死生学を必要としている。野生の死生学を・・・
野生の死生学と呼べるようなものは、既に東洋やアフリカにあったであろうし、そもそも旧石器時代の芸能、始まりの芸能の本質は死生学的でもあった。我々芸能人は本来そのエキスパートであらねばならない・・・。我々の先祖である毛坊主的な存在はアジア全土にいたわけだが、それは死の領域を司っていた・・・
東日本大震災から4年、オウム真理教の地下鉄サリン事件から20年、東京大空襲から70年を迎える2015年の3月であるが、 我々、近代人にとって死というものがあまりにも重たすぎるものである事を改めて悟り直している昨今である。
旧石器時代以前の我々は、浸透思考と流動思考を基本としており、それは芸能の要であり、芸能そのものでもあった。
この浸透の思考というものは、我々が死生を、タナトロジーをどう捉えるべきかのヒントになるだろう・・・。
赤瀬川の老人力はやはり重要だ。 我々はあまりにもハンを抱えすぎる傾向があるからだ。 忘れる力を高める事は、今を生きるために重要なのだ。
あの大震災は我々の無意識の肉体と精神の無意識に大きな何かを残した・・・ これを意識化に立ち上げようとするもの、意識したくないのにしてしまう者、それそのものに感心のないものと様々であろうが、あれは日本列島の何か根幹に触れていた・・・東北の中に列島のライフインデキスがあり、そこに何かが起こった事を東北の声、東北の肉体、東北の思考から表出されるであろう明日の神話の発生を待たねばなるまい。
我々はその思考の一つの極としてエラノスにたどり着いている。今こそエラノスの要の一つにエネルゲーティクをおくべきだ。ツカーカンドルの思考を甦らせる時だろう。ツカーカンドルは詩、歌、言葉、思考の源としてのムーシケーをおそろしく古いものとして取り出す事に成功している。
もちろん我々はこれを東北の芸能や思考と交錯させてゆく必要がある。
土方が甦らせようとした東北の肉体をまた別の形で甦らせる必要があるのだ。
我々は宮沢賢治の源にエリスがいた事を知っているし、宮沢賢治は谷川雁により人体交響劇としての至高の甦りをはたしている。農民芸術概論もまた我々が捉え直すべきものであり、鹿踊り、ケンバイ、早池峰神楽も今一度至高の芸能として捉え直すべきであろう。
思えば國學院ではじめて芸能学に触れた時の最初の課題は早池峰神楽であった・・・
エラノス的な甦りがエヴァンゲリオンの中にあるとする指摘はどうにも即席化しすぎな気はするが、ゼーレの思想の中にカバラと共にある事は確かであろう。そもそも死海文書の中にはグノーシス的な思考が散りばめられており、人類補完計画なるものは死海文書をベースに行われている。
またこの物語のベースにフロイトやユングの思考が散りばめられている事も注目にあたいする。はたまたウルトラマンとデビルマンからの影響も見逃せまい。
ウルトラマンとデビルマンに通低するものこそ先住性とマレビト性だ。
またエヴァがカウンターカルチャーやサブカルチャー史においてヤンキーとオタクを再融合させた点も注目にあたいするだろう。
カウンターカルチャーやサブカルチャーの源にあるのはフーテンでもヒッピーでもフラワーチルドレンでもない、はたまたビートニクやボヘミアンでもないのだ。
我々はボヘミアン革命が憧憬を抱いたジョーギーやマンガニヤルにこそカウンターカルチャーやサブカルチャーの真のオリジンをみるべきなのだ。
ここを捉えねば芸能の事やカルチャーの事は何一つとして認識する事は出来ない。
この流れの中から発生したヤンキーやオタクそれからマイルドヤンキーをもエヴァは再統合してゆくきっかけを作っている。
オタク性とヤンキー性が再融合された時に我々の前にはヒッピーやビートニクが顕れる可能性があり、彼等が真の変容を果たした時にネオジョーギーやネオマンガニヤルもしくはネオマレビトと いうべき存在が顕れてくるだろう。
私の研究所には最近 トロットを歌っている方が訪れたがナム・インスとかイファジャあたりは本当に素晴らしい。古賀メロディに近いモラルセンスが宿っており、イファジャに関してはキーセンあがりだからその芸能力たるや本物だ。キーセンこそ真の芸能人であるからだ。
イミジャなナフナなんかもワールドミュージックブーム
の時に流行ったわけだが、最近ではその名を知るものも少なくなってきたか
最近のKpopの中にもこうしたトロット感覚は計量学的にみた場合には継承されていると言える、はたまたエネルゲーティク的にみた場合通低する原旋律的を取り出す事も可能だろう。ナムサダンやヨサダン、ヨウスイセキ、クワンデ、キーセン、更にはムーダンの恨がまだ継承されているのだ。
北朝鮮のあの語り物的な感覚は、ほとんど民衆レベルで生きていて、 アジアの中でも極めて古い感覚を残している。
こうした感覚は大阪の中にもカヤ人の芸能や思考として継承されてきており、日本の語り物の形成にも影響を与えている
また韓国芸能で注目すべきは、メイエルホリドから原演劇と認識されたであろうタルチュムの存在であろう。至高のマレビトの芸能 としてこれは捉えなおす価値がある。
マレビトと言えば最近は、芸能の本質へと目を向けはじめた生徒のラッシュで私としては嬉しい限りだ。ある方は至高の音源ともいうべき竹中労の日本禁歌集を山梨の竹中英太郎美術館まで購入しにいったり、またある方はNHKの折口信夫の特集を見たり、折口信夫全集全巻の購入や日本の放浪芸の購入と芸能の
オリジンを知るための領域へと足を踏み込みはじめている。
フースラーもここを知らねば真には理解出来ないのだ。
フースラーメソードで言ったのはまさにこの事、フースラーメソード発表から2年半ようやく本質的な部分が浸透しはじめた実感がある。
2年半前に私は愛犬が元気な内は・・・とこの日々の日記の中で語った
2015年3月30日13時頃に彼は亡くなった
私は極めて冷静だった
自分の冷酷さを呪うほどに
なぜ涙が出ない!?なぜ悲しくない!?
私はしばらくの間、いわゆる正常性バイアスの中にいたのだ。
今もまだ彼が亡くなったという実感は薄い・・・またひょっこりとあらわれるんじゃないかと心のどこかで思ってしまっている。
病院の先生が、今そこの桜が満開です。桜が咲く時はこの子を思い出しましょう・・・と言われた時・・・
私と彼の散歩道には象徴的な桜があった
桜が満開になると私は桜を見るために立ち止まったが、彼は桜より早く歩きたいと駄々をこねるのだ。
私はこのディスコミュニケーションが大好きだった・・・
犬と人という全く別の環世界を生きながら様々なズレがありながらも
どこかで繋がっている感覚に大きな感動を覚えた
それは対幻想的なのかもしれないが、それでも・・・
私の芸能の歩みは彼と共にあり、彼だけが私の唯一の友であった・・・
16年と3ヶ月、素晴らしい生命力だったぞ・・・医者の先生達が驚くほどに、 生命活動を閉じるにも生命力がいるのだ。生命活動を最高の形で閉じきる前に多くの命は力尽きてゆく、それもまた生命の美しさだが・・・彼は最後の最後まで生ききってくれた・・・
私は君の事を誇りに思う・・・心から礼を言うぞ・・・こんな偏屈なやつと16年間寄り添ってくれた事を・・・
我々は正常性バイアスの中で、永遠に続くかもしれないという錯覚の中で生きているのかもしれない、だが真実は全てはマレビト的な通りすぎゆく存在なのだ・・・消えゆく存在なのだ・・・私にとって君は最高のマレビトであった
道中達者でな、これまで本当にありがとう・・・
武田梵声
野生の死生学と呼べるようなものは、既に東洋やアフリカにあったであろうし、そもそも旧石器時代の芸能、始まりの芸能の本質は死生学的でもあった。我々芸能人は本来そのエキスパートであらねばならない・・・。我々の先祖である毛坊主的な存在はアジア全土にいたわけだが、それは死の領域を司っていた・・・
東日本大震災から4年、オウム真理教の地下鉄サリン事件から20年、東京大空襲から70年を迎える2015年の3月であるが、 我々、近代人にとって死というものがあまりにも重たすぎるものである事を改めて悟り直している昨今である。
旧石器時代以前の我々は、浸透思考と流動思考を基本としており、それは芸能の要であり、芸能そのものでもあった。
この浸透の思考というものは、我々が死生を、タナトロジーをどう捉えるべきかのヒントになるだろう・・・。
赤瀬川の老人力はやはり重要だ。 我々はあまりにもハンを抱えすぎる傾向があるからだ。 忘れる力を高める事は、今を生きるために重要なのだ。
あの大震災は我々の無意識の肉体と精神の無意識に大きな何かを残した・・・ これを意識化に立ち上げようとするもの、意識したくないのにしてしまう者、それそのものに感心のないものと様々であろうが、あれは日本列島の何か根幹に触れていた・・・東北の中に列島のライフインデキスがあり、そこに何かが起こった事を東北の声、東北の肉体、東北の思考から表出されるであろう明日の神話の発生を待たねばなるまい。
我々はその思考の一つの極としてエラノスにたどり着いている。今こそエラノスの要の一つにエネルゲーティクをおくべきだ。ツカーカンドルの思考を甦らせる時だろう。ツカーカンドルは詩、歌、言葉、思考の源としてのムーシケーをおそろしく古いものとして取り出す事に成功している。
もちろん我々はこれを東北の芸能や思考と交錯させてゆく必要がある。
土方が甦らせようとした東北の肉体をまた別の形で甦らせる必要があるのだ。
我々は宮沢賢治の源にエリスがいた事を知っているし、宮沢賢治は谷川雁により人体交響劇としての至高の甦りをはたしている。農民芸術概論もまた我々が捉え直すべきものであり、鹿踊り、ケンバイ、早池峰神楽も今一度至高の芸能として捉え直すべきであろう。
思えば國學院ではじめて芸能学に触れた時の最初の課題は早池峰神楽であった・・・
エラノス的な甦りがエヴァンゲリオンの中にあるとする指摘はどうにも即席化しすぎな気はするが、ゼーレの思想の中にカバラと共にある事は確かであろう。そもそも死海文書の中にはグノーシス的な思考が散りばめられており、人類補完計画なるものは死海文書をベースに行われている。
またこの物語のベースにフロイトやユングの思考が散りばめられている事も注目にあたいする。はたまたウルトラマンとデビルマンからの影響も見逃せまい。
ウルトラマンとデビルマンに通低するものこそ先住性とマレビト性だ。
またエヴァがカウンターカルチャーやサブカルチャー史においてヤンキーとオタクを再融合させた点も注目にあたいするだろう。
カウンターカルチャーやサブカルチャーの源にあるのはフーテンでもヒッピーでもフラワーチルドレンでもない、はたまたビートニクやボヘミアンでもないのだ。
我々はボヘミアン革命が憧憬を抱いたジョーギーやマンガニヤルにこそカウンターカルチャーやサブカルチャーの真のオリジンをみるべきなのだ。
ここを捉えねば芸能の事やカルチャーの事は何一つとして認識する事は出来ない。
この流れの中から発生したヤンキーやオタクそれからマイルドヤンキーをもエヴァは再統合してゆくきっかけを作っている。
オタク性とヤンキー性が再融合された時に我々の前にはヒッピーやビートニクが顕れる可能性があり、彼等が真の変容を果たした時にネオジョーギーやネオマンガニヤルもしくはネオマレビトと いうべき存在が顕れてくるだろう。
私の研究所には最近 トロットを歌っている方が訪れたがナム・インスとかイファジャあたりは本当に素晴らしい。古賀メロディに近いモラルセンスが宿っており、イファジャに関してはキーセンあがりだからその芸能力たるや本物だ。キーセンこそ真の芸能人であるからだ。
イミジャなナフナなんかもワールドミュージックブーム
の時に流行ったわけだが、最近ではその名を知るものも少なくなってきたか
最近のKpopの中にもこうしたトロット感覚は計量学的にみた場合には継承されていると言える、はたまたエネルゲーティク的にみた場合通低する原旋律的を取り出す事も可能だろう。ナムサダンやヨサダン、ヨウスイセキ、クワンデ、キーセン、更にはムーダンの恨がまだ継承されているのだ。
北朝鮮のあの語り物的な感覚は、ほとんど民衆レベルで生きていて、 アジアの中でも極めて古い感覚を残している。
こうした感覚は大阪の中にもカヤ人の芸能や思考として継承されてきており、日本の語り物の形成にも影響を与えている
また韓国芸能で注目すべきは、メイエルホリドから原演劇と認識されたであろうタルチュムの存在であろう。至高のマレビトの芸能 としてこれは捉えなおす価値がある。
マレビトと言えば最近は、芸能の本質へと目を向けはじめた生徒のラッシュで私としては嬉しい限りだ。ある方は至高の音源ともいうべき竹中労の日本禁歌集を山梨の竹中英太郎美術館まで購入しにいったり、またある方はNHKの折口信夫の特集を見たり、折口信夫全集全巻の購入や日本の放浪芸の購入と芸能の
オリジンを知るための領域へと足を踏み込みはじめている。
フースラーもここを知らねば真には理解出来ないのだ。
フースラーメソードで言ったのはまさにこの事、フースラーメソード発表から2年半ようやく本質的な部分が浸透しはじめた実感がある。
2年半前に私は愛犬が元気な内は・・・とこの日々の日記の中で語った
2015年3月30日13時頃に彼は亡くなった
私は極めて冷静だった
自分の冷酷さを呪うほどに
なぜ涙が出ない!?なぜ悲しくない!?
私はしばらくの間、いわゆる正常性バイアスの中にいたのだ。
今もまだ彼が亡くなったという実感は薄い・・・またひょっこりとあらわれるんじゃないかと心のどこかで思ってしまっている。
病院の先生が、今そこの桜が満開です。桜が咲く時はこの子を思い出しましょう・・・と言われた時・・・
私と彼の散歩道には象徴的な桜があった
桜が満開になると私は桜を見るために立ち止まったが、彼は桜より早く歩きたいと駄々をこねるのだ。
私はこのディスコミュニケーションが大好きだった・・・
犬と人という全く別の環世界を生きながら様々なズレがありながらも
どこかで繋がっている感覚に大きな感動を覚えた
それは対幻想的なのかもしれないが、それでも・・・
私の芸能の歩みは彼と共にあり、彼だけが私の唯一の友であった・・・
16年と3ヶ月、素晴らしい生命力だったぞ・・・医者の先生達が驚くほどに、 生命活動を閉じるにも生命力がいるのだ。生命活動を最高の形で閉じきる前に多くの命は力尽きてゆく、それもまた生命の美しさだが・・・彼は最後の最後まで生ききってくれた・・・
私は君の事を誇りに思う・・・心から礼を言うぞ・・・こんな偏屈なやつと16年間寄り添ってくれた事を・・・
我々は正常性バイアスの中で、永遠に続くかもしれないという錯覚の中で生きているのかもしれない、だが真実は全てはマレビト的な通りすぎゆく存在なのだ・・・消えゆく存在なのだ・・・私にとって君は最高のマレビトであった
道中達者でな、これまで本当にありがとう・・・
武田梵声