デジマ様、カワサキ様コメントありがとうございます。
絵画の場合、古今東西全ジャンルの基本となる。零の絵画というものがあるとするならば、それは洞窟壁画や動産芸術、岩陰彫刻といった旧石器時代の芸能を捉えたところから可能になると謂えるでしょう。この事を本当にラディカルに捉えたのはおそらくはバタイユ位ではないでしょうか?彼はラスコー人~マネまでを語り、絵画の本質を語りました。またスペインの中に東洋性を発見しています。
ラスコー人の中にあらゆる絵画に通低する基層を発見し、マネの中に主題を抹殺するというモダンアートの発生をみたわけです。
ただこうした射程までを含んだ実践的な絵画教育、美術教育は残念ながら知りません、思想やラディカルな学問が捉えたそれが実践教育におりてくるにはまだまだ時間が必要なような気がします。
さて、ラスコー人の洞窟壁画を知るには、アボリジニーやコイサンのロックアートも知るとよいでしょうし、ルロワグーランやブルイユ神父による先史芸術研究も知る必要があるように思います。またその他のアフリカやオセアニアのいわゆるプリミティブアートも助けになると思われます。
またこういった事への射程を総合的に持っていたのは、やはり岡本太郎や宗左近でしょうか、
太郎の中には上述のバタイユ理論やマルセルモース、それからエラノス最大の巨人エリアーデの理論が注がれていますし、太郎の父はストーリー漫画の真の祖である岡本一平です。
またエリアーデの中にはスラヴィク経由で岡の秘密結社とマレビト論、すなわち岡は折口信夫の理論を自身の人類學的な理論の基本にしたわけであり、エリアーデの中には折口信夫のマレビト論が岡~スラヴィクという流れで注がれているわけです。
太郎は世界各地の仮面芸能に使われるマレビトの仮面の眼を自身の絵画のまさにアクシスムンディに据えました。このマレビトの仮面もあらゆる芸術の基層にあるものと考えて良いですし、
このマレビトの芸能と連動する形で神話や昔話、すなわち物語の元型が発生してゆきました。
漫画のストーリー創作のベースにはこういったマレビト達の物語がある事は、一つおさえておくべきところでしょうか
ここから折口信夫は貴種流離譚や聖なる水の力で再生させる神の嫁の物語という。最も元型となる話を抽出してゆきます。漫画の多くもこの元型を基層にして書かれています。例えば藤子作品の大半は貴種流離譚やマレビト論で説明がつきますし、仮面ライダー、スーパー戦隊といった石ノ森作品もマレビトや仮面芸能の直系の子孫ですし、その先行作品となる月光仮面、七色仮面、ナショナルキッドそれからウルトラマンやゴジラもマレビト的な存在として物語を動かしてゆきます。
また近代的な仮面ヒーローの元祖の元祖と考えられるのがアラカンの鞍馬天狗でして、全ての特撮ヒーローの源といっていいでしょう。アラカンになると映画の本質も見えてくると思われます。そもそも日本漫画のルーツと一般に言われる鳥羽僧正の戯画も映画的な思考とのリンクがよく言われていますし、手塚も映画的な手法を漫画の中に取り込んでゆきました。キートン、ロイド、チャプリンの肉体も胸叩き的な肉体とシンクレさせていったのがアラカンで、キートン、ロイド、チャプリンのベースにはコメディアデラルテがあるわけです。
特撮技術そのものは円谷やキングコング、ロストワールドそれからコナンドイル等にも繋がりを持ちますし、円谷作品はアニメクリエーターにも多大な影響を与えています。
聖なる水の力で再生させる少女(神の嫁)の話を現代的に蘇らせたものの代表は意外ながらドラゴンボールです。ちなみに聖なる水の力で再生させる少女の話は折口信夫により死者の書として描かれました。
龍とはそもそも水の聖なる力がヒエロファニーした存在であり、その聖なる水は世界や死者を再生させる力をもちます。そしてその再生させる力を操るのが少女が発明したドラゴンレーダーという事になるわけです。
西遊記もまた桃太郎やラーマーヤナとの繋がりや神仙思想との繋がりを持った昔話ゆえに深い射程をもちます。浅草十二階最大の芸能人であった辻潤にも多大な影響をスティルナーやロンブロゾーと並んで与えた物語でもあります。
またアメコミからの影響も鳥山は大きく、鳥山ワールドの基本はDrスランプの初期に確立されたと考えられています。またドラゴンボールの後半にGLAの思想がある事も一つ注目に値するでしょう。まあこれはアニメオリジナルの発想でしょうが、
後は中華武術、この源には水滸伝があります。水滸伝こそあらゆる中華武術を集大成する物語です。またダヌルヴェーダの影響も中華武術関係では思考する必要はあるかもしれません。当然そこにはケーララの基層の身体性があり、ブータやテイヤムとの関連も生まれてきます。
折口信夫のマレビト論を考える時にロンブロゾーの犯罪心理学、犯罪人類学、天才論、パトグラフィーは極めて重要でしょう。特にアタヴィズム論は一つの核となると謂っていいでしょう。このアタヴィズム論から考えるならば現在天才と認識されている天才の大半は天才などではありません、天才というのはもっともっと古代的な存在であり、それでしか有り得ない存在です。現在一般に認識されている天才は資本主義や世のモラルセンス、神智学がいうところの時代霊的なるものと
たまたまあっただけに過ぎないでしょう。
絵画の基本として水墨画や書、日本画、大和絵はやっておくと良いでしょう。日本画教育の源には岡倉天心がいるでしょうが、何よりも私は竹内栖鳳の中に日本画の基本を見ています。それは魯山人の総合芸術の美的原光景となったものです。また金沢の民俗料理や田螺も魯山人の源として注目すべきものでしょう。
天心の基層には茶から日本の美を思考する方法があった事はご存知の事と思われます。
また日本美術は元より東アジア美術の基本にある精神こそ気韻生動と呼ばれる対象の生命力を描く力で六法の最も基層にある運動と考えられています。
インドのラサ理論の精神は東南アジア~南アジア美術の基本的な精神にもなってゆきました。雪舟や等伯からは禅の核となる運動を実感してゆく事が出来るでしょう。
また柳宗悦の民芸運動は日本人にとっては、あらゆる芸術の、芸能の原点の一つであると謂っていいでしょう。宗悦は大拙からの影響もあり、間接的にはスウェーデンボルグやギンズバーグ等のビートニクス詩人との関連も出てきます。
思えば、私は元々、日本画や書画、水墨画に囲まれて幼少を過ごし、客人には浪花師、落語家といった寄席芸人が数多くいました。今となっては伝説的な名人達の芸を本当に身近で見る事が出来ました。また日本漫画のオリジンにして、大正ダダ、浅草十二階芸能の中心人物の一人であった田河水泡先生も我が家をよく訪れた名人でした。祖母からは折口信夫古代芸能学のドローンと申してもよい日想観を学び、鈴木大拙によりエラノスの会議の要の芸能にまで昇華された妙好人の思考も学びました。祖父からはオキナガやカジリ法といった古神道、
神仙の思想を学んでいたわけで、何やらこのあたりの事は私にとっても原点になるわけです。フロイト的な解釈をするならば幼少児の情動や思考の発生は、全く私にとっての古代であり、それは古代人の情動や思考の発生とパラレルで連動してゆくわけです。
デジマ様の漫画道を予祝致します。
さてカワサキ様、武田梵声門下がすべき芸能ですが、基本的にはやりたいようにやってくれればいいと思っています。
皆それぞれのニーズを叶えるために私の研究所に通っていますので、あくまでも生理の解放と芸能の古代心性を捉えたら、後は好きなようにすれば良いわけです。生理解放前や古代心性を捉える前は、極論何もしたくなければしなくてもいいと思っています。
そもそも芸能の本質は、まあハリダースのように自然や神に向けて歌う事であり、太陽に向けて歌うタマフリであり、大地を再生させるヘンベであり、インイロテンポーレへ回帰させる籠りにこそあるわけです。
まあ、あえて芸能学的にどのような芸能をすべきかと謂うならば上記のような芸能を捉え、超芸能の発生を目指すべきだと考えています。これこそ折口信夫古代芸能学~エラノスそして浅草12階芸能の目指す至高の芸能です。
ですので具体的に謂うならば漂泊芸能を学びそれをある意味でのアバンギャルド芸能へと昇華させてゆく事でしょうか、
またはじまりの芸能、マレビトの芸能、漂泊芸能、アフリカ的段階の芸能、古代芸能、等々の芸能のオリジンを真に捉えたならば極論全ての芸能はこの芸能のオリジンが芸能分化理法により古代~中世~近世~近代と世界各地で無数の芸能を発生させたものである事を実感するでしょうから、そうなれば各芸能を最も根源の場で表出する事が出来るのです。
AKBやモーニング娘を歌う場合も旧石器時代人や縄文人の流動と浸透の運動が思考や情動の根源の場で行われていなければならないわけです。
ただ芸能の根源の場から最も遠ざかったのはこうしたポップカルチャーよりもむしろ19世紀西ヨーロッパ的なハイカルチャー芸能ですが、こうした思考や概念の発生もボードレールといった極めてラディカルなデカダン詩人の中にあったものでした。また19世紀西ヨーロッパ的なハイカルチャー芸能の代表であるグランドオペラやハイカルチャー的な面を持ったミュージカルなども元々はナポリ俚謡やミンストレル、ボードビルといった漂泊芸能から発生してきたものであり、その段階の力を自己表出する事でハイカルチャー化により腐敗した芸能も再生させる事が出来るわけです。要するに12階芸能のライフインデキスであった浅草オペラのようにです。田谷や原信子や清水金太郎、
藤原義江の中にもハイカルチャー的な精神やベクトルはありました特に原信子はそれが強かったが、しかしながら彼らのなかには浅草的な漂泊芸能の力も他のどの芸能よりも大きく働いていたためあれだけの怪物になっていったわけです。
アクシスムンディも愛もヌミノーゼも唯一神も全部 無数に顕れるのだ。 その事を理解出来ないものは、やはり腐ったヌミノーゼの中におるのだろう。 そして腐ったヌミノーゼも腐った愛ももやは愛でもヌミノーゼでもないのにそれをそれだと誤解していつまでもしがみつこうとするのだ。ただいつまでもしがみつき抜く事で愛もヌミノーゼも再びヒエロファニーする場合もあり得る事だ。もちろん加減を誤れば腐敗しっぱなしなのは謂うまでもない。
愛の塔はそれ一つで宇宙の中心にして未来と古代と今の全てを含むものだ。
だがその愛の塔は現界の視点から見た時には無数に建てる事も可能なのだ。すなわち我々の目からすれば世界は無数に存在する事になるが、それで構わないのだ。
恋愛共同体はボードレールも菜食主義者もユウランも折口もヒッピーもフウテンもアナキストも皆が試みたものだ。 この菜食主義者の共同体と恋愛共同体というものは、我々に多大なヒントを与えてくれる事になるだろう。私は菜食主義者ではないし、菜食主義は食の本義から考えるならばやや浅はかな思想ではある、だがこの思想を源としながら、我々が基本とし、目指すべき超芸能を発生さすための超芸能思想は後に花開く事となるのだ。
愛を保存するのは、ヌミノーゼの保存に近い、そしてそれは腐る だが永い時を経る事で時間による沸騰により愛は再び 新たな形と光りを取り戻す。それもまた 美しいものだ。
ロマンティックラブイデオロギーとモノガミーを規範とした社会に生きている以上、我々はその矛盾に葛藤するのは仕方のない事かもしれない。ロマンティックラブイデオロギーもモノガミーもその根源においては芸能や変容と密接な関係を持つが、やはり解体せねばならない思考と情動である。
我々はオノマトペの中に思考や情動、言語が交錯した根源的な力をみる事が出来る。折口信夫もアルトーもロシアフォルマニズムも未来派もダダイストもこの力に魅了されたのだ。
オノマトペと伝承童謡を交錯させてゆく事で我々は芸能のひとつのオリジンを観る事が出来る。 演技の基本とはまったくオノマトペの中にあるのである。
死者の書は、まったくいまもって至高である。この中には古代芸能~芸能分化理法~メタ芸能、オノマトペ、アナロジー、洞窟の芸能~映画的表出、夢遊病、 死霊、マレビト、籠りの至高としての日想観、そして原初の恋愛があり、原初の物語の構造さへもが組み込まれている。それからあらゆるモノが交錯した存在としての珊瑚が象徴的に描かれている。
マレビトは、天皇陛下とホカヒとジャレメをその語彙の含蓄として捉えてゆく事で、そのフォルスは無限に解放されてゆく。
やはり我々の至高はどこまでもマレビトという語彙の中にある。要するにそれをどこまでも深く捉え、実践に立ち上げられるかなのだ。超芸能というのもやはり超マレビトというべき存在によってなし得るのだ。
我々は2年前に折口信夫に唾をかけた。 そしてこうも言った・・・折口信夫は再びとてつもない怪物として復活するであろうと
今まさに折口信夫はとてつもない超芸能獸として復活する時に来ている。
エラノスの根源にいたのも折口信夫であったのだ。
我々はロンブロゾーのアタヴィズムを通じて辻と折口が結ばれてゆく事を知るだろう。
また折口からエラノスまでの基礎にいたのがミトラ教の密儀でありユリアヌスであった事を捉え直してゆく必要がある。
そして我々はエラノスの根源にへと入ってゆくのだ。我々はここで至高の自在な肉体に出会う事となる。また菜食主義というものをもう一度思考し直す事、それから地母神の思考を捉え直してゆく事が必要になってくるイサドラもまた怪物として蘇り、ブラヴァッキーもまた新たな姿で復活を果す事と思われる・・・
絵画の場合、古今東西全ジャンルの基本となる。零の絵画というものがあるとするならば、それは洞窟壁画や動産芸術、岩陰彫刻といった旧石器時代の芸能を捉えたところから可能になると謂えるでしょう。この事を本当にラディカルに捉えたのはおそらくはバタイユ位ではないでしょうか?彼はラスコー人~マネまでを語り、絵画の本質を語りました。またスペインの中に東洋性を発見しています。
ラスコー人の中にあらゆる絵画に通低する基層を発見し、マネの中に主題を抹殺するというモダンアートの発生をみたわけです。
ただこうした射程までを含んだ実践的な絵画教育、美術教育は残念ながら知りません、思想やラディカルな学問が捉えたそれが実践教育におりてくるにはまだまだ時間が必要なような気がします。
さて、ラスコー人の洞窟壁画を知るには、アボリジニーやコイサンのロックアートも知るとよいでしょうし、ルロワグーランやブルイユ神父による先史芸術研究も知る必要があるように思います。またその他のアフリカやオセアニアのいわゆるプリミティブアートも助けになると思われます。
またこういった事への射程を総合的に持っていたのは、やはり岡本太郎や宗左近でしょうか、
太郎の中には上述のバタイユ理論やマルセルモース、それからエラノス最大の巨人エリアーデの理論が注がれていますし、太郎の父はストーリー漫画の真の祖である岡本一平です。
またエリアーデの中にはスラヴィク経由で岡の秘密結社とマレビト論、すなわち岡は折口信夫の理論を自身の人類學的な理論の基本にしたわけであり、エリアーデの中には折口信夫のマレビト論が岡~スラヴィクという流れで注がれているわけです。
太郎は世界各地の仮面芸能に使われるマレビトの仮面の眼を自身の絵画のまさにアクシスムンディに据えました。このマレビトの仮面もあらゆる芸術の基層にあるものと考えて良いですし、
このマレビトの芸能と連動する形で神話や昔話、すなわち物語の元型が発生してゆきました。
漫画のストーリー創作のベースにはこういったマレビト達の物語がある事は、一つおさえておくべきところでしょうか
ここから折口信夫は貴種流離譚や聖なる水の力で再生させる神の嫁の物語という。最も元型となる話を抽出してゆきます。漫画の多くもこの元型を基層にして書かれています。例えば藤子作品の大半は貴種流離譚やマレビト論で説明がつきますし、仮面ライダー、スーパー戦隊といった石ノ森作品もマレビトや仮面芸能の直系の子孫ですし、その先行作品となる月光仮面、七色仮面、ナショナルキッドそれからウルトラマンやゴジラもマレビト的な存在として物語を動かしてゆきます。
また近代的な仮面ヒーローの元祖の元祖と考えられるのがアラカンの鞍馬天狗でして、全ての特撮ヒーローの源といっていいでしょう。アラカンになると映画の本質も見えてくると思われます。そもそも日本漫画のルーツと一般に言われる鳥羽僧正の戯画も映画的な思考とのリンクがよく言われていますし、手塚も映画的な手法を漫画の中に取り込んでゆきました。キートン、ロイド、チャプリンの肉体も胸叩き的な肉体とシンクレさせていったのがアラカンで、キートン、ロイド、チャプリンのベースにはコメディアデラルテがあるわけです。
特撮技術そのものは円谷やキングコング、ロストワールドそれからコナンドイル等にも繋がりを持ちますし、円谷作品はアニメクリエーターにも多大な影響を与えています。
聖なる水の力で再生させる少女(神の嫁)の話を現代的に蘇らせたものの代表は意外ながらドラゴンボールです。ちなみに聖なる水の力で再生させる少女の話は折口信夫により死者の書として描かれました。
龍とはそもそも水の聖なる力がヒエロファニーした存在であり、その聖なる水は世界や死者を再生させる力をもちます。そしてその再生させる力を操るのが少女が発明したドラゴンレーダーという事になるわけです。
西遊記もまた桃太郎やラーマーヤナとの繋がりや神仙思想との繋がりを持った昔話ゆえに深い射程をもちます。浅草十二階最大の芸能人であった辻潤にも多大な影響をスティルナーやロンブロゾーと並んで与えた物語でもあります。
またアメコミからの影響も鳥山は大きく、鳥山ワールドの基本はDrスランプの初期に確立されたと考えられています。またドラゴンボールの後半にGLAの思想がある事も一つ注目に値するでしょう。まあこれはアニメオリジナルの発想でしょうが、
後は中華武術、この源には水滸伝があります。水滸伝こそあらゆる中華武術を集大成する物語です。またダヌルヴェーダの影響も中華武術関係では思考する必要はあるかもしれません。当然そこにはケーララの基層の身体性があり、ブータやテイヤムとの関連も生まれてきます。
折口信夫のマレビト論を考える時にロンブロゾーの犯罪心理学、犯罪人類学、天才論、パトグラフィーは極めて重要でしょう。特にアタヴィズム論は一つの核となると謂っていいでしょう。このアタヴィズム論から考えるならば現在天才と認識されている天才の大半は天才などではありません、天才というのはもっともっと古代的な存在であり、それでしか有り得ない存在です。現在一般に認識されている天才は資本主義や世のモラルセンス、神智学がいうところの時代霊的なるものと
たまたまあっただけに過ぎないでしょう。
絵画の基本として水墨画や書、日本画、大和絵はやっておくと良いでしょう。日本画教育の源には岡倉天心がいるでしょうが、何よりも私は竹内栖鳳の中に日本画の基本を見ています。それは魯山人の総合芸術の美的原光景となったものです。また金沢の民俗料理や田螺も魯山人の源として注目すべきものでしょう。
天心の基層には茶から日本の美を思考する方法があった事はご存知の事と思われます。
また日本美術は元より東アジア美術の基本にある精神こそ気韻生動と呼ばれる対象の生命力を描く力で六法の最も基層にある運動と考えられています。
インドのラサ理論の精神は東南アジア~南アジア美術の基本的な精神にもなってゆきました。雪舟や等伯からは禅の核となる運動を実感してゆく事が出来るでしょう。
また柳宗悦の民芸運動は日本人にとっては、あらゆる芸術の、芸能の原点の一つであると謂っていいでしょう。宗悦は大拙からの影響もあり、間接的にはスウェーデンボルグやギンズバーグ等のビートニクス詩人との関連も出てきます。
思えば、私は元々、日本画や書画、水墨画に囲まれて幼少を過ごし、客人には浪花師、落語家といった寄席芸人が数多くいました。今となっては伝説的な名人達の芸を本当に身近で見る事が出来ました。また日本漫画のオリジンにして、大正ダダ、浅草十二階芸能の中心人物の一人であった田河水泡先生も我が家をよく訪れた名人でした。祖母からは折口信夫古代芸能学のドローンと申してもよい日想観を学び、鈴木大拙によりエラノスの会議の要の芸能にまで昇華された妙好人の思考も学びました。祖父からはオキナガやカジリ法といった古神道、
神仙の思想を学んでいたわけで、何やらこのあたりの事は私にとっても原点になるわけです。フロイト的な解釈をするならば幼少児の情動や思考の発生は、全く私にとっての古代であり、それは古代人の情動や思考の発生とパラレルで連動してゆくわけです。
デジマ様の漫画道を予祝致します。
さてカワサキ様、武田梵声門下がすべき芸能ですが、基本的にはやりたいようにやってくれればいいと思っています。
皆それぞれのニーズを叶えるために私の研究所に通っていますので、あくまでも生理の解放と芸能の古代心性を捉えたら、後は好きなようにすれば良いわけです。生理解放前や古代心性を捉える前は、極論何もしたくなければしなくてもいいと思っています。
そもそも芸能の本質は、まあハリダースのように自然や神に向けて歌う事であり、太陽に向けて歌うタマフリであり、大地を再生させるヘンベであり、インイロテンポーレへ回帰させる籠りにこそあるわけです。
まあ、あえて芸能学的にどのような芸能をすべきかと謂うならば上記のような芸能を捉え、超芸能の発生を目指すべきだと考えています。これこそ折口信夫古代芸能学~エラノスそして浅草12階芸能の目指す至高の芸能です。
ですので具体的に謂うならば漂泊芸能を学びそれをある意味でのアバンギャルド芸能へと昇華させてゆく事でしょうか、
またはじまりの芸能、マレビトの芸能、漂泊芸能、アフリカ的段階の芸能、古代芸能、等々の芸能のオリジンを真に捉えたならば極論全ての芸能はこの芸能のオリジンが芸能分化理法により古代~中世~近世~近代と世界各地で無数の芸能を発生させたものである事を実感するでしょうから、そうなれば各芸能を最も根源の場で表出する事が出来るのです。
AKBやモーニング娘を歌う場合も旧石器時代人や縄文人の流動と浸透の運動が思考や情動の根源の場で行われていなければならないわけです。
ただ芸能の根源の場から最も遠ざかったのはこうしたポップカルチャーよりもむしろ19世紀西ヨーロッパ的なハイカルチャー芸能ですが、こうした思考や概念の発生もボードレールといった極めてラディカルなデカダン詩人の中にあったものでした。また19世紀西ヨーロッパ的なハイカルチャー芸能の代表であるグランドオペラやハイカルチャー的な面を持ったミュージカルなども元々はナポリ俚謡やミンストレル、ボードビルといった漂泊芸能から発生してきたものであり、その段階の力を自己表出する事でハイカルチャー化により腐敗した芸能も再生させる事が出来るわけです。要するに12階芸能のライフインデキスであった浅草オペラのようにです。田谷や原信子や清水金太郎、
藤原義江の中にもハイカルチャー的な精神やベクトルはありました特に原信子はそれが強かったが、しかしながら彼らのなかには浅草的な漂泊芸能の力も他のどの芸能よりも大きく働いていたためあれだけの怪物になっていったわけです。
アクシスムンディも愛もヌミノーゼも唯一神も全部 無数に顕れるのだ。 その事を理解出来ないものは、やはり腐ったヌミノーゼの中におるのだろう。 そして腐ったヌミノーゼも腐った愛ももやは愛でもヌミノーゼでもないのにそれをそれだと誤解していつまでもしがみつこうとするのだ。ただいつまでもしがみつき抜く事で愛もヌミノーゼも再びヒエロファニーする場合もあり得る事だ。もちろん加減を誤れば腐敗しっぱなしなのは謂うまでもない。
愛の塔はそれ一つで宇宙の中心にして未来と古代と今の全てを含むものだ。
だがその愛の塔は現界の視点から見た時には無数に建てる事も可能なのだ。すなわち我々の目からすれば世界は無数に存在する事になるが、それで構わないのだ。
恋愛共同体はボードレールも菜食主義者もユウランも折口もヒッピーもフウテンもアナキストも皆が試みたものだ。 この菜食主義者の共同体と恋愛共同体というものは、我々に多大なヒントを与えてくれる事になるだろう。私は菜食主義者ではないし、菜食主義は食の本義から考えるならばやや浅はかな思想ではある、だがこの思想を源としながら、我々が基本とし、目指すべき超芸能を発生さすための超芸能思想は後に花開く事となるのだ。
愛を保存するのは、ヌミノーゼの保存に近い、そしてそれは腐る だが永い時を経る事で時間による沸騰により愛は再び 新たな形と光りを取り戻す。それもまた 美しいものだ。
ロマンティックラブイデオロギーとモノガミーを規範とした社会に生きている以上、我々はその矛盾に葛藤するのは仕方のない事かもしれない。ロマンティックラブイデオロギーもモノガミーもその根源においては芸能や変容と密接な関係を持つが、やはり解体せねばならない思考と情動である。
我々はオノマトペの中に思考や情動、言語が交錯した根源的な力をみる事が出来る。折口信夫もアルトーもロシアフォルマニズムも未来派もダダイストもこの力に魅了されたのだ。
オノマトペと伝承童謡を交錯させてゆく事で我々は芸能のひとつのオリジンを観る事が出来る。 演技の基本とはまったくオノマトペの中にあるのである。
死者の書は、まったくいまもって至高である。この中には古代芸能~芸能分化理法~メタ芸能、オノマトペ、アナロジー、洞窟の芸能~映画的表出、夢遊病、 死霊、マレビト、籠りの至高としての日想観、そして原初の恋愛があり、原初の物語の構造さへもが組み込まれている。それからあらゆるモノが交錯した存在としての珊瑚が象徴的に描かれている。
マレビトは、天皇陛下とホカヒとジャレメをその語彙の含蓄として捉えてゆく事で、そのフォルスは無限に解放されてゆく。
やはり我々の至高はどこまでもマレビトという語彙の中にある。要するにそれをどこまでも深く捉え、実践に立ち上げられるかなのだ。超芸能というのもやはり超マレビトというべき存在によってなし得るのだ。
我々は2年前に折口信夫に唾をかけた。 そしてこうも言った・・・折口信夫は再びとてつもない怪物として復活するであろうと
今まさに折口信夫はとてつもない超芸能獸として復活する時に来ている。
エラノスの根源にいたのも折口信夫であったのだ。
我々はロンブロゾーのアタヴィズムを通じて辻と折口が結ばれてゆく事を知るだろう。
また折口からエラノスまでの基礎にいたのがミトラ教の密儀でありユリアヌスであった事を捉え直してゆく必要がある。
そして我々はエラノスの根源にへと入ってゆくのだ。我々はここで至高の自在な肉体に出会う事となる。また菜食主義というものをもう一度思考し直す事、それから地母神の思考を捉え直してゆく事が必要になってくるイサドラもまた怪物として蘇り、ブラヴァッキーもまた新たな姿で復活を果す事と思われる・・・