思う。
中居正広氏は、音程じゃなくて気持ちが大事 と言った事を被災地でのイベントで再実感したとの事であったが、
それに対してツィート等のコメントでプロ歌手は音程が大事とする意見が多々寄せられていた。
本当にそうであろうか?
おそらくは、この音程が大事とするコメントをした者の大半は十二平均律をその大事な音程と考えている事と思うのだが、
だとしたら中居正広氏が実感したような東北の人達とのある種の交感の方が遥かに重要であると言える。
そもそも流行歌、 JPOP 演歌 などにおいても十二平均律が基本となっている事は確かなのだが、大衆的な歌い手の多くはやはり無意識的にではあるが微分音の表出が行われている。
JPOP 演歌 アニソン 歌謡曲 ニューミュージック 関西フォーク カレッジフォーク グループサウンズ ムード歌謡 青春歌謡 故郷歌謡 アイドル歌謡 リズム歌謡 等々の20世紀~21世紀の 流行歌 の基本的な遺伝子は大きく三つだ。
一つは 放浪芸 の節の集大成的な 浪花節 都々逸 そして 読売 である。
もう一つは、いわゆる 蛍の光 等に代表される パーラーソング
最後に フォックストロット 経由の ブルース的な遺伝子だ。
最後の ブルース 的遺伝子はそれこそ時代事に様々な形で輸入されている。 戦後は ブギウギ 1950年代の ロックンロール 1960年代の ブリティッシュインベージョン それから R&B や ソウル ダンスクラッシックス ファンク ヒップホップ と様々な形でブルース的な遺伝子は輸入されている。
やや乱暴な論ではあるが、南米などの ソン サンバ マンボ ボサ エンペベ 等も 極論 ブルース的遺伝子(アフリカ的な遺伝子と言えばしっくりくると思う。)の変化したものであり、 レゲエ や ハウス テクノ トランス 等も アングラ・ブラックカルチャー から発生してきたものである
この三要素がシンクレしてゆく中から 日本の大衆歌謡は発生してきたのだと言える。
ちなみに ジャニーズ の アイドル歌謡 というのは昔から極めて ブラックなサウンドが多く、しかも比較的 最新の 流行りの黒っぽい要素を 取り入れてきた傾向がある。
こうした 俚謡段階の芸能、 歌謡 の習合 こそが 大衆歌謡 の本体なのだから その意味において 十二平均律的な厳密さはむしろ 無用な ジャンルと言えるし、 そのように こういったジャンル自体が 芸能分化理法 に基づいて 展開してきたというのが 事実であろう。
そもそも ブルーノート や バレルハウス 自体が 十二平均律 の解体 から発生してきたものである。 北米歌謡 の ベースはそこにあり、 それを 集大成 した ハリースミスコレクション こそを 皆様の 大好きな アメリカ様 ご自身 が 理想として 掲げてきた事は 今一度 押さえておくべき事だろう。
だが 世の中のメインカルチャー自体が 顕在的な思考としては、十二平均律 を重要視
する方向に 進んでいるのだから それに従わなければ 世の中の負け組になってしまうのでは? という意見もよく聴く
こうした 芸能に 勝ち負け は本来 ない
あるとすれば 相撲 や カガイ のように 神 や マレビト と 戦う事 位だ
かつて インド哲学は 宇宙法 としての ダルマを掲げた。 宮沢賢治 の作品も 宇宙法 に基づいてきたものであり、 法の発生 も ジネン の秘密や法則 からきたものである。 そこから 外れたものは 本来 宇宙法を司る 芸能人がすべきではないのだ。
その意味において 音痴の ものというのは 下方倍音列的なる 宇宙根音 に 稀にでも 触れている分 近代化を 遂げた 素晴らしき 者達 よりも 宇宙法に近い世界を 生きていると言ってよい。
そして 大衆歌謡 の 本質とは ビッグビルブルンジー が唱えたように 民謡 俚謡
にこそあるのである。
因みに プロ歌手 というのは ここでは 単に 職業歌手 という意味で使うが、 アマチュア 歌手 と プロの歌い手 のどちらが総じて優れているかと 問われれば答えは、アマチュア歌手の方が遥かに優れている歌い手が多いと言ってよい。
もちろん、職業歌手の中にも優れた歌い手はいるし、アマチュア歌手の中にもいまいちな歌い手も山のようにおる訳だが、
世界全体のいわゆる第三世界を含めてゆくならば、 職業歌手ではない、優れた歌い手は山のようにおり、そしてその数は 職業歌手を凌駕すると言っていいだろう。
そして近代化に拍車がかかった現代において職業歌手の力の近代化も頂点に達してきている。この事は欧米様 も大変お喜びの事と思う。
かつて 黒人 の アフリカ性 が喪失しつつある時に その アフリカ性の 再生 を試みた 歌い手 にして ダンサー がいた・・・
この遺伝子 は マイケルジャクソン を経由 して マサラ・ムービー や フィルム・ソング にも多大な影響を与えたし何よりも パンアフリカニズム のある種の核 となり アフリカ大衆歌謡の要になっていた。
それはもう一つのアフリカ大衆歌謡の核ともうしてよい ルンバ や ベルパターン 更には パームワインミュージック や ハイライフ といったはじまり の 混血音楽 以上の精神的な アクシスムンディ となっていたといいだろう。 そして フェラクティ により アフロ大衆音楽、アフロ大衆芸能の集大成と言ってもよい アフロビート が発想されたのである。
こうした アフロ性回帰の 背後にいた者こそが JB すなわち ジェームス・ブラウン である。
我々は トビー となるか? クンタキンテ となるか? という質問に対して クンタキンテ である事を 宣言せねばなるまい。
それは近代を解体し、古代性を獲得する事に繋がる。 もしくは 岡本太郎 の 対極主義 のように その近代性 と古代性をぶつけ合い、葛藤し続けながら 爆発 させ続けてゆく 超芸能の地平に たたねばなるまい。
音痴 というのは 極論 対極主義のような地平で葛藤し続ける者達の事であり、それは 極めて 美しい!!!
かつて 無意識 の肉体を得ようとした アルトー 以降の 肉体の演劇 もしくはイサドラ 等のモダンダンス コンテンポラリーダンス 暗黒舞踏 等により 抹殺されてきた 肉体の 復活が行われてきた。 身体の障害 や 病 O脚 がに股 抹殺されてきた肉体の中にこそ 無意識の肉体 零の肉体 があるのではないか? と そしてその試みは 正解であった 例えば ダウン症 の人達の 舞踏 や 芸術 は極めて優れたものを 表出した。
また 精神疾患 等による 抹殺されてきた精神 も 演劇や エサレン研究所 などにより 捉え直されてきた
我々は近代により肉体 歩行 言語 声 エロキューション 精神 音 ノイズ 微分音 シュルティ ガマカ 下方倍音列 メリスマ 野生の思考 アナロジー 類化性能 萃点 ヌミノーゼ 妖怪 悪魔 精霊 と様々な重要なものを抹殺し続けてきたわけだが、この音程の問題とこれらは全てリンクしてくる
東北の交感と音程の問題は極めて重要な事を我々に考えさせるのだ。
また 心が大切 の 心の射程という事も我々は考え直す必要があるだろう
マズロー 的な 自己実現 の 自己を完全に取り違えているものがあまりに多い昨今であり、 当然ながら ユング の自己も完全に取り違えている。
心 精神 の壮大な世界は ユング ラカン フロイト タート ライヒ グロフ 等 はもとより 世界各地の シャーマニズム や 芸能 インド哲学 上座部仏教 大乗仏教 新プラトン主義 グノーシス主義 また ラスコー ショーベ アルタミラ 等の 洞窟壁画 動産芸術 等を 踏まえて見てゆく必要があるだろう。