私の名は武田梵声。世界最高の芸能学 折口信夫古代芸能学と 言語獲得以前の原始ミックスボイスの再生を研究した 世界最高の発声学 フースラー発声学を専門とするものである。
この世界の誰がなんと言おうと 歌、芸能に関する全ての 最高の基準は折口信夫とフースラーの思考を持つ、我々にこそある。
古代~現代までの全ての歌 芸能 から 真の 歌 や芸能に通低する
古代心性を取り出す事が我々の目的だからだ。
時代時代の流行りの勝手な好みを拡散するのも まあ 本当は悪い事ではない
そういう時代時代のモラルセンスを理解する事も我々にとって重要な事でもある。
だがそれと同時に 古代心性 を理解せぬ 者を 変容させてゆく必要もある事も確かな事だ
さて、ネットであまり 美空ひばり を検索しない私なのだが、 美空ひばり の歌をよく理解していない もの達があまりにも 多いようなので 少し話してゆきたいと思う。 と言ってもこれまでも何度も語ってきた事であるが、
私の研究対象からほとんど抜け落ちずにずーっと 寄り添い続けてきたのが美空ひばり である。
美空ひばり の 力は世界各地の民族音楽 民俗芸能 民謡を聴く事で見えてくる 。 間違っても アメリカのポピュラーソングや 西洋のハイカルチャーの歌謡を基準にしてはならない。
もっともこうした アメリカのポピュラーソング や西洋のハイカルチャー でさへ その土地の 民謡や民俗芸能を基板にしており、 西洋やアメリカのものであってもそうした民俗芸能や民謡は極めてアジア・アフリカ段階に存在している。もちろんアメリカや西洋のポピュラーソングや西洋のハイカルチャーもこの段階から判断してゆくのが正しく、そこから判断するのであるならば、ある意味での始まりの西洋芸能。始まりのアメリカポピュラーソングの思考から美空ひばりを分析してゆく事だって可能であろう。
まあ何よりも 放浪芸 のあらゆる要素が集積している点は重要であり、彼女が 他の国でも同時多発的に存在した 民族性を象徴してゆくような歌い手だった事が解るであろう。
ラター や カルスーム ネティ ショーシュアン プムプワン マリアタナセ レナ フェラのような存在だ。 それも 美空ひばり の放浪芸の集積率みたいなものは おそらくは上記の歌い手達以上だ。
こうした 視点から はじめて 美空ひばり のとてつもない 射程が見えてくる
腹式呼吸 だ 喉声 だ などという フィジカル的、自然科学的にも 態言語的にもチープな発想で ひばりちゃんを捉える事は不可能だ。 浪花節 や 放浪芸 を喪失したもの達は 哀れだ 根源の歌なしに 何が出来よう。 もちろん 根源の歌が 喪失した 我々だからこそ 出来うる 根源探究のもがきの歌 みたいなものだってある・・・そしてそれはやはり我々に残されたとりあえずの最後のラディカル歌謡にしてオリジン歌謡に近づく力と可能性を秘めたものであらう。
現代の 日本から 美空ひばり が生まれる事は ほぼあり得ない
放浪芸 と 浪花節 が無くなった世から なぜ 美空ひばりちゃんが 発生しようか?
MISIA や 宇多田ヒカル ドリカム と
美空ひばり は ある意味では比べる事は出来まい。
R&Bの根源を何と心得るか?
アフリカ の喪失は アメリカでも早くから進行していた
我々は ブルース の レジェンド達の節や声と 1960年代以降 ~場合によっては1950年代も危ないのだが、 ~
の根源的な節の差をどう捉えるのか?
美空ひばり に お門違いな否定を行い MISIA や 宇多田ヒカル や ドリカムを持ち上げるものがいるとすれば それはどうせ MISIA 宇多田ヒカル ドリカム の事もろくに解っていないか
せいぜい19世紀西洋の 埃をかぶった
思考から判断しているのであろう。
重要な のは 民俗心性 の節への顕れ
古代心性の節への顕れを捉えてゆく事だ。
ただ 美空ひばり だけが 手離しに 絶讚される メディアの傾向も同じように何も解ってはいまい。
ネット上に拡散する 埃をかぶった思考と同様だ。
もはや 美空ひばり を正当に評価出来るものはほとんどいないのだろう。
放浪芸 民俗芸能 世界各地の民謡を聴漁った 耳で 美空ひばり をもう一度聴いてみるがよい。
彼女は 時代時代で様々な顔をみせてくれ、 駄作や無難な作もあるにはある。
東京ドーム は マテリアル的には ボロボロでケアレスミス も多い だがそれをも超える ASCの発動もおこっているのが この公演のなんともアンビバレンスなところだ。
浅草十二階 芸能 の完成もある意味では ひばりにあったという事も出来よう。
どちらにしろ放浪芸や浪花節の集積である美空ひばり が 化石のようにして生きている 今はまだましなのかもしれない・・・ひばりの化石をみるといった竹中の預言はあたったのだ・・・
もしも 美空ひばり の化石さへも が完全に抹殺されるならば その時こそ 我々の放浪芸は 完全に解体されるのかもしれない
マレビトは解体されるのかもしれない…。
放浪芸 と マレビト はこれまでにも 何度も抹殺されてきた
これは 自然の秘密 宇宙の秘密 を知る 芸能であった・・・
我々は この 力が何度も抹殺されてきていて 今また かつてない危機にあるにも関わらず
なぜ 立ち上がろうとは せんのだ?
私は 不思議でしょうがないのだ。
仮にも 芸能 や 歌謡を 愛する 夢だ 人生だ と 語っている もの達が
その 芸能 や 歌謡の母たる
マレビト や 放浪芸能人 の危機や死に気づかないのは・・・。
だがもしかしたら もう・・・
この世界の誰がなんと言おうと 歌、芸能に関する全ての 最高の基準は折口信夫とフースラーの思考を持つ、我々にこそある。
古代~現代までの全ての歌 芸能 から 真の 歌 や芸能に通低する
古代心性を取り出す事が我々の目的だからだ。
時代時代の流行りの勝手な好みを拡散するのも まあ 本当は悪い事ではない
そういう時代時代のモラルセンスを理解する事も我々にとって重要な事でもある。
だがそれと同時に 古代心性 を理解せぬ 者を 変容させてゆく必要もある事も確かな事だ
さて、ネットであまり 美空ひばり を検索しない私なのだが、 美空ひばり の歌をよく理解していない もの達があまりにも 多いようなので 少し話してゆきたいと思う。 と言ってもこれまでも何度も語ってきた事であるが、
私の研究対象からほとんど抜け落ちずにずーっと 寄り添い続けてきたのが美空ひばり である。
美空ひばり の 力は世界各地の民族音楽 民俗芸能 民謡を聴く事で見えてくる 。 間違っても アメリカのポピュラーソングや 西洋のハイカルチャーの歌謡を基準にしてはならない。
もっともこうした アメリカのポピュラーソング や西洋のハイカルチャー でさへ その土地の 民謡や民俗芸能を基板にしており、 西洋やアメリカのものであってもそうした民俗芸能や民謡は極めてアジア・アフリカ段階に存在している。もちろんアメリカや西洋のポピュラーソングや西洋のハイカルチャーもこの段階から判断してゆくのが正しく、そこから判断するのであるならば、ある意味での始まりの西洋芸能。始まりのアメリカポピュラーソングの思考から美空ひばりを分析してゆく事だって可能であろう。
まあ何よりも 放浪芸 のあらゆる要素が集積している点は重要であり、彼女が 他の国でも同時多発的に存在した 民族性を象徴してゆくような歌い手だった事が解るであろう。
ラター や カルスーム ネティ ショーシュアン プムプワン マリアタナセ レナ フェラのような存在だ。 それも 美空ひばり の放浪芸の集積率みたいなものは おそらくは上記の歌い手達以上だ。
こうした 視点から はじめて 美空ひばり のとてつもない 射程が見えてくる
腹式呼吸 だ 喉声 だ などという フィジカル的、自然科学的にも 態言語的にもチープな発想で ひばりちゃんを捉える事は不可能だ。 浪花節 や 放浪芸 を喪失したもの達は 哀れだ 根源の歌なしに 何が出来よう。 もちろん 根源の歌が 喪失した 我々だからこそ 出来うる 根源探究のもがきの歌 みたいなものだってある・・・そしてそれはやはり我々に残されたとりあえずの最後のラディカル歌謡にしてオリジン歌謡に近づく力と可能性を秘めたものであらう。
現代の 日本から 美空ひばり が生まれる事は ほぼあり得ない
放浪芸 と 浪花節 が無くなった世から なぜ 美空ひばりちゃんが 発生しようか?
MISIA や 宇多田ヒカル ドリカム と
美空ひばり は ある意味では比べる事は出来まい。
R&Bの根源を何と心得るか?
アフリカ の喪失は アメリカでも早くから進行していた
我々は ブルース の レジェンド達の節や声と 1960年代以降 ~場合によっては1950年代も危ないのだが、 ~
の根源的な節の差をどう捉えるのか?
美空ひばり に お門違いな否定を行い MISIA や 宇多田ヒカル や ドリカムを持ち上げるものがいるとすれば それはどうせ MISIA 宇多田ヒカル ドリカム の事もろくに解っていないか
せいぜい19世紀西洋の 埃をかぶった
思考から判断しているのであろう。
重要な のは 民俗心性 の節への顕れ
古代心性の節への顕れを捉えてゆく事だ。
ただ 美空ひばり だけが 手離しに 絶讚される メディアの傾向も同じように何も解ってはいまい。
ネット上に拡散する 埃をかぶった思考と同様だ。
もはや 美空ひばり を正当に評価出来るものはほとんどいないのだろう。
放浪芸 民俗芸能 世界各地の民謡を聴漁った 耳で 美空ひばり をもう一度聴いてみるがよい。
彼女は 時代時代で様々な顔をみせてくれ、 駄作や無難な作もあるにはある。
東京ドーム は マテリアル的には ボロボロでケアレスミス も多い だがそれをも超える ASCの発動もおこっているのが この公演のなんともアンビバレンスなところだ。
浅草十二階 芸能 の完成もある意味では ひばりにあったという事も出来よう。
どちらにしろ放浪芸や浪花節の集積である美空ひばり が 化石のようにして生きている 今はまだましなのかもしれない・・・ひばりの化石をみるといった竹中の預言はあたったのだ・・・
もしも 美空ひばり の化石さへも が完全に抹殺されるならば その時こそ 我々の放浪芸は 完全に解体されるのかもしれない
マレビトは解体されるのかもしれない…。
放浪芸 と マレビト はこれまでにも 何度も抹殺されてきた
これは 自然の秘密 宇宙の秘密 を知る 芸能であった・・・
我々は この 力が何度も抹殺されてきていて 今また かつてない危機にあるにも関わらず
なぜ 立ち上がろうとは せんのだ?
私は 不思議でしょうがないのだ。
仮にも 芸能 や 歌謡を 愛する 夢だ 人生だ と 語っている もの達が
その 芸能 や 歌謡の母たる
マレビト や 放浪芸能人 の危機や死に気づかないのは・・・。
だがもしかしたら もう・・・