ある統計によると世の中全体で最近はボイストレーニングを受けたいと思う者の数が減っているらしい。 ボイストレーニングの認知度は上がっている らしいが、これはボイストレーニングの紹介動画がネット上に氾濫しているのが原因と考えられているようだ。
それにより多くの者が「ボイストレーニングなんて検索すれば出来るし、」と思っているらしいのだ。
まあネット上に増殖しているボイストレーニングを良いだ悪いだ 言う事自体がもはや意味がないが、
基本的に声の学習者の多くは自身のリテラシーの無さと、耳と感覚の悪さを疑った方がいいように思うのだ。
ボイストレーニングというのは、声の前に先ずはそこを変えねばならない。
要するに脳や思考のパラダイムシフトがなければ声の変容も中々に難しいだろう。
19世紀型のボイストレーニングと17世紀型の訓練の差異さへ分からない者が世には溢れかかえっている。
それは結局は非科学的かつ芸能破壊のモラルセンスを世に増殖さす事に繋がる事にさへ気づいていないのだから残念だ。
結論を謂うならばネット上に増殖した非科学的なミックスボイスやその他もろもろのボイストレーニングなどでは声の変容は起こりえない。もし起こったとすれば、その者が偽りのミックスボイスの根に僅かに残存するやもしれないプレミックスボイスすなわち19世紀に改変される以前の17世紀型レジストレーションを発見出来るほどの優れた夢遊病の耳を持っていた可能性がある、もしくは声の変容は単なる勘違いだ。
私はそもそもボイストレーニングという語彙が嫌いだ。またボイストレーナーという語彙も嫌いだ。便宜的に上記のタイトルや肩書きも使うが、このあまりにも浅はかな概念に塗り潰された語彙が何とも言えない気持ちにさせるのだ。
そもそも発声訓練教師とはフースラーとその周辺からしか顕れようがないものなのだ。
後はボーカルトレーナーすなわち歌唱モラルセンス教師である。世に溢れている自称ボイストレーナーの大半は歌唱モラルセンス教師であるという事を知るべきであろう。
いわゆるsls協会系のボイストレーナーというのも一部のチェザリーの射程に気付いたネオslsと呼んでいいボイストレーナーを除いては、基本的には同じだ。
そもそも19世紀型のボイストレーニング自体がかなりの部分が近代的なモラルセンス訓練であり、声の野生に働きかけるものではないからだ。slsの大半もこの19世紀型やアメリカショービジネスのモラルセンス教師になっている場合がほとんどであり野生を聴けているものはほとんどいないのが現状であろう。
ただし、以前の記事にも書いたようにsls協会系ボイストレーナーの中からチェザリーの真の射程やあのカリフォルニアの地におこったムーブメントの射程にも気付きだしている謂わばネオslsが発生しつつあり、それこそはチェザリーをフースラーに匹敵するものとして高められる可能性があると申していいだろう。どちらにしろ従来型のslsは解体してゆくべきだ。あなた達の大好きなアメリカショービジネスの歌い手達があの従来型のsls訓練で育ったと考える事自体が大きな間違いだ。彼等を育てたのは、民謡だ。俚謡だ。ビッグビルブルンジーの思考が辛うじて生きている事だ。それはアメリカの地が未だに若者たちからもハリースミスコレクションが聴かれている事と関連するだろう。また、いまやレジェンド化している例えばアレサフランクリンやオーティスレディングそれからJB
といったリズムアンドブルースのパイオニア達の時代には今よりも遥かにアフリカ性はアメリカに残っていた。もちろんテキサスアレキサンダーほどのアフロ性はそこには無いのだが、もしくはアパラチアの民謡やボーディソングやボーディブルースもこういったモラルセンスにまさにソウルを増殖させるための原動力になっていたのだ。
(そもそものところでチェザリーの射程はフースラーに劣るものであった。17世紀的な西ヨーロッパの中にあるアジア段階への射程がチェザリーとリードのものであり、フースラーはそこを入り口にしながらももっともっと深い段階、それは旧石器時代をも突き抜け言語獲得以前という段階。ある意味でアフリカ的段階以前の段階にまで到達しているのだ。それは民謡研究の射程と見事に合致する。というよりフースラーはヘルダーやシャープ、ザッグス、ロマックスといった原初の民謡、俚謡の思考をその発声学の中枢に呑み込んだのだ。リードとチェザリーにはこの芸能の核が抜け落ちたがためにアジア段階に止まってしまったのだ。
しかしながらチェザリーはアメリカの地とシンクレをおこす事でアフリカの俚謡を呑み込みだしている。チェザリーがアフリカを呑み込む事ではじめてチェザリー学派はフースラーに匹敵する射程を持ち出してくると言える。)
真のボイストレーナーと謂うのは
~夢遊病のボイストレーナー~である
面白い事に折口信夫の思考や文体もかつて
~夢遊病の文体~
と呼ばれた。
至高のボイストレーナーと謂うのは
トージ、マンチーニ、カッチーニ、ポルポラ、マンフレディーニ、ミクシュ
といった17世紀型のボイストレーナーであり、フースラー、チェザリーが理想としたのもこういった面々であった。
これらのボイストレーナー達が使った態こそが野生を聴くという態である。
その野生を聴く力こそが~夢遊病の態~なのである。
モラルセンス教師は野生ではなく、モラルセンスを聴く事になるから結局、生理の解放を行う事は出来ないのだ。
私はこれまでにも多くの芸能教師に諸々の芸能指導法の教授を行ってきているが、フースラー発声学や折口信夫古代芸能学の全容が伝わるところまで指導出来たかと問われれば、中々に難しいところである。
それほどにこの全容を把握した教師を育成するには時間と根気が必要である。
私はこういった芸能教師や発声訓練教師を育成するための専門のコースをオルフェ芸能研究所のコースとして設けようと考え出している。
またこうしたラディカルな芸能訓練が世に拡散していかない最大の原因は諸君達や私自身にあると言えよう。それは何よりも我々がある種の浮世離れした存在であるという事だ。
ラディカルな思考や芸能に興味が向くようなものの大半はそういった傾向がある。だから積極的にそういったものを世の中に拡散させようとはしないし、むしろ隠そうとすらする。芸能の本質は確かに秘技にある。それゆえにその段階はそう簡単には見えないものだ。
だが、ここらで我々は3万人の変容を目指してゆくべきであろう。
芸能教育を根底から覆すためには3万人の変容が必要だ。
そして芸能教育を根底から覆す事が出来ないならば芸能に未来はないであろう。
すなわち演技術ならばスタニスラフスキーをぶっ飛ばしてアルトーへ回帰させる。
舞踊、ダンスであるならばデカルト的な肉体をぶっ飛ばしてイサドラ以降更には土方巽や大野一雄の零の肉体へ回帰する。
歌唱モラルセンスならばグランドオペラをぶっ飛ばして浪花節や都々逸、書生節に回帰させる。
ボイストレーニングならばガルシアをぶっ飛ばして17世紀型を捉えフースラーへと回帰させる。
漫画ならば手塚に付着したハイカルチャー臭をぶっ飛ばして田河水泡と小生夢坊を蘇らせる。手塚はそもそも漫画をハングリーアートと呼んでいた。手塚をハイカルチャー化させるのは、そもそも手塚の意図に反する。
瞑想ならば即席禅や即席ヨーガ、即席ヴィパサナーをぶっ飛ばしてアフリカ、オセアニアの籠り、すなわちキアーやインティチューマへと回帰させる。まあ神智学やエソテリスムの脱構築という事になるだろうか
美術ならばルネッサンス以降の具象絵画をぶっ飛ばしてラスコーや縄文土器に回帰してゆく
あらゆる芸能はラスコー人、縄文人、漂泊芸能人、すなわちマレビトから始められなければならない。
マレビトからみる芸能教育、すなわち~真感染教育~もしくは~超感染教育~が行われていかない限り、芸能に未来はないだろう。
ボイストレーニングというのも本質的にはマレビトの声を捉えるところからのみ発生しうるのだ。
かつてジャックスがハマクラサウンドをぶっ飛ばしたように、我々も何かをぶっ飛ばす必要がある!!!
ぶっ飛ばす対象が無くなったものは、やはり軟弱になる。我々は最終的には腐ったヌミノーゼや腐った愛をぶっ飛ばしてゆくつもりだ。
そして列島人は池田弥三郎がいうところのかつての芸能民族になるのだ。
全列島人はかつて芸能民族であったのだ。それは明治、大正、昭和初期までの大衆の声や肉体を聴けば、その残り香がある事がわかろう。
奥三河の霜月神楽やナマハゲの岩波映像を観るならば、その圧倒的な芸能力が解るだろう。我々はこの古代タケビゴエを喪失したのだ。肚から聲が表出するというのは、こういうのを謂うのだ!!!
この肚から聲を出すを近代人が軽々しく使うべきではない。まあカスの極みである腹式呼吸と混同しているものがほとんどなのだろうが、
この肚から表出される聲というのは、文字通り、神や妖怪に変容せねば表出されないものなのだ。
このサトルボディを生々しいまでにセネストパチー化さす作術の中でしか肚は我々の中にヒエロファニーされんのだ。
神や妖怪というのは、信じるべきもの以上に我々がなるものなのだ。
芸能革命はマジョリティからは決して生まれない。マイノリティの共同体が沸騰する事で芸能革命は起こるのだ・・・芸能がこのままでよい筈がない・・・先ずは夢遊病の耳と思考を我々芸能教師が持つべきだ。
最高の芸能教師とは?最高のボイストレーナーとは?夢遊病の芸能教師であり、夢遊病のボイストレーナーなのだ!!!
武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで
オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/
武田梵声の著書
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks
それにより多くの者が「ボイストレーニングなんて検索すれば出来るし、」と思っているらしいのだ。
まあネット上に増殖しているボイストレーニングを良いだ悪いだ 言う事自体がもはや意味がないが、
基本的に声の学習者の多くは自身のリテラシーの無さと、耳と感覚の悪さを疑った方がいいように思うのだ。
ボイストレーニングというのは、声の前に先ずはそこを変えねばならない。
要するに脳や思考のパラダイムシフトがなければ声の変容も中々に難しいだろう。
19世紀型のボイストレーニングと17世紀型の訓練の差異さへ分からない者が世には溢れかかえっている。
それは結局は非科学的かつ芸能破壊のモラルセンスを世に増殖さす事に繋がる事にさへ気づいていないのだから残念だ。
結論を謂うならばネット上に増殖した非科学的なミックスボイスやその他もろもろのボイストレーニングなどでは声の変容は起こりえない。もし起こったとすれば、その者が偽りのミックスボイスの根に僅かに残存するやもしれないプレミックスボイスすなわち19世紀に改変される以前の17世紀型レジストレーションを発見出来るほどの優れた夢遊病の耳を持っていた可能性がある、もしくは声の変容は単なる勘違いだ。
私はそもそもボイストレーニングという語彙が嫌いだ。またボイストレーナーという語彙も嫌いだ。便宜的に上記のタイトルや肩書きも使うが、このあまりにも浅はかな概念に塗り潰された語彙が何とも言えない気持ちにさせるのだ。
そもそも発声訓練教師とはフースラーとその周辺からしか顕れようがないものなのだ。
後はボーカルトレーナーすなわち歌唱モラルセンス教師である。世に溢れている自称ボイストレーナーの大半は歌唱モラルセンス教師であるという事を知るべきであろう。
いわゆるsls協会系のボイストレーナーというのも一部のチェザリーの射程に気付いたネオslsと呼んでいいボイストレーナーを除いては、基本的には同じだ。
そもそも19世紀型のボイストレーニング自体がかなりの部分が近代的なモラルセンス訓練であり、声の野生に働きかけるものではないからだ。slsの大半もこの19世紀型やアメリカショービジネスのモラルセンス教師になっている場合がほとんどであり野生を聴けているものはほとんどいないのが現状であろう。
ただし、以前の記事にも書いたようにsls協会系ボイストレーナーの中からチェザリーの真の射程やあのカリフォルニアの地におこったムーブメントの射程にも気付きだしている謂わばネオslsが発生しつつあり、それこそはチェザリーをフースラーに匹敵するものとして高められる可能性があると申していいだろう。どちらにしろ従来型のslsは解体してゆくべきだ。あなた達の大好きなアメリカショービジネスの歌い手達があの従来型のsls訓練で育ったと考える事自体が大きな間違いだ。彼等を育てたのは、民謡だ。俚謡だ。ビッグビルブルンジーの思考が辛うじて生きている事だ。それはアメリカの地が未だに若者たちからもハリースミスコレクションが聴かれている事と関連するだろう。また、いまやレジェンド化している例えばアレサフランクリンやオーティスレディングそれからJB
といったリズムアンドブルースのパイオニア達の時代には今よりも遥かにアフリカ性はアメリカに残っていた。もちろんテキサスアレキサンダーほどのアフロ性はそこには無いのだが、もしくはアパラチアの民謡やボーディソングやボーディブルースもこういったモラルセンスにまさにソウルを増殖させるための原動力になっていたのだ。
(そもそものところでチェザリーの射程はフースラーに劣るものであった。17世紀的な西ヨーロッパの中にあるアジア段階への射程がチェザリーとリードのものであり、フースラーはそこを入り口にしながらももっともっと深い段階、それは旧石器時代をも突き抜け言語獲得以前という段階。ある意味でアフリカ的段階以前の段階にまで到達しているのだ。それは民謡研究の射程と見事に合致する。というよりフースラーはヘルダーやシャープ、ザッグス、ロマックスといった原初の民謡、俚謡の思考をその発声学の中枢に呑み込んだのだ。リードとチェザリーにはこの芸能の核が抜け落ちたがためにアジア段階に止まってしまったのだ。
しかしながらチェザリーはアメリカの地とシンクレをおこす事でアフリカの俚謡を呑み込みだしている。チェザリーがアフリカを呑み込む事ではじめてチェザリー学派はフースラーに匹敵する射程を持ち出してくると言える。)
真のボイストレーナーと謂うのは
~夢遊病のボイストレーナー~である
面白い事に折口信夫の思考や文体もかつて
~夢遊病の文体~
と呼ばれた。
至高のボイストレーナーと謂うのは
トージ、マンチーニ、カッチーニ、ポルポラ、マンフレディーニ、ミクシュ
といった17世紀型のボイストレーナーであり、フースラー、チェザリーが理想としたのもこういった面々であった。
これらのボイストレーナー達が使った態こそが野生を聴くという態である。
その野生を聴く力こそが~夢遊病の態~なのである。
モラルセンス教師は野生ではなく、モラルセンスを聴く事になるから結局、生理の解放を行う事は出来ないのだ。
私はこれまでにも多くの芸能教師に諸々の芸能指導法の教授を行ってきているが、フースラー発声学や折口信夫古代芸能学の全容が伝わるところまで指導出来たかと問われれば、中々に難しいところである。
それほどにこの全容を把握した教師を育成するには時間と根気が必要である。
私はこういった芸能教師や発声訓練教師を育成するための専門のコースをオルフェ芸能研究所のコースとして設けようと考え出している。
またこうしたラディカルな芸能訓練が世に拡散していかない最大の原因は諸君達や私自身にあると言えよう。それは何よりも我々がある種の浮世離れした存在であるという事だ。
ラディカルな思考や芸能に興味が向くようなものの大半はそういった傾向がある。だから積極的にそういったものを世の中に拡散させようとはしないし、むしろ隠そうとすらする。芸能の本質は確かに秘技にある。それゆえにその段階はそう簡単には見えないものだ。
だが、ここらで我々は3万人の変容を目指してゆくべきであろう。
芸能教育を根底から覆すためには3万人の変容が必要だ。
そして芸能教育を根底から覆す事が出来ないならば芸能に未来はないであろう。
すなわち演技術ならばスタニスラフスキーをぶっ飛ばしてアルトーへ回帰させる。
舞踊、ダンスであるならばデカルト的な肉体をぶっ飛ばしてイサドラ以降更には土方巽や大野一雄の零の肉体へ回帰する。
歌唱モラルセンスならばグランドオペラをぶっ飛ばして浪花節や都々逸、書生節に回帰させる。
ボイストレーニングならばガルシアをぶっ飛ばして17世紀型を捉えフースラーへと回帰させる。
漫画ならば手塚に付着したハイカルチャー臭をぶっ飛ばして田河水泡と小生夢坊を蘇らせる。手塚はそもそも漫画をハングリーアートと呼んでいた。手塚をハイカルチャー化させるのは、そもそも手塚の意図に反する。
瞑想ならば即席禅や即席ヨーガ、即席ヴィパサナーをぶっ飛ばしてアフリカ、オセアニアの籠り、すなわちキアーやインティチューマへと回帰させる。まあ神智学やエソテリスムの脱構築という事になるだろうか
美術ならばルネッサンス以降の具象絵画をぶっ飛ばしてラスコーや縄文土器に回帰してゆく
あらゆる芸能はラスコー人、縄文人、漂泊芸能人、すなわちマレビトから始められなければならない。
マレビトからみる芸能教育、すなわち~真感染教育~もしくは~超感染教育~が行われていかない限り、芸能に未来はないだろう。
ボイストレーニングというのも本質的にはマレビトの声を捉えるところからのみ発生しうるのだ。
かつてジャックスがハマクラサウンドをぶっ飛ばしたように、我々も何かをぶっ飛ばす必要がある!!!
ぶっ飛ばす対象が無くなったものは、やはり軟弱になる。我々は最終的には腐ったヌミノーゼや腐った愛をぶっ飛ばしてゆくつもりだ。
そして列島人は池田弥三郎がいうところのかつての芸能民族になるのだ。
全列島人はかつて芸能民族であったのだ。それは明治、大正、昭和初期までの大衆の声や肉体を聴けば、その残り香がある事がわかろう。
奥三河の霜月神楽やナマハゲの岩波映像を観るならば、その圧倒的な芸能力が解るだろう。我々はこの古代タケビゴエを喪失したのだ。肚から聲が表出するというのは、こういうのを謂うのだ!!!
この肚から聲を出すを近代人が軽々しく使うべきではない。まあカスの極みである腹式呼吸と混同しているものがほとんどなのだろうが、
この肚から表出される聲というのは、文字通り、神や妖怪に変容せねば表出されないものなのだ。
このサトルボディを生々しいまでにセネストパチー化さす作術の中でしか肚は我々の中にヒエロファニーされんのだ。
神や妖怪というのは、信じるべきもの以上に我々がなるものなのだ。
芸能革命はマジョリティからは決して生まれない。マイノリティの共同体が沸騰する事で芸能革命は起こるのだ・・・芸能がこのままでよい筈がない・・・先ずは夢遊病の耳と思考を我々芸能教師が持つべきだ。
最高の芸能教師とは?最高のボイストレーナーとは?夢遊病の芸能教師であり、夢遊病のボイストレーナーなのだ!!!
武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで
オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/
武田梵声の著書
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks