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Channel: 無音の音声~むおんのおんじょう~
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21世紀のマレビトを思考する。音痴は素敵だ!素敵な音痴を発見しよう!天皇陛下の芸能、古神道、特撮ヒーロー、トリックスター、コメディアデラルテ、原初演劇、松田聖子と松本隆と原初俚謡と風街浪漫~超大衆芸能

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先日とある芸能プロダクションの授業で、私の後の時間を担当した芸能教師が素晴らしい事を言った。


音痴は素敵だ!!素敵な音痴を発見しよう!




この教師は、よくものを解っていると私は思った。


そうだ音痴は素敵だ!素敵な音痴というのはおり、それは前近代の名残であったり、古代心性の顕れであったりもする。

愚かな十二平均律に毒されていない感覚は素晴らしいのだ。

素とは、あの古神道の至高中の至高に鎮座される素の事であり、その素がヒエロファニーされた瞬間に 我々は素晴らしい!とか素敵だ!と叫ぶのである。

音痴はまさに十二平均律外の古代的な微分音に触れた時、原初の音響である素にも触れるのである。


かつて世界一の音痴と謂われたジェンキンスはそれほどに素晴らしい音痴ではない。


そもそも音痴の概念自体が様々だが、その土地土地の芸能モラルセンスと関連している


もしくは、脳の病そのものをそう呼ぶ場合もある。


どちらにしろ音痴というのは、音の本質に触れる可能性を秘めているのだ。

音痴を治して凡夫になろうとするものがいるが、

正確には、音痴と謂われてきた音世界を自在に遊べるようになる事が重要なのだ。


かつて 宮座や若者組、秘密結社といった 最も本質的な芸能を行う集団のものたちの節を聴き

近代に毒された者がそれを音痴とほざいた


大概にして古代的な力は近代以降は賤視されている。 (古代風のもので賤視されていないものの大半は、近代以降のどこかで古代風、前近代風に再編されたものだ)

その賤視されたそれは、本当に賤しいものなのかを見極める必要がある。


逆に近代以降に祭り上げられたものほどに多くの真の愚者が隠れている事もまた認識すべきだ。


近代以降に素晴らしいと勘違いされているほとんどの事と者、物は

素から最も遠いモノゴトであるという事を知るべきだ!!


まあ素も近世に創られたものとするのが論証的な立場からの意見で、それは間違いではない。

だが山口志道、中村考道や大石凝や王仁三郎、正鉄等が アルタードステーツのイムイロテンポーレ的地平から素を実感していた事は間違いないだろう。それゆえにやはり素は神代のものなのだと言える。もちろん実証など不可能だ。だが実証などどうだっていい、近代的阿呆に分かりやすく解く事ほどに無駄な事はあるまい。


日本人の声や肉体というのは、本来最高のものであった。池田先生風に言うならば正に芸能民族であったのだ

どこぞの近代芸能教育人がいうような
価値のないものではないのだ。

俄を観てみても列島人の思考と肉体と声は最高であった。

メイエルホリドがコメディアデラルテから原初演劇を思考し、サーカス、歌舞伎、見世物から原初演劇を思考した。メイエルホリドにコメディアデラルテが原初演劇と気付かせたのは、エウ゛レイノフであった

ルホズィやトルコのケセやそのケセをやや近代化したオラトユヌも日本の俄とあわせてコメディアデラルテ的な原初演劇的な構造を持っている。 (我々はここでタルチュムを忘れてはならないタルチュムこそ神話的次元にあったノリ精神をヒエロファニーさせた古代芸能であり、それは70年代にリバイバルをも遂げている。そしてメイエルホリドはこのタルチュムに狂喜するのである。)

そこにはやはりエシュ的な存在が隠れていたように思うのだ。もしくはチドンの兎すなわちバックスバニーの原型が隠れていた、もっというならば全アメリカ大衆歌謡、大衆芸能を発生させた根源的な思考がヒエロファニーした存在として捉える事も出来るだろう。それがエシュやアナンシやチドンの兎だ。また日本のスサノヲやウヅメ、インドのクリシュナ、アメリカ先住民のケツアルコアトルやコヨーテ、ワタリガラス、オセアニアのマウイ、西洋のロキといったマレビト的なる原型は皆、ここに蠢いているものだ。これらはまた仮面の芸能人としても来訪しだす。オセアニアにはアバンが、アメリカにはタイガーマスクが、西洋にはジャックインザグリーンが、アジアにはバロンが、アフリカにはムヨンボが来訪するのだ。

こうしたマレビト的なるものやトリックスター的なるものを知るためには、我々は妖怪や悪魔や精霊、モンスター、幻獣の類いも知らねばならん事はいつも言っている。また実際にこのモノ達と触れあい、戯れる必要もある。

芸能技法でセネストパチーを発生させ、彼らと戯れるのだ。


それらはあらゆる芸能、昔話、神話、信仰、儀礼を司る 根源的な力とみてよいだろう。

これを掴む事こそが芸能感染教育なのだ。

肉体ならばそれを死に腐らせた先にそれは存在するし、

思考ならば夢遊病の果てに存在する。

声ならば嗄れたノイズと腸をえぐった音響からしかそれは創造されないのだ。


あらゆる芸能モラルセンスがあり、そのどれでも別に構わんのだが、最も古代的な力を捉えられていないそれはカス以下となると思ってよい。


音痴は近代に毒されたモノより遥かに素晴らしい。

ダミ声は最高だ!!!

アウトローな声を出してみる事だ

我々はこうした原初の肉体の復活をやはりアラカンに期待してしまうのだ。我々のヒーローの原点はアラカンであり、アラカンを通して我々はマレビトを知ったのだ。(もちろん、直接マレビトを実感出来ねば駄目だ。だが始まりはアラカンからでよいだろう)アラカンの復活を私は待っている。彼がきっと日本を変えてくれるだろう!!!

このアラカン的な力は先ほどのマレビト達と近代特撮ヒーロー、それから怪人、怪獣、宇宙人達を結びつけてくれる。我々はこうした近代的な特撮ヒーローや怪獣がすこぶる古い芸能思考から発生している事をすでに知っていよう。更に今年はゴジラ60周年だ。ゴジラ神社は古代の来訪神と初代ゴジラに関して言うならばサクリファイスとは何かをも我々に教えてくれるであろう。また原ゴジラの別の側面としてキングコングそれからロストワールドも押さえておくとよいだろう。ここからネッシー伝説の思考も繋がり出してくる。そしてそれもまた我々の原初の芸能的肉体感覚セネストパチーやサトルボディの実感とも繋がるのである。


ダミ声や喉声を否定する芸能教育人がいたならば、 その者を何があろうと信用してはならない!!!


それは世界を滅ぼす者の手先だからだ。

大袈裟に聴こえるとしたら、その者も危ない・・・


これまでこうしたモノ達にどれだけの芸能が芸能人が殺されてきたかを知らんのか?

かつてこうした近代のクズに呪詛を腸から叫んだのが中山みき や 出口ナオであった。そして大石凝も近代のクズどもに呪詛をかけた・・・その神代の兵器の恐ろしささへも近代のクズには最早解らんのだろうから、救いようがない。

天壌無窮の神勅から平田篤胤、川面凡児、田中智学等は天子様のエゾテリスムを発見していった事はよく知られている。

天皇陛下の芸能の深奥にはポゼションの態とエクスタシーの態 すなわち古代芸能の二大技法が間違いなく隠されているわけであり、 それは計り知れない御力を持っていると考えてよいだろう。

それはある意味ではキアー以上に古代的かつ未来的な御力であった。

天皇陛下の深奥を思考しようとしたもの、それを否定しようとしたもの、

上記のモノタチは立場はどうあれ、古代的心性と向き合い続けた者達である。

マレビトには両極がある。それは天皇陛下とホカヒビトである。そして共にホロンの法則の如く互いを内在しているのである。

すなわち天皇陛下は王と乞喰を、

ホカヒビトは乞喰と王を・・・

先日、生徒さんから面が白くなる質問を受けた。それは21世紀のマレビトとはいかなるものか?という問いであった。 この答えはおそらく22世紀以降の者達が出してくれる事と思うのだが、諸君もよく思考してもらいたい。

21世紀のマレビトとは?

マレビトも様々な段階があるわけだが、その最も原初の神は、古代から常に変わらないと言える。それはヒエロファニーやヌミノーゼ、イムイロテンポーレの段階で顕れる。芸能人としてはオセアニアではシャチやクジラ、列島では熊、蛇、白鳥、アフリカでは蜘蛛やウサギ、アメリカではコヨーテやワタリガラス等として顕れてきた。また病やウイルスさへもがかつてはマレビトであった。更に漂泊の芸能人、 巷間芸能人達は、マレビトの態を1970年代辺りまで我々に伝えてくれている。この四つの柱をホカヒ、ヒジリ、盲人、ヤシにとると我々は、すっきりと芸能の原型を理解する事が出来るだろう。世界各地の巷間芸能人の代表には、

アジア(韓国のナムサダン、インドのマンガニヤル、中央アジアのバフシ、中東のアーシュク、ダルビッシュ、幻人)

アフリカ(北アフリカのシャーエル、西アフリカのグリオ、エチオピアのアズマリ)

オセアニア(アリオイ)

アメリカ(アクヤクーナ)

ヨーロッパ(ジョングルール)
等を挙げる事が出来る。世界各地の芸能はここを源として発生してきているのだ。だが1960年代~1970年代初頭にかけてこれらの芸能人は急速に滅んでいった。またこれらのルネッサンスがこの時期に行われている事も押さえておきたい。それは世界各地の対抗文化として発生し、その力は現代のショービジネスの根源的な力として働いているが、そろそろ新たな力を地下から汲み上げる必要があるだろう。

松田聖子の楽曲の多くが松本隆により書かれてきたが、この松本隆の思考の源には永島慎二がいた。ガロの作家である。また寺山等からの影響もあった。60年代の演劇、漫画、ロックは対抗文化として未来と古代の両極に思考を伸ばしていたのだ。アングラレコードクラブやアングラ演劇、それからガロやコム、和製ヌーベルバーグや岡本太郎、60年代ダダを概観すればその事に気付くであろう・・・彼等は未来と古代を掴もうとして、古代も未来も失ったのだ・・・私にはそう見える・・・。

21世紀のマレビトを思考するには、この60年代の地平と大正ダダと大正未来派を見直してゆく必要があるように思う。また陸奥の芸能、常磐炭坑、筑豊炭坑を思考する時、我々の原初の肉体と未来の肉体がセネストパチー的に顕れてくるように思うのだ。科学的管理法を元に原初の肉体を思考する事は成功したのであろうか?しかし最早、我々に失敗は許されないように思うのだ。21世紀のマレビトの来訪を心より願っている・・・。


武田梵声

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