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Channel: 無音の音声~むおんのおんじょう~
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超大衆芸能会議~食い物と芸能~

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本日は、生徒さんから 大変に美味いぶどうパンをご頂戴した。 皆さま私が食い道楽なのを知ってか、これまでにも多くの生徒さんから 日本各地の民俗食や名店の味を頂戴している。 これについては心より感謝している。

食い物というのは 元々 芸能そのものであり、 我々の食事の作法も本来は 天皇陛下の芸能やアエノコト等と密接な関係を持つ 芸能空間なのである。 いただきます・・・ ごちそうさま・・・これにより我々は 芸能空間の中で 魂を喰わせて頂くのである。

こちらの生徒さんからは他にも いかなごのくぎ煮や 佐野ラーメンをご頂戴している。 民俗食というのを思考する事は重要だ。 いわゆるご当地B級グルメやご当地ゆるキャラにも民俗の心性はある。その土地の力と 移動してゆく力、 その二つの力を食と芸能から実感してゆく事が求められている。

陸奥の芸能人

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別れとは辛いものだ。 もうすぐ10年になろうか、 復興節、啖呵売、皿、メディスンショー、奈良丸節、陸奥各地の伝承芸能、陸奥の古代俚謡、松本隆ソング、阿久悠ソング、筒美京平メロディ、ナショナルキッドの口上・・・どれも見事であった。芸能の瞬発力は群を抜いていたように思う。それからサーカス、見世物の客入れ口上の一瀉千里性は特に素晴らしかった。
芸能活動と日常のバランスをとる事は難しい事だ。日常に帰るならば、それなりに幸せの時を生きていってもらいたいと思っている。


陸奥の芸能は、今再び思考し直す時にきている。 ゴジラ60周年は、マレビト的なる力のサイエンスフィクション化、特撮化を考え直すよい機会だ。
先日、NHKで北萱浜の天狗舞、津島の田植踊り、請戸の田植踊り を中心とした陸奥の伝承芸能の特集が放送されたが、我々は陸奥の伝承芸能をもっともっと思考するべきだ。陸奥の民俗料理もまた重要だ。 照葉樹林文化も東国も陸奥を一つの軸として捉え直す事で見えてくるものがある。

常磐炭鉱節は今再び、最も深遠な感覚でもって再生させてゆくべきだ。ここに始まりの歌があるのだ・・・冗談炭鉱節から入るのもまた一興だ・・・だが俚謡としての常磐炭鉱節にゆかねば全ては無駄となる。


列島の最高の芸能は陸奥から今後必ず顕れる。それが君達である事を私は心のそこから願っていた。今もそう願っている・・・。私にとって芸能が全てだ。 君達こそが全てなのだ・・・。 幸運を祈る。

武田梵声

Jポップの根源にあるモノ~陸奥の芸能人~

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自分です。世界中の人々は明日から自分を神と呼び、この汚れ始めたみじめな地球を、神々の星にするというのは、どうだろうか・・・。


たくましさ。瞬間。死です。

暗黒ですね。

数えきれない位。

未練です。だから、恥ずかしいのです。

昔は好きでした。今は憎んでいるようです。

自分の存在イコール森羅万象。

生きることだと思っています。

欲は言わない、百五十歳位でいい。


激しい動きと静の中に

はい、地球です。

或る熱中とさめている間の緊張状態かな。

『新宝島』 『フクちゃん』

原始時代


『新宝島』こそまぎれもない故郷であると思う。


(『永島慎二共和国』より)



これこそ、Jpopと古代を結ぶ言葉達である。 松本隆の思考によりこの言葉達は継承されてゆく、 赤いスイートピーや木綿のハンカチーフの中にも 東京オリンピック以前の原東京 すなわち風街の精神は生きているのだ。また宮沢賢治的な妹の精神も流れている・・・。

君はあの日 赤いスイートピーをはじめて聴き、はじめて歌ったが、私はあれほどに風街浪漫を実感した 赤いスイートピーははじめてであった・・・

君達は私の難解な課題や要求に 最大な創意工夫と体当たりで返してくれた・・・ 私はいつでも芸能の裏の裏を投げ掛ける それに気付ける生徒はほとんどいない。 毎回それに気付き、最大級の芸能力をぶつけてくれる事がどれほど私の孤独を埋めてくれた事だろうか? 心より感謝している。 またいつでも芸能空間に戻ってきて欲しい。いつまでも待っている。ゴドーのように・・・

武田梵声

21世紀のマレビトを思考する。音痴は素敵だ!素敵な音痴を発見しよう!天皇陛下の芸能、古神道、特撮ヒーロー、トリックスター、コメディアデラルテ、原初演劇、松田聖子と松本隆と原初俚謡と風街浪漫~超大衆芸能

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先日とある芸能プロダクションの授業で、私の後の時間を担当した芸能教師が素晴らしい事を言った。


音痴は素敵だ!!素敵な音痴を発見しよう!




この教師は、よくものを解っていると私は思った。


そうだ音痴は素敵だ!素敵な音痴というのはおり、それは前近代の名残であったり、古代心性の顕れであったりもする。

愚かな十二平均律に毒されていない感覚は素晴らしいのだ。

素とは、あの古神道の至高中の至高に鎮座される素の事であり、その素がヒエロファニーされた瞬間に 我々は素晴らしい!とか素敵だ!と叫ぶのである。

音痴はまさに十二平均律外の古代的な微分音に触れた時、原初の音響である素にも触れるのである。


かつて世界一の音痴と謂われたジェンキンスはそれほどに素晴らしい音痴ではない。


そもそも音痴の概念自体が様々だが、その土地土地の芸能モラルセンスと関連している


もしくは、脳の病そのものをそう呼ぶ場合もある。


どちらにしろ音痴というのは、音の本質に触れる可能性を秘めているのだ。

音痴を治して凡夫になろうとするものがいるが、

正確には、音痴と謂われてきた音世界を自在に遊べるようになる事が重要なのだ。


かつて 宮座や若者組、秘密結社といった 最も本質的な芸能を行う集団のものたちの節を聴き

近代に毒された者がそれを音痴とほざいた


大概にして古代的な力は近代以降は賤視されている。 (古代風のもので賤視されていないものの大半は、近代以降のどこかで古代風、前近代風に再編されたものだ)

その賤視されたそれは、本当に賤しいものなのかを見極める必要がある。


逆に近代以降に祭り上げられたものほどに多くの真の愚者が隠れている事もまた認識すべきだ。


近代以降に素晴らしいと勘違いされているほとんどの事と者、物は

素から最も遠いモノゴトであるという事を知るべきだ!!


まあ素も近世に創られたものとするのが論証的な立場からの意見で、それは間違いではない。

だが山口志道、中村考道や大石凝や王仁三郎、正鉄等が アルタードステーツのイムイロテンポーレ的地平から素を実感していた事は間違いないだろう。それゆえにやはり素は神代のものなのだと言える。もちろん実証など不可能だ。だが実証などどうだっていい、近代的阿呆に分かりやすく解く事ほどに無駄な事はあるまい。


日本人の声や肉体というのは、本来最高のものであった。池田先生風に言うならば正に芸能民族であったのだ

どこぞの近代芸能教育人がいうような
価値のないものではないのだ。

俄を観てみても列島人の思考と肉体と声は最高であった。

メイエルホリドがコメディアデラルテから原初演劇を思考し、サーカス、歌舞伎、見世物から原初演劇を思考した。メイエルホリドにコメディアデラルテが原初演劇と気付かせたのは、エウ゛レイノフであった

ルホズィやトルコのケセやそのケセをやや近代化したオラトユヌも日本の俄とあわせてコメディアデラルテ的な原初演劇的な構造を持っている。 (我々はここでタルチュムを忘れてはならないタルチュムこそ神話的次元にあったノリ精神をヒエロファニーさせた古代芸能であり、それは70年代にリバイバルをも遂げている。そしてメイエルホリドはこのタルチュムに狂喜するのである。)

そこにはやはりエシュ的な存在が隠れていたように思うのだ。もしくはチドンの兎すなわちバックスバニーの原型が隠れていた、もっというならば全アメリカ大衆歌謡、大衆芸能を発生させた根源的な思考がヒエロファニーした存在として捉える事も出来るだろう。それがエシュやアナンシやチドンの兎だ。また日本のスサノヲやウヅメ、インドのクリシュナ、アメリカ先住民のケツアルコアトルやコヨーテ、ワタリガラス、オセアニアのマウイ、西洋のロキといったマレビト的なる原型は皆、ここに蠢いているものだ。これらはまた仮面の芸能人としても来訪しだす。オセアニアにはアバンが、アメリカにはタイガーマスクが、西洋にはジャックインザグリーンが、アジアにはバロンが、アフリカにはムヨンボが来訪するのだ。

こうしたマレビト的なるものやトリックスター的なるものを知るためには、我々は妖怪や悪魔や精霊、モンスター、幻獣の類いも知らねばならん事はいつも言っている。また実際にこのモノ達と触れあい、戯れる必要もある。

芸能技法でセネストパチーを発生させ、彼らと戯れるのだ。


それらはあらゆる芸能、昔話、神話、信仰、儀礼を司る 根源的な力とみてよいだろう。

これを掴む事こそが芸能感染教育なのだ。

肉体ならばそれを死に腐らせた先にそれは存在するし、

思考ならば夢遊病の果てに存在する。

声ならば嗄れたノイズと腸をえぐった音響からしかそれは創造されないのだ。


あらゆる芸能モラルセンスがあり、そのどれでも別に構わんのだが、最も古代的な力を捉えられていないそれはカス以下となると思ってよい。


音痴は近代に毒されたモノより遥かに素晴らしい。

ダミ声は最高だ!!!

アウトローな声を出してみる事だ

我々はこうした原初の肉体の復活をやはりアラカンに期待してしまうのだ。我々のヒーローの原点はアラカンであり、アラカンを通して我々はマレビトを知ったのだ。(もちろん、直接マレビトを実感出来ねば駄目だ。だが始まりはアラカンからでよいだろう)アラカンの復活を私は待っている。彼がきっと日本を変えてくれるだろう!!!

このアラカン的な力は先ほどのマレビト達と近代特撮ヒーロー、それから怪人、怪獣、宇宙人達を結びつけてくれる。我々はこうした近代的な特撮ヒーローや怪獣がすこぶる古い芸能思考から発生している事をすでに知っていよう。更に今年はゴジラ60周年だ。ゴジラ神社は古代の来訪神と初代ゴジラに関して言うならばサクリファイスとは何かをも我々に教えてくれるであろう。また原ゴジラの別の側面としてキングコングそれからロストワールドも押さえておくとよいだろう。ここからネッシー伝説の思考も繋がり出してくる。そしてそれもまた我々の原初の芸能的肉体感覚セネストパチーやサトルボディの実感とも繋がるのである。


ダミ声や喉声を否定する芸能教育人がいたならば、 その者を何があろうと信用してはならない!!!


それは世界を滅ぼす者の手先だからだ。

大袈裟に聴こえるとしたら、その者も危ない・・・


これまでこうしたモノ達にどれだけの芸能が芸能人が殺されてきたかを知らんのか?

かつてこうした近代のクズに呪詛を腸から叫んだのが中山みき や 出口ナオであった。そして大石凝も近代のクズどもに呪詛をかけた・・・その神代の兵器の恐ろしささへも近代のクズには最早解らんのだろうから、救いようがない。

天壌無窮の神勅から平田篤胤、川面凡児、田中智学等は天子様のエゾテリスムを発見していった事はよく知られている。

天皇陛下の芸能の深奥にはポゼションの態とエクスタシーの態 すなわち古代芸能の二大技法が間違いなく隠されているわけであり、 それは計り知れない御力を持っていると考えてよいだろう。

それはある意味ではキアー以上に古代的かつ未来的な御力であった。

天皇陛下の深奥を思考しようとしたもの、それを否定しようとしたもの、

上記のモノタチは立場はどうあれ、古代的心性と向き合い続けた者達である。

マレビトには両極がある。それは天皇陛下とホカヒビトである。そして共にホロンの法則の如く互いを内在しているのである。

すなわち天皇陛下は王と乞喰を、

ホカヒビトは乞喰と王を・・・

先日、生徒さんから面が白くなる質問を受けた。それは21世紀のマレビトとはいかなるものか?という問いであった。 この答えはおそらく22世紀以降の者達が出してくれる事と思うのだが、諸君もよく思考してもらいたい。

21世紀のマレビトとは?

マレビトも様々な段階があるわけだが、その最も原初の神は、古代から常に変わらないと言える。それはヒエロファニーやヌミノーゼ、イムイロテンポーレの段階で顕れる。芸能人としてはオセアニアではシャチやクジラ、列島では熊、蛇、白鳥、アフリカでは蜘蛛やウサギ、アメリカではコヨーテやワタリガラス等として顕れてきた。また病やウイルスさへもがかつてはマレビトであった。更に漂泊の芸能人、 巷間芸能人達は、マレビトの態を1970年代辺りまで我々に伝えてくれている。この四つの柱をホカヒ、ヒジリ、盲人、ヤシにとると我々は、すっきりと芸能の原型を理解する事が出来るだろう。世界各地の巷間芸能人の代表には、

アジア(韓国のナムサダン、インドのマンガニヤル、中央アジアのバフシ、中東のアーシュク、ダルビッシュ、幻人)

アフリカ(北アフリカのシャーエル、西アフリカのグリオ、エチオピアのアズマリ)

オセアニア(アリオイ)

アメリカ(アクヤクーナ)

ヨーロッパ(ジョングルール)
等を挙げる事が出来る。世界各地の芸能はここを源として発生してきているのだ。だが1960年代~1970年代初頭にかけてこれらの芸能人は急速に滅んでいった。またこれらのルネッサンスがこの時期に行われている事も押さえておきたい。それは世界各地の対抗文化として発生し、その力は現代のショービジネスの根源的な力として働いているが、そろそろ新たな力を地下から汲み上げる必要があるだろう。

松田聖子の楽曲の多くが松本隆により書かれてきたが、この松本隆の思考の源には永島慎二がいた。ガロの作家である。また寺山等からの影響もあった。60年代の演劇、漫画、ロックは対抗文化として未来と古代の両極に思考を伸ばしていたのだ。アングラレコードクラブやアングラ演劇、それからガロやコム、和製ヌーベルバーグや岡本太郎、60年代ダダを概観すればその事に気付くであろう・・・彼等は未来と古代を掴もうとして、古代も未来も失ったのだ・・・私にはそう見える・・・。

21世紀のマレビトを思考するには、この60年代の地平と大正ダダと大正未来派を見直してゆく必要があるように思う。また陸奥の芸能、常磐炭坑、筑豊炭坑を思考する時、我々の原初の肉体と未来の肉体がセネストパチー的に顕れてくるように思うのだ。科学的管理法を元に原初の肉体を思考する事は成功したのであろうか?しかし最早、我々に失敗は許されないように思うのだ。21世紀のマレビトの来訪を心より願っている・・・。


武田梵声

黒人のポピュラーエンターテイメントクンタキンテ復活の祝祭 上山草人、ダントク、大久保鷹、白石加代子、怪優達の肉体。伊福部昭の射程。ラスコー人の芸能を思考する。

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カリプソやメント、カンドンブレ、サンテリア、ラスタファリア、ブドゥン、ブルース、ゴスペル、ニグロスピリチュアル、エウ゛ァンゲリスト、ヒップホップ更にはメディスンショー、ミンストレル、ジャズ、ロック、ビートニク、バックスバニー、等々

いわゆる南米、北米の黒人のフォークエンターテイメント(フォークパフォーミングアート)、ポピュラーエンターテイメントやカウンターカルチャーを思考してゆく事が重要なのはいつも言っている通りである。

例えばボサとリズム&ブルースとジャズが直感的に結びつく時、我々はそこに通低するニグロ感覚、ヒップ感覚、ブルーな感覚に気付いているのやもしれない。

ニグロ芸能における ベルトは、基本的には弾性枠を強力に鍛えたものであるといってよい。

かつて ニグロスピリチュアルとゴスペル、オペラアリアのスタイルチェンジをしながら歌った黒人に対して あるボイストレーナーが彼女達は喉が強いからといったが、

真実はそうではなかろう。 喉の野生はあらゆる者に宿るという発声学の本義は見失ってはならない。

これらは、アフリカのフォン人やヨルバ人を考える事で見事な画竜点睛をおこす。

またこれらが巡りめぐってフェラクティに宿った事はフェラクティがアフロ芸能の集積者である事を意味する

アフロビート自体がパンアフリカニズムの顕れであった。

ビートニクの源にもニグロカルチャーがあった。ビートもニグロ達の言葉だ。

ケルアックやギンズバーグの言葉の中にニグロカルチャーやケージ的思考、東洋的思考、それからジョーギーやマンガニヤル、未来派やダダ、シュルレアリスム等が交錯してゆく事をベースにしながら、カルチャーカルチャーや20世紀、21世紀のポピュラーエンターテイメント~大衆芸能~が形成されていった事を捉えてゆくならば、やはり核になった力は、その原型であるボヘミアン革命であり、ジョーギーやマンガニヤルの漂泊する力であるとみてよい。 そこに直接的なアフロ性がぶつかった時にビックバンが生じたのである。

全ての大衆芸能、カウンターカルチャーはこのボヘミアンの力とアフロな力を付着させる事でのみ発生・維持・破壊・再生を可能とするのである。

そこを見失っては駄目なのだ。

顕在的に見失っても構わない。だが直感的に捉えなければならない。逆に顕在的に知っていても、直感でここを捉えていないものは、やはり駄目だろう。また顕在の近代思考が強すぎるが結えにせっかく直感的に捉えたボヘミアンとアフロを抑圧してしまうものも やはり愚かであると謂える。

21世紀のマレビトを思考する事を提示してくれた教え子には心から感謝している。私もこれまで近代以降のマレビトについては何度も思考してきているが、もう少し的を絞る事でより、その力が増殖されてゆく事も確かであろう。

もちろん、我々は21世紀のマレビトであり、ホカヒビトであり、ジャレメでなければならない・・・もしくは目指さねばなるまい・・・。

浅草12階やミナミの5階におったアナキストやダダイスト、未来派の芸能人達の肉体はまだモノノケ的な肉体であった。

かつて大野一雄が文字通りのモノノケの肉体のモドキ態を行ってみせたが、ああいう原初の肉体を持ったものは、あの辺りの世代までであった。

60年代ダダやアングラ、フーテン達のそれは、既にマレビトとしての肉体を失ったもの達が、その始まりの肉体を求めてのもがきであった。

彼等の思考も肉体もマレビトに向けられていたが、彼等はやはりマレビトそのものには成りきれなかった。漂泊者や来訪者、対抗者にはなり得たが、始りの肉体、始まりの思考を得る事には、多くの者が失敗したのだと謂える。だから古代と未来を求めて、古代も未来も失ったのだ。そして今さへも喪失していった・・・

だが私は、彼等の失敗をこよなく愛している・・・。これほど美しくも醜い失敗者達はもう顕れないだろ

ダダ的な肉体はそもそもがアフリカ的な筈であったツァラは、アフロ性の中にこそダダの本質をみていたのだから、だからツァラのダダ演劇の本質もアフロ性を捉えるところにあったといっていいだろう。

我々がニグロカルチャーを見聞きする時に注意すべき点は一言で謂うならば

クンタキンテとトビーとジョージの違いに気をつけろ

と謂うことにつきる。

かつてアレックスヘイリーにより描かれたルーツは未だにニグロカルチャーを研究する時によく引き合いに出されるものである、 この書に問題がないわけではないのだが、まあ入門編としては良いだろう。

ドラマの方のクインシージョーンズが担当したBGMもコルンゴルトから続く古き良きアメリカ的感じがあり、嫌いではない。(最もコルンゴルトのそれは本来、ロマン派的なものであるが・・・ )

それはさておき、この書またはドラマの中には、アフロ芸能の要とも謂うべきカンビボロンゴや通過芸能、命名式が描かれており、更にカレンダ的なアフロ身体技法やフィールドハラーがブルース化してゆく様も描かれている。

我々が聴くべきはクンタキンテであり、決してジョージであってはならない。

トビーの存在は重要だアフリカとアメリカの閾がそこにある。

私はかつてクンタキンテの復活を説いた。それは我々にとってはホカヒビトとジャレメの復活とほぼイコールである。

我々は今やジョージと化しているが、それでは、駄目なのだ・・・。

現代人にラスコーが描けるか!?

太郎の言葉をよーく思考してみるべきだ。

または、ピカソがアルタミラをみて謂ったように

「我々のうち、誰もこのように描くことはできない」

我々にはラスコーが描けない・・・否・・・?・・・

ラスコー人の再生は可能か?ラスコー人の肉体の再生は可能だろうか?ラスコー人的思考を、ラスコー人の芸能を?我々はこの課題への取り組みを開始する。ラスコー人の芸能を復活させるのだ。
幸いの事に最も古代的な声や精神、肉体の在り方は部分的に我々は把握している。古代におけるモラルセンスもだ。信仰もだ。これらをラスコー人的なものとして再創出する事をしてみる。この実験は何度も繰り返し行われるだろう。私はこの実験の元に人体交響劇的なる発想
をおいている。ラスコー人を思考する時も我々にとってはやはり列島から・・・なのだ。人体交響劇の基層には宮沢賢治の縄文的発想、筑豊炭鉱節がある。筑豊炭鉱には、沖縄、朝鮮、各地の被差別部落民、漂泊芸能民が集積し、エネルギー革命的な神話すら発生しかけた。我々はここを土台にし、世界各地のアフリカ的段階の芸能から抽出された構造を交錯させ、ラスコーと向かい合うのだ。我々はASCの極地にたどり着き、ラスコー人は再生される・・・。

ゴジラ60周年は伊福部昭の読み直しも世では盛んになっている。この伊福部昭を読み直してゆく時、我々はここに大事な事のほとんどがある事に気付かされる。伊福部の理想には幼い時に見聞きしたアイヌの芸能がある、更にはウイルタやニブフの芸能があった。彼が見聞きしたアイヌは大正期のアイヌであり、その芸能力は世界最高峰であったと言ってよい。ここに彼はストラウ゛ィンスキー的な新古典主義、民族主義的な感覚を交錯させてゆく、ストラウ゛ィンスキーの春の祭典などは、確かにロシアの古層にあった民俗芸能をハイカルチャー化したものだ。それはバルトークやコダーイ等ともリンクしてゆくが、バルトークやコダーイの方がより深くハンガリーやルーマニアの俚謡や民俗芸能の採集は行っていた。だがこれらをモチーフにしたものもハイカルチャー化してゆくと野生の芸能はどうなってゆくか?私はここに疑問を持つのだ。
伊福部は東洋と西洋の問題を最後まで思考し続け、最終的に箏の中にその答えを発見した。だが・・・。
伊福部の泣き節はフリギアモード、フリジアンモード、もしくは都節により創出されていったものだ。フリギアは西洋は元よりアジア芸能においても重要だろう。アジア芸能の源泉になったインド芸能、そのインド芸能の源の1つにサーマウ゛ェーダの朗唱があり、これの核には音律を無視するならばフリギア的なるものが働いていたと考えてよいからだ。近世邦楽を象徴する都節は列島においては三味線の構造から表出された節と考えられてはいるが、その萌芽すでに準備されていた。
伊福部の中に大事な事の全てがあると謂うのは要するにこういう事だ。

先ず伊福部の原光景としてあったアイヌやニブフ、ウイルタの北方芸能

それからストラウ゛ィンスキーやコダーイ、バルトークの中にあった近代と古代、周縁とハイカルチャーを交錯させる思考。もしくはサッポロ的な都市空間と古代を交錯させてゆく思考

さらにゴジラによる来訪神すなわちマレビト的ビジョン、伊福部の場合はアイヌ風にマラプトと申してもよいかもしれんし、その方がより原初的なマレビト性を捉えられるかもしれない。

またゴジラ、プロメテによるエネルギー革命神話的ビジョン、更に示唆的なのは、北神山地のヘンベ的芸能がこの展開の一つの極地として提示された事だ。私は震災後ほとんど無意識的にこの流れを追った・・・この一連の流れに今後のアジアが進むべき、いや近代化された地が進むべき方向が示されていると考えてよい。

だがほとんど至高といってよいものは一番最初にあったのだ・・・西洋と東洋の問題も本当は考えるべきでもなかった。民族を通過して通低する古代はほとんど始めに伊福部の目の前にあったといってよい。


先日の白石加代子の特集は中々によかった。

大久保鷹や白石加代子のような肉体と声が多分、最後の怪優の声と肉体であったであろう。

百物語りという怪異物語りを鍛えてきた 形式を使い。 その最後の99話を語りきった白石には怪物としての美と醜があった・・・。 ダントクがいうところの醜は美と同等の価値がある事は確かだ。

加代子ちゃんは美しくも醜い まさに怪優であり、アングラの女王であった。

李麗仙や大久保や白石のような前近代と近代の閾にいた俳優の肉体を思考する事は重要だ。

特権的肉体、我慢する肉体、シャマン的な肉体、心のアストリート、残酷演劇や肉体の演劇から提唱されたテーゼを実感するためには、彼等の肉体をみておく必要があるだろう。

白石のようなガムのコントロールと声帯筋のコントロールは 戦前生まれまでは、ほとんど共通して持っていた感覚であった。彼女が特別なわけではない。またシャマン的なジャレメ的な精神パラダイムの移動も本来、それほどに特別な事ではない。

ヒトの30000年を超える芸能史から見た時に彼女が特別なのではなく、彼女がスタンダードなのだと謂える。

アフロ芸能精神の要であるキアは古い感覚を残したアフリカの村ではほぼ村人全員が入る事が出来、古い肉体と声を表出させる。

シュトックハウゼンやらリゲティやルチアーノベリオやケージがとれほどに微細な声や音響を捉えようとも、 アフロな感覚の前では、それはやはり現代的な粗さが目立つのである。

上山草人やダントクのような怪物はもはや顕れないとしても

白石加代子のような怪物が未だ現役なのには期待が持てる・・・。

だがこうしたアングラな怪優やアングラな演出家の中には今では芸能教育人や俳優教育人になっている者も多く、その教育が、彼等が行ってきた演劇の表出に比べてどうかと聴かれれば、ごく一部を除いては、芸能教育人、俳優教育人としては、三流にもなれない者がほとんどだと言っていい。

そもそも芸能教育や俳優教育をなめている輩があまりにも多いのだ。

売れない俳優、賞味期限切れの俳優、歌手、漫才師、芸能人の吹き溜まりが芸能教育人のように思われている昨今だが いい迷惑だ!!!

真の芸能教育人は古代~現代までのあらゆる土地の芸能モラルセンスに通じていなければならず、旧石器時代以降の芸能教育の全てを知り尽くしていなければならない。

アングラ俳優としては超一流であったとある者もその教育においてはむざんであった。

特に舞台発声教育については、ほとんど詐欺的といってもよい出来だ。

大人しく俳優だけをやっていれば素晴らしいものを、何とももったいない事だ。

また、多くの者達が勘違いするのは、その俳優が俳優として素晴らしかったから教育も素晴らしいと錯覚してしまう点にある。 そのため 名優であればあるほど、怪優であればあるほどに教師にはならん方がよいのだ。

俳優の卵、芸能人の卵達を見事に騙す事に繋がるからだ。

どうしても教師になりたくば、一から芸能教育を学ぶべきである。また発声教育を学ぶべきである。

アングラ俳優が19世紀型のボイストレーニングを教えるなど愚の骨頂だ!!!

もしも~ひばりちゃん~から歌を習いたいものがいたとすれば、その者は余程な馬鹿か、余程に野生が開花した者であると謂える。

ひばりちゃんは歌い屋としては、最高であるが、どう贔屓目に見ても教師としての耳はない。 ひばりの耳は最高であったが、教師としての耳ではなかった。教師としての思考はない。

(だがひばりや白石が感染教育法に気付けば素晴らしい教師になりうる。だが感染教育法についてこれるだけの芸能人の卵が現代にどれだけいるだろうか?邪魔なのは19世紀型の教育法と思考なのだ。これを捨てない限り駄目だ。)


だがそれで良いのだ。彼女は教師にはならなかったのだから

白石に対するネット上での書き込みをみて思う事だが、彼女を確実に評価出来ているものがあまりに少ないように思う。

近代化された俳優と白石のようなワザヲギを同じ地平で語るべきではない。

ネット上の書き込みというのはツィッターやらレビューやら2ちゃんねるやらとあるが、 批評する力もリテラシーもない者達が最もらしい事を書いているから始末が悪い。 ましてや匿名だから 叩きのめしようがないところもまた卑怯極まりない。 何か発言するならば、いつでも戦える場所にいるべきだ。 闇からこそこそと謂いたい事だけを謂う、しかもそれが全くお門違いな者達を増殖させてゆく、ネット社会というものはいずれ解体に向かわせなければならないだろう。 ネットは確かにシャマン的な力を拡張させる可能性もある。またその発生にヒッピーやサイケデリック感覚が働いている事も確かだ。当然ツィッターにもそういった力は流れており、そちらの力を拓いてゆく可能性もある。だがそこには芸能的思考、野生の思考の基本が必要だ。そういったモノがない者達はそもそも神聖なる空間に入る資格すらないのだという事を知るべきだろう。

かつて未来派は、車や電車、飛行機、ジェットコスーター等のテーマパークの類いがシャマン的な力の拡張をもたらす事を示唆したが、これもそうはならなかった。

だがこれも本当の事だ。だが人間達はあまりその芸能的思考の基本を喪失している。

シュトックハウゼンやケージにより電子的な音響が音の世界を拡張してゆくように思われた事も決して嘘ではない。その可能性もみてゆくべきだ。
易の音楽、ミュージックコンクレート、 ミニマルミュージック、騒音芸能・・・

どれも我々を解放させうる可能性があった・・・だが・・・

北米のポピュラーエンターテイメントは20世紀、21世紀の世界各地のポピュラーエンターテイメントの発生に影響を与えた事は確かだ。世界各地のボエミアン芸能と習合していった。

この北米ポピュラーエンターテイメントの要の遺伝子こそブルース、マウンテンミュージック、メディスンショー、ゴスペル等であり、これらが50年代のビートニク、60年代のヒッピームーブメントを通過する事で東洋や先住民の力もシンクレしていった。


私はこれまでブルースを重視し、ゴスペルへの発言はどちらかと謂うと避けてきているが、それはゴスペルが流行により汚されてきたからに他ならない。 またヤソ的なものと捉える見方も実のところ正しくはないだろう。

ゴスペルの中でいわゆるブルースとの中間領域にいたブラインドウィリージョンソンやブラインドウィリーマクテル、シスターロゼッタサープ等はこれまでに何度か取り上げている。ゴスペルの発生においていわゆるサーモン的なそれは重要であり、漂泊性を思考する上でエウ゛ァンゲリスト的なる存在は要となってくる。 ゴスペルの中にあるアフリカ性を思考する事が重要なのだが、その事が欠落しているものがあまりに多いのは残念な事だ。また信仰においてもアフリカの川の芸能やブドゥン的なるものが真の核なのであり、ヤソ的なそれは表面を被っているに過ぎない。もちろんヤソ的なるものもヌミノーゼ段階まで到達すれば同じ事であるが・・・

我々は、ルッソロのノイズにこそ芸能を無限に拓いてゆく可能性があるとする発現、アルトーのスカトロジー的な叫びとオノマトペをもう一度思い出し、アフリカンノイズとラスコー人のノイズとを交錯させてゆくべきだろう。そして都会的ノイズをも飲み込み、宇宙開闢、世界開闢のイムイロテンポーレ的なノイズも飲み込んでゆくべきだ。 翁の動きをもう一度捉え直してみよう。古く、未来的なその所作を・・・

玉手箱

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私がこの一年にわたり最も考えてきた事は、玉手箱についてなのだと思う・・・

玉手箱ほどに物事を美しくするものはない・・・否・・・

神仙的な思考をも超えてゆかねばならない。

玉手箱のもつ含蓄と射程は途方もないものである・・・。

別に私は何かを伝えたいわけではない。

ただのひとりごとであるから、勝手に解釈してくれればよいが、

古代の芸能においても現代の芸能においても 玉手箱は重要な何かなのだろうか・・・?

今まで世に出た玉手箱論の中で私が最も好きなのは?

ひとつだけ謂えるのは、玉手箱だけは美しくなければならない・・・ダントクのように醜は至高だ・・・

だが玉手箱だけは美しくなければならないと私は信じている・・・これだけは私の我儘かもしれないのだが・・・

漂泊芸能人としてのタクシー、マレビトとしてのタクシー

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流行歌謡の分析で誰だったか?タクシーを漂泊芸能人の末裔のように捉えていたが・・・

玉手箱の瞑想

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やはり最後にはそこに行き着くしかない。私は、最初から最後まで瞑想と籠りについてだけを語ってきたし、それだけを語りたいのである。 最後の瞑想は、玉手箱から始まるべきである・・・
残念ながら根拠はない。私の言葉にはいつでも根拠と実感があるが、今回は、全く何もない。ただ玉手箱から瞑想を始めるとする言葉だけが、存在している。

ひたすらに玉手箱と内声を鳴らしてみる事だ。

多分何も変わらないだろう。

今夜は、別に芸能教育のために語っているのではない・・・

瞑想と籠りだけが唯一の術なのだ。

玉手箱から始まる瞑想は多分正しい。さっきのマントラヨーガ的なる玉手箱は別にどうでもいいかもしれないが、あらゆるものを突き抜けて玉手箱が顕れてきたのだから多分正しいのだろう。

私はしばらくの間、玉手箱の瞑想と戯れてゆくつもりだ。

別に弟子や生徒さんに教えるようなものではない。

だがあらゆる芸能と信仰と瞑想を突き抜けた私流の遊びとしての芸能であり、瞑想なのだということだ・・・

李香蘭~浅草十二階~満映・・・そのライフインデキスとしての李香蘭~

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山口淑子さんか亡くなった。ご冥福をお祈りします。

李香蘭こそ、至高の芸能人であった。 少なくともある着想をするならばそう捉える事が出来るのだ。
かつて浅草十二階において数々の至高の 芸能が発生し、皆 妖怪そのものと申してよい芸能力を発揮した。



浅草オペラ作者である獏与太平~古海卓二~、

舞踏家・石井漠

浅草オペラの創始者・伊庭孝・


後の満映理事・根岸寛一

ダダ詩人・高橋新吉


内田吐夢

甘粕正彦

中浜哲

吉田大次郎、

倉地啓司、

河合康左右

大杉栄

そして辻潤と小生夢坊・・・

また大杉栄が影響を受けたバクーニン、クロポトキン、辻潤が影響を受けたマクス・スティルナー
も浅草的な思考と肉体の源泉である乞胸的な力とシンクレしていった事だろう。乞胸は浪花節を発生させる核になった力であり、究極の怪優にしてワザヲギであったダントクの目指すべき極致でもあった。

こうした浅草十二階の力が満映にそそがれてゆき、それは後に東映を発生させてゆく。その事をいま思考し直すべきだろう。


またツァラのダダやマリネッティの未来派も乞胸的な肉体を持つ事で浅草的な芸能を発生させていった事も注目に値する。

mavoは、その中核となった潮流であり、それは後の具体美術協会、1960年~1970年頃に存在した ネオダダ・オルガナイザーズ、ハイレッド・センター、ゼロ次元、 他に時間派、九州派、フィルム・アンデパンダン、状況劇場、天井桟敷、暗黒舞踏等によりラバイバルされてゆく事にもなるのだ。こうした60年代~70年代のダダ、アングラが現代までのカウンターカルチャー、サブカルチャー、メインカルチャーの基本を創出してゆく事になるのを考えるならば浅草十二階の芸能とその生命指標であったマウ゛ォがいかに重要かは解るだろう
マウ゛ォは村山知義を中心とし 他に社会風刺漫画の柳瀬正夢、田河水泡がいた。
村山は意識的構成主義~ロシア構成主義からの影響を受け、それを解体した~ウ゛ィジョンで芸術の究局は建築と主張していた。

関東大震災後のバラック装飾は、その顕れでもあった。

またマウ゛ォがモデルとしたネオダダイストであるモンドリアンそして「デ・ステイル」も注目すべきだろう。

こうした全ての力を集積させた存在こそが李香蘭と李明であったのだ。

我々はあらゆるイデーを乗り越えてこの芸能力を思考すべき時に来ているのかもしれない・・・。

ただ現代人の多くが捉えているハリウッド的もしくはブロードウエイ的な李香蘭はカスであると言っていい。

芸能は光のあてかたで大きく変わるのだ。

大正時代は最も重要だ。これもあまりハイルチャー的な視点から捉えすぎるべきでない。

昨日RDレインが少々TVで取り上げられていた。

私はレインの言葉達をかつて愛していた。

今はもう好きではない。だが・・・

このレイン的な思考は多かれ少なかれ現代を支える源泉になっている事だろう

そしてそれはダダを乗り越えようとし、洞窟芸能とも格闘したが、結局は逃げ出したものをやはり恐怖のどん底に叩き落とした思考なのだ。それはオートマティズムやブリコラージュ、フェアリーテイルをも解体させてゆく可能性を持っているとかつて信じられていた・・・

その潮流の中でもがきながら漂泊したもの達もその多くはモノガミーの中で偽りの幸福に浸っている。モノガミーも枠組みの問題であるからして、もちろん全てが悪いわけではない。

新宿的思考と原宿的思考、渋谷的な思考の移り変わりを体現してきた芸能人にはやはりケルアックやフラワーチルドレン、フーテン的な思考が基層に流れ、更なる無底には、ボヘミアンが・・・そしてマンガニヤルとジョーギーがいたわけである。

その全漂泊力のアクシスムンディが浅草十二階とミナミの五階であり、そして満映にそそがれたのである。

満映について語るのはいまもって難しいように思うが、李香蘭の死をきっかけに満映は何かを語り始めるやもしれない・・・

東アジアと北アジアの芸能はここを思考せずに語れないのだ・・・。

山岳信仰考、山伏考、縄文芸能、妖怪考、芸能に関する質疑応答、近頃の俳優がダメになったのは、新劇的訓練を受けていないからではない!!!

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ここの所、少しバタバタとしていまして、コメントや質問を下さった読者様や生徒さんに返事が遅れていまして大変申し訳ありません。


ざーっとですが、質問に答えてゆきたいと思います。


先ず勘違いしてはならないのは、歌のボイストレーニング、話声のボイストレーニングなんてものはないのだと言うこと、 世が勘違いしているそれは、基本的にはモラルセンスの訓練なのであり、野生の回復ではない。

基本的には歌声的なる機能の回復が話声にとっても当然歌にとっても基本となります。

いわゆる歌謡教室やボーカルスクール、話し方教室、専門学校などがニーズにあわせてコース分けをする事から こうした勘違いか出てくるのだと思うが、

声というのは本来野生の構造を回復しなければ何にもならないのであり、それは歌声や話し声の両者に通低するものなのである。

いわゆるロックのためのボイストレーニング、オペラのためのボイストレーニング、演歌のための云々・・・といった考えも滑稽であり、有り得ない事だ。

何度もいうようだがこれらはいわゆるモラルセンスの段階ではじめて考える事であり、声の訓練の段階では、喉の野生とモラルセンスを考えるとすれば古代芸能のモラルセンスを捉えてゆかねばならない。

ホーミーの歌唱という事だが、こちらについては、~こどものための~の中でざーっとであるが触れている。 こちらも喉歌や倍音歌唱法に通低する構造を取り出してやる事が、喉の生理という事では基本となる。ただホーミーというのはモンゴルのモラルセンスが働いた倍音唱法であり、アルタイ山脈周辺には、様々な喉歌のモラルセンスがある事を把握する必要があり、またアジア各地、東アフリカ、西ヨーロッパにおいてでさへ、ドルイドの態の中に喉歌的なるものがある事を把握しておくと良いでしょう。

ライについてはリミティ以前のモラルセンスが基本となってくる。またブラックアフリカと通低するモラルセンスを捉えておく必要があるように思う。それを知るためにはベドウィン歌謡を押さえておく必要がある。


ボーカル・アタックは全て懸垂機構を刺激する態であり、ハミング、ハニング、LAはプレフォナトリーチューニングを利用した態であるとまずは考えてよいでしょう。

それから、かわうそ君様、お久しぶりです。ご質問頂きありがとうございます。
祝詞や真言というものも民俗化され、様々な節で唱えられていますので、まあ自分の好きな節型でよいと思いますが、俚謡旋法や律旋法、都節のテトラコルドやその派生型で昭和のはじめ位までは唱えられてきました。サーモディックスタイルで唱えるのでも東京オリンピック以後と以前の人では大分違います。巷間芸能や漂泊芸能に通低するような節回しで唱えられていましたし、声質も1型やガム型が基本でした。
こうしたものの源は真言はいわゆるパラブラフマンが源にあるでしょうし、祝詞はマレビトの咒言が源にあったわけです。
よってascの極致がベースになっているわけであり、当然、宇宙全体に影響を与えます。ただし、近代化されたエソテリズム
が考えるような効果はないと思ってよいでしょう。だいたいからそんな表層とは違う処でこれらの運動は起こっているわけです。近年の自然科学的な研究から集団沸騰の思念が量子世界に影響を与えてゆく事も解ってきています。芸能の原形とは粘菌的であり、その粘菌は宇宙開闢もしくはそれ以前の音響的なるものとも類似しています。植物や動物の生態、世界各地の民俗芸能もこうした原初的な音響の顕れであるわけです。芸能とは本来そのイムイロテンポーレに触れるワザなのですから、当然、宇宙全体に影響を与えています。それは信じる信じないではなく、そうなのだという事です。

かつて我々は入門時に折口信夫の一字一句と格闘してはならないと習った。
先ずは全体から捉えてゆく、それから円環的にその名彙、語彙の含蓄が語られてゆくから、先ずは先に進めてゆく事が重要だという事だ。

常磐炭鉱節の射程は縄文にまで到達している。あらゆる漂泊芸能の集積と捉えてゆく事でそうした姿が見えてくるのだ。

我々は縄文三仙人の思考をもう一度再考する必要があるように思う。

縄文人やラスコー人を甦らせる必要があるのだ。

9月からラスコー人や縄文人の芸能についての講義を開始したが、諸君はこの原始芸能をどれくらいつかめだしているだろうか?

我々は今 山岳信仰を再考すべき時にきている。

山伏やポン教を思考してゆく事も重要だろう

山伏は明治政府により、弾圧されてきた。列島の民俗芸能も漂泊芸能もその基本はほとんど山伏にあったと言ってもいいだろう。

山伏の中には仏教、道教、神仙、陰陽道、雑密、シャマニズム、原始神道、山岳信仰、咒禁道・・・と言った様々な信仰や芸能があり、それは後に新宗教を発生させる原動力にもなってゆく。

最近、とある評論家が最近の俳優がよくないのは、新劇的な俳優養成システムを受けていない俳優がショービジネスに増えてきたからだという類いの事を言っていたが、これは大きな間違いだ。新劇的な養成システムではワザヲギを鍛える事は出来ない!!!
演技システム、滑舌、発声、身体訓練から新劇のそれは間違いだらけであった。旧石器時代から続く芸能の流れから見ても、自然科学から見ても間違いだらけであった。

しかし今の俳優よりもかつての新劇俳優の方がワザヲギとして良いと言うのは本当だ。だがそれは、当時の時代の空気が育んだものだと言っていい、巷間芸能や浪花節、都々逸、働き的な所作を継承していたワザヲギ達が時代のモラルセンスを作っていたのだ。そしてその時代の空気は悪しき新劇メソッドによっても砕かれる事はなかったのだ。

今の俳優達が酷いのは、むしろこの悪しき近代メソッドにより崩壊した空気の犠牲者達だと言っていいだろう。

評論家達もこうした事を読み取れないわけだから、 後進が勘違いして近代メソッドにより、自らのお粗末な身体や声や心により抑圧の拍車をかけてしまう事は間違いなかろう・・・。

そしてそのもの達の大先輩の俳優達も自らの演技はそうした近代メソッドにより育まれたと勘違いし、そう教育し続けるのだから 悪循環だ。

もはや列島には~胸叩き~のような野生の俳優は顕れないだろう。

貨幣の増殖は重要だ。

ただしバタイユ的にするべきだ

胸叩きのルーツには山伏がおり、山人がおり、縄文人がおる。

縄文人のように歩ける俳優がおるか?

縄文人のように叫べるワザヲギがおるか?


縄文人のように精神パラダイムを行き来出来るか?

無理であろう。

我々は本山派、当山派以前の山伏、すなわち蜂子や役小角、泰澄のような山伏を再生させ、金剛蔵王権現の験力を再び得なければならない時に来ている。

近世の山伏は定住をはじめたがまだまだ怪しさを放っていた・・・

そして新宗教を生み出した、後のハイパー宗教などもこうした基盤の上に発生したと考えた方がいいのかもしれない。




妖怪ウォッチのブームにより、妖怪そのものが、またまたメインカルチャーに乗りつつある。それは喜ばしい事だ。現代の世で唯一巷間芸能的な役割をしているのは妖怪位かもしれない。

かつて大野一雄は妖怪画から原初の肉体の再生を行ったが、見事であった。

我々も実験的にこれに取りかかろうと考えている。

肉体だけでなく、総合的な芸能として妖怪を再生させようと考えている。

かつて妖怪達は芸能の主役であった古い古い古い芸能の要には妖怪が必ず来訪されたのである。

妖怪は縄文の神だ とする説は愚かなアカデミズムからは否定されているが、

確かに実証のしようがない事だが、この考えは概ねあっていたし、ここから捉えねば妖怪と戯れる事など不可能なのだ・・・

中世の九十九神~近世には本草学をベースにしながら妖怪の図像化が行われてきた。近代には妖怪ハンター井上円了が現れ
柳田により伝承妖怪も採集されてゆく

妖怪は何度も何度も我々に古代心性を示すために再生されるのである・・・

近代芸能教師、近代ボイストレーナー解体 ノイズの未来、カラオケ採点マシーンを解体する。肉体とオリジン、ダダと赤瀬川原平と

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声域を拡げる事などそんなに難しい事ではない。第一にレジスター内の音で届いていない音がある場合は声域を拡げるのにそれほどの時間はかからない。だがレジスターバランスに関係する領域(厳密にはほとんど全てが関係する)の解放に関しては6年以上かかる事は何度も謂っている。

よく短い期間で解放出来る事を主張する近代芸能教師や近代ボイストレーナーがおるが、本当に短い期間で解放出来ると思っているのだとすれば、その教師の元にはよほど原始本然に近い状態の生徒が集まってきたのだろう。かなり恵まれた教師であったと謂える。

もう1つの可能性として謂えるのは、原始本然を解放の基準においているのではなく、アメリカや西ヨーロッパのハイカルチャーやメインカルチャーのモラルセンスだけを基準にしている事も考えられる。

この場合、教師自体がこれまでろくな芸能や歌唱を見聞きしていないので、先ず信用せん方がよい。

後1つは、世の即席主義にあわせてのキ
ャッチコピーだろう。


こうした即席主義的教育を受けた人達は、1年やそこらやった位で声域は生まれつきのものという発想へと到るわけだが、それは大きな間違いだ。

肉体も声も精神もそんなちっぽけなモノであるはずがないのだ。

古代芸能(古代性のある芸能)を見聞きするならば、我々にはほとんど無限の可能性がある事を悟る。欧米のハイカルチャーやメインカルチャーのお粗末な芸能しか見聞きしていない馬鹿な芸能教師のいう事など何があろうと信用するべきでない!!!

我々は肉体、声、精神のオリジンを掴み、芸能のオリジン、歌唱のオリジン、舞、踊りのオリジンを表出せねばならない。

そのためには近代芸能教師や近代ボイストレーナーを解体せねばならないだろう。

この馬鹿者達のせいでいったいどれだけ多くの芸能が抹殺されてきたと思っているのだ!この者達に騙されてはならない。


まあ本当にこんな事ばかり言っているから、どんどんと敵を増殖させてしまっているのだが、だがこれは芸能にとって重要な事なのだから仕方がない。私は生涯を芸能のためにサクリファイスする覚悟でいる。芸能が少しでも良くなるために戦い続けるつもりだ。

未だに横隔膜唱法や口形を絶対視してゆく発声指導が流布しているのを見ると正直いって落胆する。

こんな方法で何かを生み出せると思っているのだろうか?

先ずこういった事を指導する教師は第一に勉強不足だ。

芸能指導のための基本的な思考さへも欠落している。

例えば丹田呼吸やスーフィーのフーやプラーナヤマと習合させた上で呼吸を重視するものは解らなくもないが

まあ、この場合も大半がサトルボディ的な地平を見失っているのであり、 近代と前近代性を混同してしまい、せっかくの東洋芸能の態も台無しにしている場合が多いのだ。

口形に関して謂うならば、生理的な法則を全く無視した指導が多すぎる。


基本的には喉の中と吊る筋肉の解放を狙うならば、ほとんどこうした指導は無意味だ。

ただ1つフィジオノミー的な側面からこうした事を思考するのは無意味なわけではない。

例えば美空ひばりちゃんはメリスマやユリやウミジを行う時に顎や首は一定に保った上でほとんど声道壁やパフの動き(こうした動きやメリスマについての自然科学的考察は今のところ決定版のようなものがないのが現状であるが、基本的に吊る機構のトーヌスと神経インパルスが解放されるならば、首や顎の動きは必要ない。)だけでかける事が可能であるが、カメラに向いた時にわざわざ首を振って我々に語りかけるかのように歌い尻の処理をしてくれる。


ひばりからこうした所作を無くしたらやはり少し物足りなさを感じるだろう。全漂泊芸能を集積した彼女の声態はただ音の世界だけに特化しても最高ではあるが、その肉体も列島漂泊芸能の集積体なのである。彼女はフィジオノミー的にも見直してゆく事で、より壮大な芸能空間が顕れてくる事に気付かされる。 そしてこうした所作によりデジタル的に分析した音響にはない音響さへも脳内で増殖させてゆく事に成功するのであると謂える。
分子運動全てはこれを含むか否かはともかくとして、こうした地平を見直してゆく事はもちろん重要な事だ。

だがそれならば逆に肉体のあらゆる可能性を表出する必要がある。

またこれはある芸能のモラルセンスにおいてと一言前置きをすべきだ。それを欠き、あくまで声のための生理的法則として体壁形の所作があるのだとする考えは、声の自然法則からは間違っていると言わざるおえまい。

俳優術においてもそうだが、せっかく60年代に新劇的な思考を解体したのにこうした思考は未だに根強く残っている。またスタニスラフスキーシステムの解体と読み直しも鈴木メソードを踏まえてゆくべきだと思うがそうした地平さへも持っていない教師が多い事にも驚かせられる。

そもそもの所こうした教師が大好きなシリアスミュージック、ハイカルチャー化した芸能の流れに乗る者達からでさへ、こうした近代芸能教育、近代音楽教育を解体してゆく思考はすでに100年以上前から顕れているわけだが、例えばシリアスミュージックでは、ワーグナーのトリスタン和音やシェーベルクやベルク、ヴェーベルンの12音技法、コダーイ、バルトーク、ストラヴィンスキーの俚謡、民俗芸能の導入、ケージやシュトックハウゼン、サティ、ベリオ、リゲティ等の20世紀の実験音楽によりすでに解体されていると言える。
演劇においてもアルトー、グロトフスキによる肉体の演劇、バラバによる演劇人類学、日本におけるアングラ第一世代により徹底的な原初回帰、始源の演劇の発見を行われていた。 美術、文芸においてもマラルメによる実験的詩、ダダ、未来派、シュルレアリスム、表現主義・・・これらの中に破壊と始源回帰は含まれていた。

19世紀西ヨーロッパ的な美意識や教育法からは何も生み出せなければ、だれも望んでいない事は明白なのであるが(たとえ誰も望んでいなくともそれが宇宙法に根差した芸能ならば、人間を解体してでも推進させてゆくべきだが・・・それから芸能というのは、人が創るのではない。イムイロテンポーレの芸能が語るように、それは宇宙開闢以前からあるヌミノーゼ的、ブラフマン的、タオ的、フー的、マナ的、オレンダ的、ニイカング的等々なる律動そのものが芸能なのであり、ラディカルな生理学が語るように各地の民俗芸能は宇宙~天体~海~大地の律動の模倣とする説は、全く正しいと言ってよい。)
いまだにそれが規範となっているのは如何なものか?

私は至高のノイズとは何か?を思考している。ノイズの概念の発生とその語彙の含蓄と射程については様々な意見があるだろうが、私はノイズの原型をヌミノーゼ段階で触れる事になる音響に見ている。 また ノイズの至高になりうるものはジャパノイズの方々が提示してくれている。

ノイズ系の批評家が以前ジャパノイズをアニメや漫画と並ぶ日本文化としてもっと評価する人が現れて欲しいと語っていたが、 ジャパノイズの魅力に気付けるものがマイノリティであるという現状は、やはり好ましいとは言えまい。

民俗芸能教育、古典芸能の教育においても オリンピック以前の列島人は従来の方法で十分であったと思うが、東京オリンピック後 アジア的な声、肉体、精神を欠落した我々にとっては、もう一歩 原初芸能を構造的、モデル的に把握し、それを身体化してゆくように努めてゆく必要があるように思う。

近頃流行りのカラオケ採点の機械だが、あんなもの(今のところ、)何の役にもたちやしないだろう。重要なモルセンスや音色、微分音程、もしくはレチタンド的なものに対する評価がなければ、全くガラクタに等しいと思ってよい、だいたいから耳で聴いて判断すれば済むことだ。 カントメトリックシステムを応用してゆくならばああいった採点機にも未来はあるかもしれないが、今のままでは、世の芸能の腐敗をすすめるだけだろう。

メリスマやターン、フェイク、カーブ、由り、等に加点があるのも モラルセンスが無視されているため、あまり意味があるとは謂えまい。


こうした機械が歌を真に裁けるようになるにはまだまだ時間を必要としよう。

我々はこうした近代人間達の戦略に騙されてはならない。

ちゃんと耳があるものは耳で感じればよい 耳がないものは身体で聴くことだって出来るのだ。

目で聴くことだって出来よう。斜聴はまったく耳と目を交錯させた聞き方だ。

近代に毒された機械が示した点数などカスにもなりはせんのだ。

ただし、機械達も未来に拓かれてゆく可能性も十分にある。シンセサイザーがアジアやアフリカに近づいたように、ノイズの価値を再発見したようにだ。

要するに機械をあやつる人間の問題なのだ。

機械達は素晴らしい いずれ近代の殻をやぶった アジア・アフリカ的な機械が我々の前に顕れてくるだろうし、その萌芽はすでにある。だがまだまだ足りてない

トインビーのいう西洋以外から発生するであろう自然科学のようなものから生まれるであろう 機械のようなものが顕れた時、機械達もはじめて開放されるのである・・・。

結局、私がこういう風に謂うのは、私が彼らの中に命のようなものを見ているからに他ならない。 我々はこのアニミスティックな感覚を忘れてはならないし、また本来そうした感覚が強いはずなのだ。

私は一方で機械を否定するが、もう一方で機械の中にある野生をみるのだ・・・この感覚こそ未来にアジア・アフリカ的な自然科学のようなものを発生させうる萌芽となる。

肉体のオリジンを思考、実践する事は重要だ。
我々は肉体のオリジンの反応が痙攣にある事を生理学を通して知っている。また両生類の中に原初の肉体や思考があり、声がある事も、

暗黒舞踏、舞踏は肉体のオリジンを思考する。

神代の態がそのままオリジンか否かはともかくオリジン性を持つ事は確かだろう。


我々は先日、ダダ史において重要な者を失った。 ダダは列島のあらゆる近代以降の芸能のアーキタイプの一つであった。否、ダダと列島の漂泊芸能と諸外国の漂泊芸能が融合した状態にこそ近代以降の芸能のアーキタイプがあったと謂える
またシリアス芸能や上位芸能における実験の皮切りもこのツァラのダダから始まったと言ってもよいかもしれない。

ネオダダオルガナイザーズ、ハイレッドセンターの中心的存在であった赤瀬川原平による影響はそれ以降の様々な芸能、カルチャーに及ぶ、ご冥福をお祈りします。

具体美術協会にはじまる60年代ダダは、アングラ演劇、暗黒舞踏。アングラレコードクラブ、ガロ、フウテンとあらゆるカウンターカルチャーや後のサブカルチャー、ポップカルチャーに影響を与えたと謂えるだろう。

また赤瀬川の超芸術トマソンも様々アヴァンギャルド 思想に多大な影響を与えた。

フルクサス運動も世界各地の芸能の底を蠢く事となった事を我々は今再確認すべきだ。

こうした抹殺された思考や肉体に光をあてるもの達により古代性は再生されてゆくのだ。

我々は抹殺された思考や肉体、声、芸能を発見し続けなければならない。


だが残念なのは、その発見された思考も肉体も声も芸能も 現代の近代化された大衆には中々に届きにくいところだ。

これを邪魔するもの達の抹殺こそ我々がまず真っ先にすべき事であろう

金剛蔵王権現の復活は近い!!!

サイケデリック感覚と悪法と 縄文人、ラスコー人、アルタミラ、ショーヴェの芸能

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人工であろうと天然であろうと 脳内のそれであろうと 芸能にとってサイケデリックな感覚は極めて重要だ。

否、これなきものなぞ 最早 芸能ではないのだ。

その事を理解出来ない馬鹿者があまりにも多いのには困り者だ。

~いつも言うように馬鹿とは神憑りの感覚を現した語彙ゆえに本当は素晴らしい感覚だ。そういう意味において我々は真の馬鹿であり、世に蔓延る馬鹿は偽の馬鹿だ。サクレドフーとはよくいったものだ。我々はサクレドフーを目指すべきだ!!!~

あのツィッターというのはどうにかならないものか? 物事の理を解らぬものが 語るから始末が悪いし、しかも匿名性が高く卑怯極まりない。 こういったメディアがカウンターカルチャー的な力を持ちうる指摘も一理ある。だが卑怯、卑劣なもの達は、サクリファイスさせるべきだ。私は何も謂うなとは言わない。だが、しっかりと名を公開し、いつでも八つ裂きに出来る場に立つべきだと謂っているのだ。脳内を暴露するのもロシアフォルマニズムのグロソラリア的で悪くはない。だがいつでも死ぬ準備をしておく必要があるだろう。

ビートニク~ヒッピー、フラワーチルドレン、フーテン を例にあげるまでもなく古代よりアフリカ的段階の芸能人はサイケデリックな感覚から芸能を表出してきたのだ。

昨今メディアで騒がれていた(いる?)A氏のダブルミリオンを記録した二曲がサイケデリック感覚から創作された可能性があり、騙された、裏切られた とかいった意見や記事もあったが勝手なものだ。 自らのリテラシーの無さを棚あげして、


これらがサイケデリックスを使用していようがいまいがどちらでも構わないが、真の芸能ならばサイケデリックな世界に触れ、それから外部表出するのは当たり前の事だ。 それが人工か天然か脳内のみで生成するかの違いだけである。

A氏が責められる点があるとするならば
それは法にふれた事のみだ。

事をそれ以外に拡張すべきでないのだ。

サイケデリックスが悪い理由も身体に悪いだの、幻覚をみるだのは理由にはならない。

これもただ法により禁じられているからに過ぎない。

私にはサイケデリックスは駄目で酒や煙草はいいと言う者の感覚が信じられない。

これらは基本的には同じものだ。線引きは近代人が酒や煙草は辛うじてコントロール出来るのに対し、サイケデリックスは使用が下手だったばかりに危険視しただけの事だ。これらは全て古代においては神の飲み物にして神の植物、さほど差はないのだ。

だからサイケデリックスが駄目と謂うならば酒も煙草も駄目だ。

これらの線引きは法で決められたからぐらいの理由でしか見つからない。

法とは本来 ジネンの秘密やジネンの法則を意味していた。それからするならば近代以降の法はあまりに人間の身勝手なそれで、あまり意味があるようには思わないが、まあ悪法もまた法である・・・という事にしておこう

本当はアフリカ的段階の人やサドゥー、宮沢賢治、毛坊主達のように宇宙法の中で生きなければならない。宇宙法からすれば近代人の大半は重罪人なのだという事を深く肝に銘じるべきである。


A氏に愛人が何人かおった事も別になんら問題はない。モノガミーとロマンティックラブイデオロギーだけを愛の規範と見るからこれらも問題のように思ってしまうのだ。一妻多夫、多夫多妻どれも視野に入れておくべきだ。芸能人とは本来、宇宙法に生き、形骸化した法の外を漂泊する存在なのだという事を知らねばならない。

因みに私は、古代的フェミニストだ。男性優位を唱えるものは、基本的に撲滅すべきと考えている。ジェンダーとしての男性はクズに等しい。フェミニスズムは近代以降の思想だが、古代人は我々より遥かにフェミニスト的であった。

もっとも愛や恋愛は重要だ。これらは本来芸能そのものであった。いかなる形であろうと倒錯した愛であろうと構わないが、根本にはヒエロスガモス的な感覚が流れていなければならない。もしくは光源氏のような帝王の徳、 色好みが流れていなければならない。

とあるミュージシャンが一流のミュージシャンはドラッグなんぞ使わない と言いA氏を批判したそうだが、 これは半分あっており半分間違っている。


古代の古代のそのまた古代の芸能人達はサイケデリックスを使用せずに純粋な籠り態だけでASCに入っていたであろう事が宗教現象学の研究から解っているが、これらの籠り態が形骸化してくる段階で古代人はサイケデリックスを籠り感覚を補助する形で使用し始めた。そして次第にサイケデリックスは籠りより主になるようにすらなる地域も出始めてくる。

だがアフリカ的段階の芸能においてサイケデリックスは正しい使用をされてきたため、なんら問題にはならなかった。また古代人は近代人に比べ、圧倒的に広い精神領域を認める社会であった。

要するに遥かな古代の古代にいたであろう超古代人は圧倒的な籠り感覚で 芸能を出来たため、 真の芸能人がサイケデリックスを使用しないは正しい。

しかしながらこの籠りとサイケデリックスの併用をし始めた古代芸能人も サイケデリックスのみの芸能表出をし始めた古代芸能人も

現代芸能人からみたら圧倒的な芸能力を持っており、ここ100年の近代芸能でこの古代芸能人の水準に達したものは少なくとも公のものでは、ほとんどいない。ロック出現以後では、一人もいないと言っていい。ヒッピー達もケルアックもギンズバーグ、ティモシーリアリーもこの水準には全く届いていない。ビートルズもプレスリーもジャニスジョプリンもそうだ。 もっと謂えば ラターもプムプアンもエルフィもネティといった近代アジア大衆歌謡の最高水準の歌い屋もこの水準には届かないだろうし、 ピアフもアマリアもマリアタナセも バリスターもサリフもユッスーも レナもアタウアルパも・・・やはり届くまい。


A氏が今の状況で作詞をしている事を非難していた者もいたが、

要するに

反省の色がなく、普通の感覚でない

という非難だ。

普通の感覚? 芸能をするものが普通の感覚でどうするというのだ。芸能とは聖なる狂気そのものだ!!!

はっきりいって近代芸能人の大半が普通(デカルト的、アリストテレス的に毒され古代心性を喪失した)だからつまらんのだ。

芸能とはどこまでも野生の狂気に他ならない、それを無味乾燥な近代人の価値にあわせる必要は毛頭ないのだ!!!

A氏も別に異常だとは思わない、むしろもっと聖なる狂気を目覚めさせねばならないだろう。

それから作詞をする事は十分な反省に
なりうる

芸能とは本来サクリファイスだ。


作詞もラディカルにやるならばそこで何度もサクリファイスを繰り返す事になりうる

グロソラリアやオートマティズム、お筆さき・・・我々はこの感覚の原点に咒言をみるのだ。

近代人がその次元の作詞が出来るか否かはともかくとして

作詞という行為にはそうした射程がある事を知るべきだ。

それから拷問や現代の死刑制度のアーキタイプも古代のサクリファイスの芸能であった。また世界各地の地獄のビジョンもこのサクリファイスの芸能と習合する事で発生してきたものばかりだ。また王権の芸能もここと関連し、本来はジョーキングをも含んでいた。

最高の芸能の一つと考えてよい、ラスコーもアルタミラもショーヴェもサイケデリックな感覚を基本としたものであると言っていい。

我々はブルイユ神父やルロワグーラン等から學ぶべき事は部分的にはあるだろうが、全体的には信用すべきではない。彼等にはやはり籠り的思考が欠落しているからだ。

我々は籠り態を窮めてゆくべきだ。さすればあらゆる幻覚植物はことASCに関しては必要なくなる。(植物達は偉大である。我々は人の勝手な法で敵視するのでなく、植物達の偉大な力をもっと崇敬すべきだ。)

芸能人にとってASCは基本にして至高
である。これを失う事は許されない事だ。

窮めた籠り態によるASCこそ最も強力である。

その事をもう一度押さえておく必要があるのだ・・・。

芸能質問への返答

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質問への返答が遅くなってしまい申し訳ありません、


アザゼル様コメントありがとうございます。
そうですね、カラオケ採点機は、今のところ役にはたちませんね、我々はその事が解るからよいのですが、多くの方は機械やメディアの情報に騙されますから、そこが厄介な所です。



まーし様

さて、風邪の時ですが、基本的には余程ひどい時以外は練習はすべきでしょう。
タイプ5やタイプ1、ガムのような閉鎖が強いタイプは場合によっては、刺激が強い場合もありますので、少なめかやらなくてもいいでしょう。

風邪の時には(初歩的段階において)基本的に閉鎖の強いタイプや声帯筋が活発に働くタイプは避けた方が無難です。でもタイプ4あたりならば、それ程負担はないはずです。また、こちらが慢性的に二重のアインザッツになるようでしたら、かなり疲れている証拠ですので2~3日は休んで様子をみるといいでしょう。咳や喉風邪、アレルギー性のものは場合によっては1ヶ月以上続く場合もありますので、厄介といえば厄介です。

その間、精進を休むというのは、やはり良くありません、症状と相談しながら訓練はするべきでしょう。勿論、無理は禁物です。


シマムラ様

奄美の俚謡については、先日言った通りで、坂元豊三や南政五郎、里国隆あたりを先ずは聴く必要があります。 奄美の俚謡は確かに強調対比の極みですが、1970年代以降のそれはあまりお薦め出来ません。


本年もフースラーメソードを読まれた方々が私の研究所を訪れましたが、やはりまだまだ世の中の状況は絶望的であると言わざるおえません、私の研究所にはそれこそ世界最高クラスの民俗芸能人、民族芸能人更にまだまだ未知数な前衛芸能、実験芸能、超芸能の担い手までも集まってきています。はっきりいってこの水準の芸能研究所は稀でしょう。

ただそれでも世の中全体を見渡すと19世紀型のメソードが蔓延り、ロックやリズムアンドブルースを勘違いして聴き、ジャズをハイカルチャー化しようとする輩、民族芸能、民俗芸能のハイカルチャー化が目立つ昨今です。

我々は、この者達を滅ぼさねばならないのだが、この目に見えぬ怪物の正体は、実のところ想像以上にデカイものである。我々はこの怪物を滅ぼすためにバタイユと同じ道を歩む必要がありそうです。経済学を思考し直す必要があるわけです。その源はアボリジニの芸能にあるわけですが・・・オセアニアに通低する原初の芸能をもう一度経済学的な見方で見直す必要があるでしょう。我々が葬りさるべき輩の正体を暴き出そうではないか!!!

オセアニアの奇跡の果実、ノニを食す時、我々の中で、至高のマナーが増殖を開始する年末から年明けにマナーの増殖をはかる事こそ芸能と経済、そして宗教のオリジンとなるのだ。

皆様良いお年をお迎え下さい。本年も大変お世話になりました。

武田梵声

芸能質問への返答 追記~超芸能思考~

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まーし様 質問2へのお答えをしていなかったので追記です。

まあ近代的生活の中で風邪をまったくひかないというのは難しい事と思いますが、漢方の世界では、いわゆる補気剤をとる事で、風邪にかかりにくい肉体を目覚めさせてきました。

代表的な補気剤は、補中益気湯や玉屏風散で、松寿仙も万能薬ですので風邪予防にも役立つと思います。

私自身は現在は松寿仙を飲んでいますが、以前は、玉屏風散を飲んでいました。
玉屏風散や補中益気湯は、西洋医学的な実験においても風邪の予防効果が高い事が証明されています。

勿論、漢方においては、証を明らかにし、その上で補気剤(もしくは別の)を決定してゆく必要がありますが・・・

また腎は、元の気と言われており、全ての気の源と考えられています。回復力などもこの腎が司っていると考えられているので、補腎をする事で、風邪にかかりにくく、なったとしても回復が早い肉体を目覚めさせてゆくと考えられます。

後は東洋的呼吸法です。白隠禅師の内観法や軟酥の法などは養生法としては、有名です。ここから藤田霊斎の調和道丹田呼吸法などもつくられてゆきます。白隠のそれも禅的というより、むしろ神仙道的です。むろん日本の禅は神仙とシンクレをおこしたものですが、白隠の場合、白幽子という仙人との関わりからその神仙的な色彩が濃厚です。
因みにいわゆる調和道からワイル博士のホリスティック医学なんかも受容してゆく流れも生まれてきます。
まあ、こうした東洋的呼吸法や肉体鍛練は、川合清丸にしろ、長井津の真向法にしろ、岡田式静坐法にしろサトルボディ(霊的身体)を実感してやるならば健康や芸能の精神状態には良い影響があります。ただし、現代において19世紀半ば以降の西洋の腹式呼吸と混同してしまう誤解だけは避けねばなりません、東洋的呼吸法や肉体鍛練はあくまでもASCやサトルボディとの関連が導きだされるものです。またこれらの方法により声が解放されるとする考えは、基本的に近代人には難しいでしょう。こういった感覚がかなりあたり前にあった15
0年以上前の東洋人にならばもしかしたらそれもあり得たかもしれませんが・・・少なくみてもいわゆる生理段階の呼吸法には声を解放させる効果は微塵もない事は自然科学的に証明されています。


後は食事ですね、芸能の要にはそもそも食がありますので、芸能的な思考を養う上でも食をなおざりにする事はよくありません、 アエノコトや天皇陛下の芸能の要も食の芸能ですし、古代のサクリファイスの芸能も食の芸能と結びつきます

こちらもまあ、基本的にはバランス良く食べれば良いとも思いますが、出来るかぎり、スローフード、自然食をお薦めします。またご出身の土地の民俗料理が特にお薦めです。 単純に栄養学的に見た時には、列島では沖縄、それから島根県の薬膳料理はお薦めです。




さて、別枠で既に返答した内容ですが、食についてと未来芸能への返答もこちらにも掲載させて頂きます。




私の場合、食べる事もほとんど仕事ですから、不規則ですし、空腹時にも、満腹時にも食べる事はあります。いわゆる民俗料理は芸能の要(すなわちアエノコト等の食芸能から発生した)で、本草学的な繋がりは、薬となる食物、いわゆる医食同源にも繋がります。古い芸能人はメディスンマンもそもそも兼ねていました。我々はやはり味覚や嗅覚も近代的になり、本来の味の世界を喪失していますので、アイヌ、沖縄、三信遠、伊豆七島、東北を中心に全国各地の民俗料理から紡ぎだされる原初の味を実感してゆく必要があります。

未来芸能とは、超芸能の事を意味します。すなわちエラノス会議が提唱するあらゆる芸能を突き抜けた先に顕れてくる芸能です。
エラノスは折口芸能学の私の大先輩にあたる井筒俊彦氏も中核的な役割を果たしていました。
超芸能は、あらゆる芸能を突き抜けた先に顕れてきたものであるならば、それがマジョリティであれ、マイノリティでも構わないでしょう。ですが現状では、本質はマイノリティに向ける事になると思います。
基本的に芸能思想上では、マイノリティに向けたものであれ、宇宙全体の変容を意味します。例えば三信遠の榊鬼という芸能神がヘンベをすると、その村全体即宇宙全体が変容、タマフリされるというようにです。
東西声や大道芸における傘をたてる習慣も、アボリジニの杖も古代アクシスムンディの芸能思想に立脚しているわけです。

ただし、これは何度も言ってきた事ですが、東日本大震災後、やはり現実的な意味においても世界全体の変容が必要であるように思います。オーロビンドゴーシュ的な思考を超えた思考を今一度甦らせ、太郎の明日の神話と宮沢賢治の農民芸術概論との交錯を図ってゆくべきでしょう。未来の超芸能はまずそこを踏まえねばならないように思います。そうでなければいくらラディカルな芸能であれ、それは古代的な芸能であり、未来芸能、超芸能ではないように思います。勿論、古代芸能は素晴らしく、最高のものですが、共同体が崩壊し、その共同体の集団幻想が崩壊
した今・・・

集団沸騰は現代においてもビートルズが狙った大音量とノイズによる手法とその延長から発生させる事は可能です。アドルフも昔話的雄弁術のある種の未来化とエソテリスムの復活からあのような集団沸騰を生み出してゆきました。だがそのどれもが、ある意味では間違いではないのですが、アジアやアフリカやオセアニアに立脚しさへすればああはならなかったようにも思うわけです。西洋エソテリスムも確かにある種のアジア段階やアフリカ段階に触れているには、触れているのですが・・・


新宗教の発生と展開は芸能学的に見た時、興味深いものがあり、世の中の間抜けどもが解釈しているような、単なるインチキ以上のヌーメン的な魅力には満ちてはいますが、相当なラディカリストであっても世界全体の実質的な変容という事では、皆いまのところ失敗しているわけです。王仁三郎も正鉄も、水位も大石凝も中山みきも、田中智学も、オーロビンドも、ビベーカーナンダも、ラーマクリシュナも、ラジニーシも、歴史的にはシャンカラやヤージュナバルキヤ、チャイタニヤ、ゴーラクナート、マハビーラ、ツァラトゥストラ、パドマサンババさへもが失敗しているのかもしれません。ブラバッキーやクリュナムルティ、彼等に力不足だというのは、あまりに酷かもしれない。
彼等は本当によくやったからだ。
問題は世にあまりにも馬鹿者がおおい事だ。ネット時代に入りその事は証明されたではないか、
YouTubeのオノヨーコへの評価とコメントを見てみるがよい。ほとんど全員がサクリファイスさせる価値すらない、

オノヨーコの中にあるアジア古代歌謡が聞き取れず、ダダ、フルクサスの精神が聴けないようでは、もはや世の中は手遅れだろう。ジョンからヨーコへの影響は微々たるものだ。だがヨーコからジョンへの影響は絶大だ。サブカルチャーのドン、カウンターカルチャーのドン、ポップカルチャーのドンはある意味では60年代以降、ジョンであった事は認めねばならないだろう。勿論、彼が断トツに優れていたわけではない。アジアやアフリカには彼を上回る芸能人は山のようにおった。だが、そのアジアやアフリカにおいても彼とその周辺のテーゼはポップカルチャーとそのカウンターカルチャーにおいてはひとつの目標であった事は、間違いないのだ。
そしてその背後にいた者こそがむしろヨーコであり、世界各地の大衆芸能の分岐点にはダダ的なる力が働いてきたのだ。浅草十二階や60年代ダダのようにだ。

アバンギャルドな流れから超芸能が発生する可能性もあるが、やはり厳しいだろう。彼等は聖なる扉に触れる事は好むが、聖なる扉を開こうとはしない、開けないものが大半であるからだ。

とは言え、シリアスミュージックの現代曲の流れや前衛演劇、前衛芸術における実験の数々も超芸能発生のヒントを投げかけてくれるものではある。

折口信夫の学問は最終的には世界教師、人類教の教祖の聖典になるはずのものであった。そこの極致に描かれた思想こそムスヒと既存者が交錯する地平であった。天空なるものとマナ的なるものが交錯して即で結ばれてゆく地平である。

超芸能はここを基礎にして発生してくるであろう事は明白である。

我々はその展開を探るのに震災後まずは世界各地の神話と昔話さらにその核たる笑話を再考し、浅草十二階と南の五階の芸能、それから常磐炭鉱節と筑豊炭鉱節についてをこの1年~2年で再考してきた。それからジャレメと隠れ奥々山の展開を・・・超芸能はこれら全てを通過せねば発生しないだろう・・・もしくは超芸術トマソンのように、そのあたりにあるものが見事な変容を起こす可能性にも心を配らねばならないかもしれない・・・。


★恋愛学や婚姻論について

唐突に思われるかもしれないが、恋愛や婚姻というのは、元来芸能の要に君臨していた。ラブソングやラブストーリーが題材に多い等という現代的な状況などより遥かに芸能そのものとして、これらは君臨していたのだ。それ結えにこれらについて少し考えてゆきたいと思う。現代の恋愛や婚姻の規範はロマンティックラブイデオロギーとモノガミーが結びついたものと考えられるが、この形が本格的に日本の大衆に広まったのは、太陽族以降の事である。
古代芸能の要の一つはヒエロスガモスにあり、例えばヒメヒコの芸能もこの流れにあり、兄妹婚洪水型の神話もこれと関連があるものである。いわゆる芸能百科事典的なフレイザーの~黄金の枝~はサクリファイスを軸とした王権論であると同時にウィルビウスとディアーナのヒエロスガモス的な芸能でもあるのだ。

またカガイ的な芸能は世界各地にあり、芸能の一つの原初形態を残していると考えられている。
今回はカガイを行うと謂いたいところだが、短い時間で行うには、ヒナブリなどを覚えなければならないため難しいと思い、もう少し近代的な手法を行ってゆきたいと思う。これは、いわゆる近代的コミュニケーション力を鍛えるために用いられるメソッドであり、いわゆる他者に伝わりやすい声のモラルセンスを獲得してゆく事にも用いられている方法である。


★原初の心を獲得するためのグロトフスキの方法


★サルガム唱法

インドは芸能のオリジンを考える時によく引き合いに出される。昔話研究における原始心性はパンチャタントラの中に見いだされ、メイエルホリドやバラバもカタカリの中、更にはソーパナムスタイルの中に演劇のオリジンを見ていた。現象学的にもタントラやヨーガもそのモデルとなり、エラノス会議の源にもヒンドゥー的な思考~すなわちオットーはシャンカラやギーターからヌミノーゼを発見していった。~があった事は認めねばならないだろう。
先日亡くなった赤瀬川源平氏は現代に繋がるサブカルチャー、カウンターカルチャー、ポップカルチャー、アヴァンギャルドの土台を築いていった方だが、この赤瀬川と近い位置にオノヨーコがいた。ヨーコはシェーンベルク~ケージといった実験芸能の他にアジア古代歌謡の構造を自身の歌唱の中に取り入れていた。特にスッブラクシュミからの影響は絶大であっただろう。以下はインド芸能の基本訓練にして、アジア全土の芸能、更には近代以降の演技術にも影響を与えたサルガム唱法である。

サルガム唱法の訓練効果として


芸能精神ASCの表出

構音筋、吊る筋肉、メリスマの解放

類化思考と別化思考の真釣り合わせ

下方倍音列の解放

等を挙げる事ができる。

こうした態の至高は3つあげられる一つは最も原初的なブータやテイヤム的なマレビト的な芸能であり、もう一つは三楽聖的なパラブラフマン的な境地であり、その系譜にある録音時代最高のものが、バサンタコキラムやチェンバイ、マハラジャプラム、ムクタ等と謂える。またASCの顕れだけをとるならばヌスラットのそれは、至高であると謂える。


★漂泊芸能

芸能のオリジンを考える時に芸能学や演劇学がモデルに考えたものが、漂泊芸能である。この中にすこぶる古い、マレビト的態があると考えたのである。当然ながら声の使い方も古く、それは野生の喉の生理構造とも合致するものである。

列島の漂泊芸能の原型はホカヒビトに見る事が出来、折口信夫はこれを台湾先住民の芸能、先島の芸能、三信遠芸能と重ねる事でマレビトの原像を発想した。

~台湾先住民の芸能の要にプレンカの態があった事は先ほどのヒエロスガモスの芸能または、フレイザー理論の類似法則、感染法則とも合致する。~

メイエルホリドはコメディアデラルテから原始演劇を実感していった。~この系譜にマイムがあり、ロイドやキートン、チャプリン等もこの系譜に連なっている、列島では十二階芸能として俄や萬歳等と習合し、またマキノ映画周辺の七剣聖により能楽の働き的なものが変化した剣戟と習合され、現代に続く映像演技の肉体の基礎が形成されていった。~

さて列島の漂泊芸能の集大成とも謂え、話法の基本が詰まっているのが舌耕芸であるが、以下は舌耕芸の源にして、列島のほとんどの芸能分化に関わってきた山伏の芸能を実践してゆく。


★まとめ

原始古代において人は皆、偉大な芸能人であった。原始古代人は自在に歌い、語り、様々な精神パラダイムに移行する精神のアストリートであり(俳優・モノマネ・声色~ワザヲギ~)、あらゆる肉体の可能性(サトルボディやセネストパチーを含む)を表出するコンテンポラリーダンサーであり、あらゆる音響世界、イメージ(更には共感覚的な斜聴世界)世界を行き来出来る前衛芸術家のようであり、アナロジーを駆使したコメディアンでもあったのだ。

我々は古代~現代まで古今東西様々な芸能を実践してきたわけだが、宮沢賢治の『農民芸術概論』の如く、世界全体が野生の芸能人とならねばならない事は、東日本大震災以降強く実感されたのではないだろうか? 本来芸能は森羅万象の律動と呼応するものにして、森羅万象の律動そのものも芸能であった。かつての芸能はイムイロテンポーレに回帰する事で世界を再生させてきたのである。その要には常にアクシスムンディがあった・・・芸能学の祖、折口信夫が今が古代だ!!!と言った事を今一度、我々は謂うべきである。
我々は芸能分化の理法さへも忘れ、そのオリジンが何だったのかさへ忘れている。 霜月、冬至、正月、 冬とは元来殖やすという意味だ。今 我々は芸能のオリジンを実感出来る時を生きている

古代マレビトのタケビ声を今一度大衆芸能の中に再生させるのである・・・。 


武田梵声

籠り論とエラノスの超思考

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年とは、元来勝手にやってくるものではない。マレビト様がインイロテンポーレの芸能を行う事ではじめて世界は再生し、年は生まれ清まりを果たすのである。
只今、日本各地で春を呼ぶ芸能が行われているが、これらは太初の時の再現なのである。マレビト様の咒言やヘンベにより世界は太初の時へと回帰し、再創造されるのだ。




コメント下さった方々ありがとうございます。今回は籠りや禅といった、質問としては、比較的多く頂く内容のものであり、かつ究極的な問題をも含むため、個々の方に対して答えるのではなく、全体に対しての返答とさせて頂きます。ご了承下さい。






籠りなき芸能は芸能に在らず。これは古代から様々な芸能を見たときに言える真理であり、 表層の思考で分別的に理解しようとしまいが、そうなのだということが重要と謂える。 これは籠りや瞑想をある 段階にまで達したものならば当然の感覚であり、当然ながら芸能もある段階に達したらこれは当たり前に実感出来る。 もしも実感出来ないのだとするならば、相当に芸能からかけ離れた 環世界を生きてしまっているのだと謂える。


現ポップカルチャーやサブカルチャーのルーツの一つにビートニクやヒッピーがおるわけだが、これらのものたちにでさへ、籠りの感覚は再生されていたわけで、現芸能人がこれらから切断されている者が多いのだとするならばそれは大問題であると謂える。

ケルアックはそもそも天才なんぞではなく、神聖を目指していた。彼が聖なるものに触れたか否かは、我々の水準からするならば聖なる扉の前にたったに過ぎない。ボブディランあたりはケルアックよりも更に手前にいる。天才はその本義はともかく、現代的な理解は屑に等しい。辻的なパトグラフィそれから平塚らいてう的な元始の太陽的な天才はこれらとは異なる。らいてうの元始の太陽は禅と三信遠国境地帯の太陽とが重なったものであった事は大きな意味を持つ、またこれがフェミニズムやジェンダー論、更にはダダをはじめとした各種アバンギャルドへと注がれていった様子は芸能、芸術の流れを思考する上で重要だ。らいてうの捉えた禅もエラノス的な禅であった可能性が高いだろう。


我々の意識の層は無数にある。この様々な環世界の根にあらゆるものが無分別の世界が横たわっており、それはヌミノーゼと呼ぼうと、アーラヤ識と呼ぼうと、マナーやオレンダと呼ぼうと、パラブラフマンと呼ぼうとはたまた映像魂と呼ぼうと正直どうでもよい事だ。



質問の禅についてだが、禅は確かに素晴らしい。籠り態の最も原初的なものがある。 ただ結論から言うならば 私は芸能のために禅をやったり、籠りをやったりすると言っているのではなく、 禅や籠りそのものが、芸能そのものなのだと言っている。


何かのためにするのではなく、それそのものが既に芸能の極致なのだ。


武術なども芸能そのものだ。武術を芸能のために、という発想じたいがそもそも近代的な発想と謂える。

我々は王の逃走が原初の芸能である事を既に知っていよう。


あそこにはウィルビウスとディアーナのヒエロスガモス や王のサクリファイスの芸能、それから五月祭なんかもセットになっているわけだが、スポーツなんかのオリジンもあのようなところにあるわけである。

近代スポーツは腑抜けの極致であり、一部のゾーンやフローティングを除いては、カスに等しい。スポーツ選手が英雄化される昨今はどうかしている。 彼等が瞬間的に価値を持つのはゾーンやフローティングにいるときだけだ。それ以外は近代的な肉体観の檻の中に閉じ込められたものたちだ。だが近代的な身体と思われがちなボディビルなどもその原型はサーカスや見世物にあり、言わば漂泊芸能、巷間芸能の直系の子孫なのだが、


まあ一般的なスポーツのほとんどは近代の檻に肉体を閉じ込めている、ただしゾーンやフローティングに入った時にはその近代の檻は解体され、文字どおり 彼等は瞬間の王になる。 瞬間の古代芸能王になるのだ。 彼等を称賛すべきはその瞬間だけだ。


禅も大拙以降、アメリカ経由でもの凄く流行した。そのため、そこにある思想なき思想は 頭で理解しようとするものにとっては危険なものとなった。


禅は文字どおり体験するにつきる。ただ座るのだ


十牛図や数息観も悪くはない。しかしただ座るだけで事足りるであろう。


大拙や井筒先生が掴まれた東洋的精神は、まあブーバー的に言うならば 我汝の中にあるわけであり、間違っても我それの中にはないのである。これをパラダイムショックせぬためには、やはり籠りや瞑想をせねばならない。


大拙も井筒先生も、エラノスのメンバーである。大拙の捉えた 仏教、浄土思想にしろ、禅にしろ、 あらゆる宗教のコアを掴み直したものとして取り出されている。重要なのはそこなのだ。


鎌倉新仏教が、中世に発生したのではなく、中世に原始の宗教がルネッサンスしたのだという解釈こそが正しい。


大拙に限らず、エラノスのやろうとした共通の目標はそこにある原始の核を捉え、それを未来に解き放つという事である。その根幹にいた三人がオットー、ヴィルヘルム、ユングであった。リヒャルト・ヴィルヘルムは神仙思想から、ユングは元型論、オットーはシャンカラやギーターから抽出したヌミノーゼ理論、ショーレムはカバラからそれを行い。コルバンはイスラーム神秘主義、グノーシスの中から、ピュエシュはグノーシスの中からそれを目指したわけだ。(というよりエラノスには常にグノーシスが通奏低音の如く鳴り響いていた)
エリアーデはヨーガとタントラが交錯する地平から文字通りのあらゆる宗教、芸能、籠り、瞑想、神話、儀礼を突き抜けてゆく事を試みた、エラノス最大の巨人の1人だと言っていいだろう。



我々の最終の地である超芸能の発生は、このエラノス的超思考を実践化した先にあると言える。ここに中山太郎と赤松啓介の思考とジャレメ的な肉体を交錯させてゆく事で、最高の芸能は顕れてくるのだと言える。もしくは最高の芸能を発生させるための思考が立ち上がってくるのである。



禅における腹式呼吸というのは、そもそも存在しない、腹式呼吸というのは19世紀半ばに西洋で発生した作術である。



禅にあるのは、神仙の丹田思想であり、更にそのベースにあるのは、タントラやヨーガの チャクラによるサトルボディ的な身体観である。


これらが複雑にシンクレしたものであると思ってよい、近代に入り西洋の腹式呼吸が入り、丹田呼吸と混同された事は、これらに致命的な勘違いをさせる事となった。


丹田というのは、そもそものところでサトルボディ的な身体観であるわけで、ある段階まで変容がおこる事ではじめて発生するものである。それを発生させるために息がつかわれてきた事は確かであるが、近世以前の者と近代以降の者では、息そのものに対する思想というか、思考がそもそも異なっている。息の中にプラーナや気、マナー、マブイ、イツ、スピリットがあるという風にかなり自然に実感していたわけで、それがそもそものところ日常レベルで我々より遥かにサトルボディ的な意識にいた事が謂えるし、またそちら側に入っていきやすかったのだと謂える。


まあ禅を、歌を上手くしたいという目的でやるのだとすれば、


結論から言ってほとんど役に立たないと謂えるだろう。


禅の呼吸で多少なりとも声が出しやすくなったという実感もそれなりによく聞く事ではあるが、これも大半の場合、呼気圧迫により声門下圧が強まる事で閉鎖が一時的に強まったに過ぎない。


もちろん、これは短期的な効果でしかなく、これを続けたところで抜本的な喉の立て直しは起こらない。


喉の立て直しは神経支配とトーヌスの回復とそれらの真釣りからしかおこらないのだと謂える。


だから表面的な近代的な歌を望むものにとっては、禅も籠りもカスに等しい。早急に辞める事を薦める。


だが至高の野生の芸能をやるものは、籠りを もしくは大拙により宗教コアとして取り出された禅をやらねばならない。


それは表面的には歌の態や芸能の態には影響はほとんどない場合も多いだろうが、 確実にヌミノーゼに触れた芸能は違うモノとなる。


こうした事はこれまで何度も言ってきている事だが、やはり何度でも言う必要があるのかもしれない。


そしてこれは、パラダイムショックを起こしやすい問題であるから難しい。


リュウメイは腑におちる事を思想の根幹にした。


それは重要な事だ。だがそれはリュウメイ世代までだ。


腑は内臓にしてサトルボディをも含む。


肉体が近代化された我々の腑が果たしてどこまで役に立つと謂うのだ!?


我々はルーミーやバスタミー、ガザリー等から学ぶ必要がある。否、イスラームについて思考し直す時に来ているだろう。井筒が、神道の先にイスラームを見、超宗教化への萌芽をそこに見いだした事は、今新たな意味を持ち出してきているように思う。


先日、私の教え子の中で最高クラスの芸能を求める者の1人に 至高の音源をいくつか薦めた。その中でも最も総括的に芸能を知る事が出来、至高の音源と言えるものが小沢昭一がフィールド録音した日本の放浪芸シリーズである。


まずこれを聴いてそこに最高の芸能力を実感出来ぬならば、取り敢えず芸能をやってゆく基本が欠落していると言っていい、

この放浪芸シリーズにおさめられた芸能人達の声と肉体と精神、態の中にあらゆる芸能の源泉があり、未来が内包されているのだ。

現在80歳以下の者はよほど特殊な環境でない限り、上記、芸能音源もしくは、それに相当する芸能のオリジンをダイレクトに表出されたものを見聞きしていない限り、芸能の理想を語る事自体が取り敢えず現時点においては不可能なのだと申してよい。

勿論、芸能の究極はここにとどまるものでもなく、脳内補正をする事でよりオリジン性、古代性、そして超芸能に至る事も可能である。だがこの地平を知らぬ者にそれも不可能である。


もしくは籠りを相当のところまで極めればそれも可能ではあるが、ある程度までの者は、やはりそこ~日本の放浪芸シリーズとその周辺~を知らねば難しいだろう。


なぜなら我々は、ここから出発するしか方法がないからだ。

因みに80歳以上のものはまだまだ上記の芸能の残存や浪花節の恩恵を受けた者も多い、また落語や講談もこの頃にはまだまだ放浪芸的なモラルセンスが継承されていた。

この頃の落語、講談、浪花節もしくは漫談あたりを聴いても、放浪芸の直系の子孫だという事が、ダイレクトに表出されている。漫談も活動弁士の流れと萬歳がシンクレしたものだ。


落語、講談、浪花節はまったく節談の子ども達であり、澄憲の子孫なのである事が解る。志ん生や文楽、圓生にはじまり、柳好や柳橋そして金馬の声にはガム成分と節があった。特に柳好は柳好節とも呼ばれ狐拳や藤八拳の律動がその源にはあったが、ああいった伝承遊戯や拳遊びの中には原初の肉体や原初の節が隠されているのだ。

インド古典やインド伝承、漂泊の芸能においてヌミノーゼの極致であるパラブラフマンに触れたものは多い、ティヤーガラジャ、ディークシタル、シャーマシャーストリー、 タンセン、ハリダース、バウラ、プランダラダーサと皆、エラノス的なコアへと触れている。 だが列島の芸能人達も皆、きわめて素朴な形でやはりそこに触れていたのだと 考えていいだろう。

それはやはりエラノスにおいて列島の最も素朴な信仰の中に一つの至高が発見された事と併せて考える事で見えてくる事だと申してよい。


こういったパラブラフマン的な地平(その地平の入り口)を西洋の科学が再発見したものがフロイトの無意識の発見であった。フロイトの射程はすこぶる深かったが、フロイトにはそこまでを捉えきる事が出来なかった。
この精神の根をロジックとして立ち上げるには、ウイリアムジェイムズやエラノス理論の要にもなったユングの分析心理学、その中でもアーキタイプ理論。更にマズローやスラニスラフグロフ、ウイルバーを待たねばならぬだろし、フロイトの真の射程を再発見し掘り下げたラカンやトランスパーソナルの理論的根幹を打ち立てた超心理学のチャールズタートなども忘れてはならないだろう。もちろんライヒやヴント、カンバーグなんかも重要だ。折口信夫が最も影響を受けた者の一人もヴントだ。

こうしたフロイトの無意識の理論と呼応するようにアバンギャルドなもの達が出てくるわけだが、例えばグラハムやカニングハムはイサドラダンカンが切り開いた原初の肉体の地平を更に切り開いていった。グラハムとカニングハムが捉えようとした肉体の無意識と意味のない肉体の表出は、籠り的な地平で語るならばほとんど同じものだ。

群盲象を撫でると同じ事が言えると謂ってよい。

ピナバウシュや暗黒舞踏が更なる地平を切り開いたのかと言えば そうだと謂ってよい。 ピナには特別な思い入れがあるが、 やはり暗黒舞踏が取り出した原初的な肉体にまでは到達したとは言いがたいように思う。もちろんピナのそれはある種のグルジェフ的な客観芸能的地平が拓かれている。それは客を変容させるという事が貫かれている点に尽きる。

~ケルアックは主観的な作家だとする評価は多い。だがケルアックが聖なるものを目指していたのだとすれば、彼はどこまでも客観に到達する事を試みた筈だ。~

~こうした肉体表出人の根の根にはやはりラスコー等の洞窟壁画から推測される影の舞踏、影の芸能があるのであろうし、またなければならないだろう。全ての肉体表出人にとって、ここは目標にして超えるべき地平である。~


ドイツ表現主義の極みの一つには、カリガリ博士、メトロポリス等があり、(因みにカリガリ博士は、ホラー映画の一つの極みにして基礎であり、メトロポリスは、SFの極みにして基礎でもあった。SFはキャンベルを通してエラノス的な核をエンターテイメント化させ、ホラーもその核に心理学、エソテリスム、ブドゥンといったエラノス的な核をその中に取り込んでいった。)その系譜の頂点にピナがいるとする図式もある意味では、正解だろう。ピナが弟子に教えた事の一つには、「もっとクレイジーに」・・・。

それはあらゆる芸能に通低する一つの核だ。まともな芸能人でクレイジーでなかったものなどこれまで1人もいない。

しかし表現主義の極みは、石井漠の十二階と結びついた肉体にこそ最高の評価をしたいと思う。もしくは円谷の源にもこのドイツ表現主義があり、内田吐夢がいた、そしてそれはマレビトや妖怪の肉体と結びつく事でゴジラやウルトラマンが表出されてゆく、あれこそドイツ表現主義と列島古代マレビトとの雑種なのだ。

~十二階は辻のダダ、夢坊の未来派、大杉のアナキズム、石井の表現主義とあらゆる思想の極まりがあり、それが奥山的な肉体とシンクレをおこしていった事は芸能史において核となる事だ。~


どちらにしろ新ウィーン楽派やトータルセリエリズムからチャンスオペレーションにいたるまで、こうした思考や肉体とも連動していた事をもう一度捉え直す必要があるだろう。

我々は古代芸能を捉え、古代芸能を突き抜けた超芸能に到るには、それを施策した先達の芸能を把握せねばならないだろう。

我々はとうとうエラノス会議を捉えなおす時にきている。 折口信夫的な思考を未来へと解き放つための発想がこの会議に散りばめられている。

ここに中山太郎や赤松啓介の思考、更にマリノフスキーを重ねてゆくならば、芸能思考としては、完全無欠のモノが立ち上がってくるだろう。

そして中山や赤松、マリノフスキーの思考の核はそもそもエラノスの中に潜在的にあり、エラノスの中に眠るその萌芽を生きたロジックとして取り出すために彼らの思考は必要となってくるのだと言える。

何よりも我々はここに肉体を与えてゆかねばならない。そこがエラノスや折口信夫と決定的に違う点である。

ただし厳密には折口もエラノス会員の一部のものは自己表出的な芸能身体は得ていた。これは極めて重要な事だが、これに気づいている者は少ない。
ジャレメとホカヒの肉体を頂点としながら、門付け、日知り、盲人、香具師といった漂泊芸能の四柱を通過させとゆく事
は当たり前だが常に立ち返らねばならない点である。

日本の放浪芸を聴いた事がないものに芸能が解るはずがないのだという事は上記のような事を把握する事で実感してゆく事が出来るだろう。(もしくは匹敵するだけの俚謡段階、アフリカ的段階の芸能を総括的に聴いている事が求められる。)

ここに古代人の流動と浸透の思考を実感してゆく事であらゆる芸能に通低するフォルスが立ち上がってくるのだと言える。

もっと表面的に捉えてもガムやメリスマ、グリッサンドの究極もこの中に存在している。

ショーベ等から出土した楽の器と照応させる事でこうした芸能の深奥は更に我々の側に立ち上がってくる事だろう。

エラノスを思考する時に重要なのは、やはりエラノスには常にグノーシス的なのドローンが鳴り続けていた事を聴きとる必要があるだろう。

そして何よりもあらゆる籠りの実践こそが核になる。

放浪の芸能人の本質はあれそのものが、もう籠りそのものであり、まれびと そのものであったという事だ・・・

あの美と醜が交錯し、王性と乞喰性を内在させた 芸能から何も感じとる事が出来ない世が現代ならば、それはやはり許されるべき事ではない。

ここに全ての源がある。学問も政治も経済も宗教も ここから発生したのだ。
これを我々の根で発動させながら生き死にする事だけが 森羅万象を再び根源の時へと回帰させるのだ。 根源の時なき時はカスに等しいのだ。 神話を常に働かせていない学問も政治も経済もゴミ以下と思っていい。

我々は、この偉大な芸能人を皆殺しにした オリンピックにまたまた突入しようとしているわけだ

根源の時と戯れよう・・・

愛犬へ・・・野生の死生学 東北の芸能、トロットと韓国芸能、ヨウスイセキ、クワンデ、キーセン、ナムサダン、ヨサダン、ムーダン

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死生学を必要としている。野生の死生学を・・・

野生の死生学と呼べるようなものは、既に東洋やアフリカにあったであろうし、そもそも旧石器時代の芸能、始まりの芸能の本質は死生学的でもあった。我々芸能人は本来そのエキスパートであらねばならない・・・。我々の先祖である毛坊主的な存在はアジア全土にいたわけだが、それは死の領域を司っていた・・・

東日本大震災から4年、オウム真理教の地下鉄サリン事件から20年、東京大空襲から70年を迎える2015年の3月であるが、 我々、近代人にとって死というものがあまりにも重たすぎるものである事を改めて悟り直している昨今である。

旧石器時代以前の我々は、浸透思考と流動思考を基本としており、それは芸能の要であり、芸能そのものでもあった。

この浸透の思考というものは、我々が死生を、タナトロジーをどう捉えるべきかのヒントになるだろう・・・。

赤瀬川の老人力はやはり重要だ。 我々はあまりにもハンを抱えすぎる傾向があるからだ。 忘れる力を高める事は、今を生きるために重要なのだ。

あの大震災は我々の無意識の肉体と精神の無意識に大きな何かを残した・・・ これを意識化に立ち上げようとするもの、意識したくないのにしてしまう者、それそのものに感心のないものと様々であろうが、あれは日本列島の何か根幹に触れていた・・・東北の中に列島のライフインデキスがあり、そこに何かが起こった事を東北の声、東北の肉体、東北の思考から表出されるであろう明日の神話の発生を待たねばなるまい。

我々はその思考の一つの極としてエラノスにたどり着いている。今こそエラノスの要の一つにエネルゲーティクをおくべきだ。ツカーカンドルの思考を甦らせる時だろう。ツカーカンドルは詩、歌、言葉、思考の源としてのムーシケーをおそろしく古いものとして取り出す事に成功している。

もちろん我々はこれを東北の芸能や思考と交錯させてゆく必要がある。

土方が甦らせようとした東北の肉体をまた別の形で甦らせる必要があるのだ。

我々は宮沢賢治の源にエリスがいた事を知っているし、宮沢賢治は谷川雁により人体交響劇としての至高の甦りをはたしている。農民芸術概論もまた我々が捉え直すべきものであり、鹿踊り、ケンバイ、早池峰神楽も今一度至高の芸能として捉え直すべきであろう。

思えば國學院ではじめて芸能学に触れた時の最初の課題は早池峰神楽であった・・・

エラノス的な甦りがエヴァンゲリオンの中にあるとする指摘はどうにも即席化しすぎな気はするが、ゼーレの思想の中にカバラと共にある事は確かであろう。そもそも死海文書の中にはグノーシス的な思考が散りばめられており、人類補完計画なるものは死海文書をベースに行われている。

またこの物語のベースにフロイトやユングの思考が散りばめられている事も注目にあたいする。はたまたウルトラマンとデビルマンからの影響も見逃せまい。

ウルトラマンとデビルマンに通低するものこそ先住性とマレビト性だ。

またエヴァがカウンターカルチャーやサブカルチャー史においてヤンキーとオタクを再融合させた点も注目にあたいするだろう。

カウンターカルチャーやサブカルチャーの源にあるのはフーテンでもヒッピーでもフラワーチルドレンでもない、はたまたビートニクやボヘミアンでもないのだ。

我々はボヘミアン革命が憧憬を抱いたジョーギーやマンガニヤルにこそカウンターカルチャーやサブカルチャーの真のオリジンをみるべきなのだ。

ここを捉えねば芸能の事やカルチャーの事は何一つとして認識する事は出来ない。

この流れの中から発生したヤンキーやオタクそれからマイルドヤンキーをもエヴァは再統合してゆくきっかけを作っている。

オタク性とヤンキー性が再融合された時に我々の前にはヒッピーやビートニクが顕れる可能性があり、彼等が真の変容を果たした時にネオジョーギーやネオマンガニヤルもしくはネオマレビトと いうべき存在が顕れてくるだろう。

私の研究所には最近 トロットを歌っている方が訪れたがナム・インスとかイファジャあたりは本当に素晴らしい。古賀メロディに近いモラルセンスが宿っており、イファジャに関してはキーセンあがりだからその芸能力たるや本物だ。キーセンこそ真の芸能人であるからだ。

イミジャなナフナなんかもワールドミュージックブーム
の時に流行ったわけだが、最近ではその名を知るものも少なくなってきたか

最近のKpopの中にもこうしたトロット感覚は計量学的にみた場合には継承されていると言える、はたまたエネルゲーティク的にみた場合通低する原旋律的を取り出す事も可能だろう。ナムサダンやヨサダン、ヨウスイセキ、クワンデ、キーセン、更にはムーダンの恨がまだ継承されているのだ。

北朝鮮のあの語り物的な感覚は、ほとんど民衆レベルで生きていて、 アジアの中でも極めて古い感覚を残している。

こうした感覚は大阪の中にもカヤ人の芸能や思考として継承されてきており、日本の語り物の形成にも影響を与えている


また韓国芸能で注目すべきは、メイエルホリドから原演劇と認識されたであろうタルチュムの存在であろう。至高のマレビトの芸能 としてこれは捉えなおす価値がある。


マレビトと言えば最近は、芸能の本質へと目を向けはじめた生徒のラッシュで私としては嬉しい限りだ。ある方は至高の音源ともいうべき竹中労の日本禁歌集を山梨の竹中英太郎美術館まで購入しにいったり、またある方はNHKの折口信夫の特集を見たり、折口信夫全集全巻の購入や日本の放浪芸の購入と芸能の
オリジンを知るための領域へと足を踏み込みはじめている。

フースラーもここを知らねば真には理解出来ないのだ。


フースラーメソードで言ったのはまさにこの事、フースラーメソード発表から2年半ようやく本質的な部分が浸透しはじめた実感がある。





2年半前に私は愛犬が元気な内は・・・とこの日々の日記の中で語った

2015年3月30日13時頃に彼は亡くなった

私は極めて冷静だった

自分の冷酷さを呪うほどに

なぜ涙が出ない!?なぜ悲しくない!?

私はしばらくの間、いわゆる正常性バイアスの中にいたのだ。

今もまだ彼が亡くなったという実感は薄い・・・またひょっこりとあらわれるんじゃないかと心のどこかで思ってしまっている。

病院の先生が、今そこの桜が満開です。桜が咲く時はこの子を思い出しましょう・・・と言われた時・・・

私と彼の散歩道には象徴的な桜があった

桜が満開になると私は桜を見るために立ち止まったが、彼は桜より早く歩きたいと駄々をこねるのだ。

私はこのディスコミュニケーションが大好きだった・・・

犬と人という全く別の環世界を生きながら様々なズレがありながらも

どこかで繋がっている感覚に大きな感動を覚えた

それは対幻想的なのかもしれないが、それでも・・・

私の芸能の歩みは彼と共にあり、彼だけが私の唯一の友であった・・・

16年と3ヶ月、素晴らしい生命力だったぞ・・・医者の先生達が驚くほどに、 生命活動を閉じるにも生命力がいるのだ。生命活動を最高の形で閉じきる前に多くの命は力尽きてゆく、それもまた生命の美しさだが・・・彼は最後の最後まで生ききってくれた・・・

私は君の事を誇りに思う・・・心から礼を言うぞ・・・こんな偏屈なやつと16年間寄り添ってくれた事を・・・

我々は正常性バイアスの中で、永遠に続くかもしれないという錯覚の中で生きているのかもしれない、だが真実は全てはマレビト的な通りすぎゆく存在なのだ・・・消えゆく存在なのだ・・・私にとって君は最高のマレビトであった

道中達者でな、これまで本当にありがとう・・・

武田梵声

ボイトレのバイブル フースラー流ボイストレーニング及び芸能学質疑応答。SLS協会の変容と真の射程。チェザリーの思考と射程

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武田梵声です。

あらゆるボイストレーニングの源流にしてボイストレーニングのバイブルと呼ばれましたのがフースラー理論です。

私はこのフースラー理論をフースラーの高弟クレッチマー流派で学び、専門とするものです。


フースラーは自在に歌い、語る能力は誰の喉にも潜在的にある事を発見しました。音痴の人にも、声の小さな人の中にもです。



いわゆる最近流行りのSLSのメソードというものもその原型はチェザリーによるものです。残念ながらSLSのトレーナーの多くもチェザリーを正しく理解している人は少ないようです。特に19世紀型のメソードとの混同が目立ちます。そもそもSLSの創始者自身がそうですので、仕方がないのかもしれません、(もっと言うならばチェザリー自身にもそうした誤解があったわけですが、フースラー同様、チェザリーの大枠は正しかったと言えます。)

しかしながらSLSのトレーナーの中にも最近素晴らしいうごきがみられております。

チェザリーや17世紀型のボイストレーナーすなわちトージやマンチーニ、ポルポラ、カッチーニ、マンフレディーニ、ミクシュ、等への回帰がSLSの本来の射程であった事に気付きはじめているのです。

またこのSLS協会が北米のショービジネスと密接な結びつきを持ってきた事は、そのオリジンであるブルースやゴスペル更にはプリブルース、フィールドハラー、ワークソング、ニグロスピリチュアル、グリオやブドゥンの芸能へ目を向ける必要があり、その事に気付きはじめたSLS協会のトレーナーが私の研究所に訪れはじめました。

これはボイストレーニングは元より、芸能教育全体を考えた時にも良い潮流に繋がる可能性があるかもしれないと私は思っているのです。

フースラー、チェザリーの理想は17世紀型の訓練にあったわけであり、間違っても19世紀型の訓練の中には、微塵もないわけです。17世紀型の訓練というのはモラルセンス的にも初期バロック以前の思考とリンクしており、それは西洋の中のアジア・アフリカ段階と繋がりを持つわけです。もちろんフースラーはこれを俚謡研究と重ねる事で更に更に深い原初の喉頭にまで到達してゆきます。これはツカーカンドルのエネルゲーテク理論と重ねてゆく事でムーシケーの真の射程さへもが顕れてくるわけで、それは西洋哲学がムーシケーだった頃の思考とも重なるわけですが、ソクラーテスの思考の源は井筒先生が考えられた通りだったわけです。それは池田晶子などにも継承されてゆきましたし、
ヒューマンポテンシャル革命とも実のところ結びつきを持っていきました。

SLS協会がフースラー以上にボイトレ業界でひろまったその理由はただ単純にアメリカのショービジネスと密接に結びついていたという事だけでしょう。現代日本人(世界各地の近代人)はアメリカ様が大好きですからね、しかしながらSLSというものがチェザリーや17世紀型の訓練を19世紀型と混同させ即席化したものだという事はそろそろ認めなければならないし、またそれはSLS自身の本質にとっても本当は表面上の事なのだと気づかねばならない時にきていると思います。

フースラーやチェザリーそれからリードも俚謡研究とあわせて考える事でその真の射程が顕れてきます。なぜわざわざこれらの歌謡や芸能を考えねばならないのかと言えば、残念ながら我々の前にある19世紀的なモラルセンスとその残党は原初の歌、すなわち自由自在な喉とは程遠い存在であり、我々が自由自在な喉やその萌芽を知るのにこうした原初の歌的な構造を持つ俚謡や民俗芸能を知ることが必須となるわけです。19世紀的なモラルセンスしか知らない者がこうした野生の音声訓練を指導、実践してもその目標とするビジョンが曖昧では、パラダイムショックを起こしてしまう可能性の方が高いわけです。
どんなに良い浪花節の訓練でも雲右衛門や虎造等の名人を知らなければ良い浪花節は出来ないでしょうし、ビオメハニカシステムだけやってコメディアデラルテや仮面のマレビト芸能を知らなければ、(まあそこそこまではゆきますが・・・ )やはり良いワザヲギにはなれないでしょう。

実際、音声イメージは声の筋肉群に大きな影響を与える事が音響音声学の研究から明らかになっております。

今回は声と芸能に関する質問のいくつかをフースラー発声学、17世紀型のボイストレーニング、俚謡研究、芸能学、人類学などの様々な切り口からお答えしたいと思います。



武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室
http://e-koe.jp/



武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&field-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6%A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks





ハミングの効果は何に現れるのか。

ハミングは大きく分けてMハミングとNハミングとがありますが、フースラーは声帯縁辺筋が鍛えられアンザッツ3bすなわち諸タイプやレジスターを橋渡しする機能と構造が甦ると考えましたが、この理論は残念ながら現代のフースラー学派の研究により自然科学的にほぼ否定されています。(声帯縁辺筋が3bを生み出すとする理論)
現在はハミングによりプレフォナトリーチューニングと呼ばれる子音が喉の内外の筋肉の形に影響を与える現象がおこり、声帯靭帯と内甲状披裂筋のバランスが整う事でアンザッツ3bが発生しやすくなると考えられています。




重曹&蜂蜜うがいの効果とオリーブオイルを舐めると喉に効くか。

これらは、基本的には喉頭の中身そのものではなく、咽頭の痛みなどに効果があると考えられますので、感覚的には、その辺りがすっきりする事で、声もある程度は出しやすくなると考えていいでしょう。また声そのものの出に関連するのは粘膜の栄養という事を考えるといいでしょう、特にビタミンAを多く含むものは声帯の粘膜の健康維持に役立ちます。しかしながら声帯も粘膜が潤い過ぎるのも問題になる場合もあるので、結局は真釣り(バランス)という事になるでしょう。潤い過ぎる場合は、漢方ではニチン湯を使います。




目覚めてから何時間後位に歌えばよいか。

神経が目覚めてきたらです。原始本然が目覚めていればその目覚めも早くなりますし、逆は遅くなります。また同じ条件であるならば声帯や声道が長い、大きい者は立ち上がりが悪くなりますし、短い、小さい者は立ち上がりが早い傾向があるという実験報告が出ています。

平均的な近代人の喉はやはり起きてから3時間~4時間後位に完全な立ち上がりをみせるというのが一般的な統計でしょうが、練習自体は裏声で喉の筋肉をストレッチして頂ければ30分~一時間もすれば声を出してもよいでしょう。




準備運動&ストレッチは必要か。
血行が良くなる事で声帯や懸垂筋の運動機能が高まりますが、原始本然が目覚めてくれば、裏声を軽く出すだけでも懸垂筋や声帯靭帯が引きのびますので、声ということに特化するならばだんだんと必要なくなってくると言っていいでしょう。しかし芸能をトータルにみた場合は、身体表出やフィジオノミー的な表出も重要になるわけで

(まあステージや大道での芸能表出をこなすだけの身体能力や見栄え、立ち振舞い、所作の事)

そういう意味での身体訓練は職業歌手や職業芸能人、もしくはアマチュアでも本質的な芸能表出を心掛けるものは、やっておくべきだと思います。しかしながら西洋のストレッチや準備体操の多くは、元々ハタヨーガのアサナの精神訓練を省いたものになるため、芸能の身体訓練には不向き、もしくはかなりの不足があると申してよいでしょう。
西洋のボディービルやグラハムメソッド、ビオメハニカシステム、リトミック、ヒューマンポテンシャルムーブメントなども元々は巷間芸能やフロイトの精神分析、トランスパーソナル心理学等と結び付いたものですが、多くは形骸化しています。野口体操あたりがまあ無難なところだと思います。





筋力トレーニング&ランニングは声質を変えたり、ライブでの息切れを無くせるか。

結論から言って表面的に多少の効果はあるでしょうが、

~例えば体壁型の筋肉は多少ですが、閉鎖筋のサポートをする事が報告されています~


喉の神経支配さへ完璧になるならば、それらのサポートはほとんど不要になります。

(抜本的な解決には繋がらないですし、本音を申せば声のために体壁型系筋肉の訓練をやるのであれば変な癖~主に呼気圧迫~を助長させるだけだといえます。)

ランニングも役にたつのはランナーズハイやフローティング、ゾーンといった位で、いわゆる歌唱中の息切れにはほとんど役に立ちません、歌唱中の息切れを抜本的になおすのは喉の神経支配による神経同期を再生させる事により可能となります。フースラーメソードにも書きましたが、平均的な近代人は中庸の高さ、強さの声で約毎秒280CCの息の放出がありますが、解放された野生の喉では毎秒36CCになる事が解っています。(私は大学病院の耳鼻咽喉科医達にも発声学の指導をする事がありますが、彼らはこの理論にかんしては、100CC
はいるのでは?と考える場合が多いようです。しかしながらこれは、いわゆるベルヌーイ効果を基準とした考えでして、こちらの理論はいわゆる神経同期説をベースにして考えているわけです。ただひとつはっきりとしている事は世にはベルヌーイ効果では説明がつかない解放された喉が存在し、それを説明するのに今のところ最も適した考えが神経同期説だと言えます。この理論の証明も紆余曲折がございますが、いわゆる二重の弁の理論、抵抗の点の理論とあわせて考える事で確実なものになる事はほとんど明白でしょう)ここまでとは言わないまでもこういう方向性で喉の神経同期力を高める事こそ、この問題を根本的に解放させる唯一の作術となります。これは懸垂機構の訓練により解放されてゆきます。

巷のボイストレーナーは、筋肉トレーニングやランニングを薦めるものも多いようですが、余程その起源に戻らねば芸能表出や身体表出の役にも立ちませんし、声のためという事ならばほとんど無駄といっていいでしょうし、例え効果があってもそれは短期的な効果で長期的にみた場合悪い癖をつける可能性の方が強いといっていいでしょう。



喉にいい食べ物、飲み物。悪い食べ物、飲み物。

良いものはビタミンAやビタミンCなど粘膜に関わる栄養素があるものと考えられます。悪いものは、やり方を間違えると煙草や酒、後は違法及び合法問わずいわゆるサイケデリックスの類いがあげられます。前にも言った通り、このあたりは芸能の要としても働いてきたものですので、あくまで分量や時期を計算するならば、むしろ有効に働きます。

伝説的に喉によい食べ物としてタマリンドの葉があります。

かつて世界最高、歴代最高の歌い手と北インドドゥルパド様式で言われたミャーン・タンセンはこの葉によりあのような超絶的な声態を手にいれたと言われています。

いわゆる乳製品や辛いもの、カフェイン、冷たいものが喉に悪いと言われていますが、ほとんどが気のせいで、それほど悪いわけではありません、だいたい喉頭蓋で声帯にこれらは届きませんし、栄養は巡りめぐって声帯にゆきたりますので、まあ声帯を極端に冷してしまう冷たいものは、未熟な喉の場合には影響はあるかもしれませんが、解放された喉はほとんど影響を受けないでしょう。むしろ花粉やハウスダストなどのアレルギーなどの方が問題だと思います。アレルギー性の咽頭炎をおこすからです。


メロディがフラット気味になったり、リズム感を鍛える方法。

節、チューンをフラットさせたいのか、させたくないのかにより解答がかわりますが、特に初期のゴスペルやブルースなどの北米のルーツミュージックでは、12平均律より微妙にフラットさせるわけで、演者によってフラットのさせかたも様々です。こうした感覚は後のロックの諸ジャンルやリズムアンドブルースの基礎感覚であるのは言うまでもありません、いわゆるブルーな感覚です。これは声そのものと言うよりは古い俚謡型ブルースやゴスペルの古い形式であるエバンゲリストやサーモンスタイルを聴き、メンタルピクチャー(脳内再生)
を繰り返すのがよろしいでしょう。更にこれらの源と規範には古いグリオの歌謡~ポールオリバーの説を借りるならばグリオの塩讃歌~やブドゥンの芸能がある事もメンタルピクチャーしておくといいでしょう。また音程調整の要になる筋肉は前筋ですのでアンザッツ4などを中心に鍛える事で、メンタルピクチャーで自己表出されたものが指示表出されやすくなるわけです。いわゆるフラットさせたくない場合も基本は前筋を鍛える事とメンタルピクチャーする事です。フラットしていないイメージとそのイメージを指示表出させるための筋肉運動を身につけてゆくことが重要なわけです。
また前筋の機能を地声に添加させてゆかねば、ならないのでいわゆるレジストレーションをしてゆかねばなりません。

リズムというのも何を持ってよしとするかは難しいものですが、現在の大衆歌謡、ポピュラーソングの構造は二つのリズム感覚がシンクレしたものと言えます。一つは日本的なリズムの基本は、フォックストロットとシンクレしたぴょんこ節を基本にするといいでしょう、中山晋平の歌謡を平井英子が歌ったものを基本としながらアホダラ経、念仏踊り、山伏神楽を聴いてメンタルピクチャーするのがよろしいでしょう。

もう1つはアフリカのリズム感覚です。もちろんフォックストロットはブギウギ、バレルハウス、ロックンロールと変化してゆく感覚の基本的構造を持ちますが、ブラックアフリカ全土に通低する感覚を捉えておく事が重要です。これはいわゆるベルパターンと呼ばれるものでしてスークースやルンバ、サンバの中に色濃く顕れています。またフェラクティのアフロビートはパンアフリカリズムにのっとり、フランコなどのスークースの影響を受けながらブラックアフリカ全土のリズム感覚を集成したものですので、参考になるでしょう。まちJBの律動感覚はアフリカへの影響と北米への影響双方さらには、80年代以降のボリウッドの律動感覚にとっても重要な存在です


どんな声質か音源を送るのは可能か。
これは基本的には受け付けておりません、申し訳ありませんがご了承下さい。




弟子になる方法。

弟子も基本的には現在受け付けていません、いわゆる生徒は受け付けていますが、弟子となると話しはまた変わってくるわけです。弟子と生徒の違いは、基本的にはお金がかかるかかからないかの違いと、後は私からの要求の厳しさの違いでしょうか、


どうしても通信がしたいです。

重ね重ね申し訳ありません、通信も基本的には行っていません、ご了承下さい。





精神世界、神秘主義について、食べ物、飲みものについて



食べ物や飲み物は勿論、重要ですので、これからも追求した方がよろしいでしょう。芸能をトータルにみた時に食べ物や飲み物は民俗料理として民俗芸能と密接な関連にありました。食べ物や飲み物を求める事は決して間違った事ではありません、ノニもセヂやマナ、イツ、オレンダといった芸能の要になる力が宿った果実と考えられてきた万能薬です。沖縄は折口信夫が芸能学を創始する際に最も重要視した地です。そこに歌や芸能のオリジンがあると考えたからです。
精神世界というのはブラバッキーあたりがルネッサンスさせたエソテリズムやオカルティズム、ペイガニズムやそこを通過させた東洋神秘主義やアフリカ、オセアニア、南北アメリカの先住民の芸能などを含む言葉で、後はいわゆる疑似科学やサイエンスフィクション、量子論などとの結びつきもあります。ベーコンやエックハルト、グノーシスあたりもこれらの源と考えてよいでしょう。特にグノーシスはこれらの源というか寄生虫のように様々な神秘主義思想に付着してきた思想で、我々が考える最高の芸能会議であったエラノスの基調となるものです。いわゆるポップ化された精神世界より遥かに専門的になりますが、
こうした神秘主義や芸能の本義を考える上で最重要文献はエラノス叢書となります。そもそも神秘主義の源というのは先住民の芸能、古代芸能でした。これらが後にアジアやヨーロッパの宗教の密教になっていったわけです。それ故に我々にとってこうした事は芸能と関係ない別のジャンルなのではなく、芸能のむしろ核に存在する芸能オリジンとして捉え直すべきと言えるでしょう。

またエラノス叢書を読み込む上で我々は折口信夫や平田篤胤、南方熊楠、井筒俊彦を捉え直しておかないとエラノスを勘違いする事になると思いますので併せて知る必要があります。

いわゆる日本における精神世界の源にいると考えられるのは大石凝でしょう。出口王仁三郎もそうですが、大石凝を捉える事でその輪郭が見えてきます。
この大石凝の地平にブラヴァッキー的な思考が重なっていきました。

またこうした神秘主義に通低する心性を捉える学問にトランスパーソナル心理学や超心理学があります。マズローやスタニスラフグロフ、ウイルバー、それからチャールズタートなどが代表格でしょう。これらの心理学の下地を作ったのがユングやウィリアムジェイムズなどです。

エラノス最大の巨人にエリアーデがおりますが彼のまとめたオカルト事典も精神世界を概観するのに必須と言えます。

エラノスの中でエネルゲーテク理論のツカーカンドルも重要です。芸能や音楽の源であるムーシケー、あらゆるチューンの源となる原旋律を恐ろしく古い形として捉えようとしました。ツカーカンドル辺りを知ればいわゆる芸能や音楽の核にいわゆる精神世界があり、これらは芸能という語彙により再統合出来るのだと気づかれる事と思います。

縄文三仙人、岡本太郎考、良源と天台本覚論、岡本一平の恋愛論、達人考、巷間芸能としてのプロレスとボディビル

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少し心が疲れている この心の疲労は無意識をロジックとして取り出す事に役立つから もう少し疲れさせても良いのかもしれない。

まあ私の表層の心の疲労は今に始まった事ではない。常に疲れていて麻痺しているぐらいだ。だが芸能をするものにとってそれくらいがちょうど良い。


昨今は真の強さとは何か?という事に改めて思考しはじめている。

私の研究所には東洋やアフリカの古い武術をやっているものが多数訪れているから、私がその気になって組織すれば最強の暗黒武術団を結成する事だって出来るやもしれない。


しかしながら我々にとって真の強さとは一体なんなのであろうか?

一つ確かな事は、体壁型の筋肉をやたらと増強させ、サトルボディや気を見失ったそれは、表面的にはある種の迫力を持つが実際上は脆いものだ。もっと謂えば何よりも長持ちしない。逆にサトルボディや気、プラーナ等を捉えた者は外見は質素でも無敵となる。

植芝翁のようにまさに敵がいなくなる。合気とはまさに究極は敵がいなくなる事をいう。 これこそが神代の武術なのだ。

ただひとつ誤解してはならない事があるプロレスやボディビルについてだ。

あれは我々の価値からするならば表面的には近代的な肉体に見える事だろうが、実際上は極めて対極主義的だ。

すなわちプロレスやボディビルの発生を考えてみた時に あれらはサーカスから発生している。

サーカスは見世物の集大成であり、メイエルホリドからもコメディアデラルテや歌舞伎と並び、原初の芸能性を色濃く残しているものとして注目されたものだ。

私はプロレスの中に極めて対極主義的な葛藤と爆発をみる。 原初のレスリングはまさにこれであり、この残り香は現代プロレスの中にもあると謂っていいだろう。

あるレスラーが岡本太郎を崇敬しているらしいが、それは意識的にせよ、無意識的にせよ。プロレスの構造を集約した精神の表出へと繋がるものだ。

プロレスにおいてもゾーンやフロー感覚はあるそうだ。この時にこそ彼らは本来の巷間芸能人へと回帰するのだろうし、ある種のサトルボディをも認識しうるのだろうが、これを東洋武術のようにある種のロジック(東洋思想)として取り出す事が出来なければ再現性はない。

芸術は爆発だ!!! サクリファイスだ!!! 祝祭だ!!!、べらぼうだ!!!

これらの言葉はバタイユ、モースそしてエリアーデの思考が凝縮し、それらの背後には原初の神話とマレビトそしてインイロテンポーレ(かの時)がある。




~こんな事を言ったとたんに太郎の事だから、

意味なんかない!!!

爆発だ!!、サクリファイスだ!!

と言うのだろうが~



そして太郎の背後には一平とかの子がおった。かの子は元始の太陽と関連があり、一平は手塚以前のストーリー漫画の祖だ。そして太郎はおそらく一平から真の愛し方を学んでいる筈だ。原初の恋愛的なるものの本質を、それはデカダンス的な恋愛共同体の思想、ボードレール的な思想とも繋がりを持ちうるものだ。


縄文三仙人の1人にも数えられる太郎だが、(他に梅原猛、宗左近)縄文と東北、沖縄を再発見していった功績は大きい。

死を悟ったものは、透明になる・・・かつて美空ひばりが透明になった時の事を 近頃 よく考えている。

死をおもえ メメントモリはかつての私にとって親鸞や春歌、バタイユと並んで特別な意味を持っており、それは今も同じなのかもしれない。いまだに私はメメントモリと親鸞と春歌とバタイユが交錯してゆく何かを求めているからだ。

透明になった芸能人は無駄なものが一切なくなる。

正にしほれたる華となる。

メメントモリと親鸞と春歌とバタイユが交錯してゆく何かが私を惹き付けてやまない理由は、私にとっての死と愛の原光景が関わっているからだ。

良源の天台本覚論すなわち草木国土悉皆成仏 の思想は鎌倉新仏教の根幹思想でもあり、梅原猛により縄文やアイヌの思想を再発見した思想であると捉えられてきたものだ。

こういった捉え方の萌芽はかつて鈴木大拙により列島の霊性として捉えられ、それはエラノスの中である種の超宗教にまで高められていった。

心が疲れた時 私は美空ひばりの死と透明さについてを思考する。

心が疲れた時 私はメメントモリと親鸞と春歌とバタイユが交錯してゆく何かを求めてゆく。

心が疲れた時 私は瞑想の中へと回帰するのだ・・・。

このどれもがほとんど同じ場所にたどり着く瞑想になりうる・・・。


死をおもう事、死を思考する事は瞑想そのものだ。

瞑想は死が死ではなく、死が宇宙そのものである事、かの時そのものである事を我々に悟らすのだ・・・

私にとって折口信夫以上に表層の思考を支配しているメメントモリと親鸞と春歌そしてバタイユの交錯してゆく何かとは何なのであろうか?


厳密にはフロイトが捉えた程度の無意識にまでこの地平は私を侵食しているのだが、

雨が降る日は特にそうだ・・・。

芸能質疑応答。エディプスのズレ、夢とアーキタイプ

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コメントを下さった方々ありがとうございます。 特に愛犬へのコメントを下さった方々 本当にありがとうございます・・・


ハコモリ君、お久しぶりです。ハコモリ君が順調に芸能や声のオリジンに向かっている事を嬉しく思っています。小唄や端唄というものは、芸者や幇間の十八番だったわけであり、広い意味での小歌は狂言のライフインデキスでもあり、芸能のオリジンを探る一つの核となりうるものでしょう。(メイエルホリド的な視点で見た時)そもそも小歌という語彙の発生自体が列島大衆歌謡の認識と重なるところは、興味深いところですし、端唄、小唄は各地の俚謡も取り込んでゆきました。二三吉は素晴らしいですね。それから宮園節や薗八節もこの話の流れからするならば外せないものでしょう。後は市丸姐さんの所作を見て頂くとよいでしょう。
小唄や近世の流行歌を考える上で現在まで一つの基調となる思考は高野辰之によるものと言えます。また俚謡や小唄の基本を形成した盤珪や白隠の教化民謡、教訓歌謡も抑えておきますと視野は広がる事と思います。

また本についてのご質問を下さった方ですが、今のところ中古などをあたって頂く他はないかもしれません、大変申し訳ありませんがご了承下さい。


今 私はエディプス・コンプレックスやエレクトラ・コンプレックスについて思考している。

たかいたかーいをする夢は原光景として重要だ。それはあらゆる夢のアーキタイプともなりうる。

先日は芸能プロダクションで夢についての話をしたが、1人面白い者がいた
3歳の頃に夢の中である歌を聴き、その歌は度々夢の中に流れたのだそうだ。そして3年が過ぎたある時、その歌はオリコンで一位になった・・・あのかの有名なJpopバンド子供達氏が歌っていたのだそうだ。

要するにミスチルが発表する3年以上前からその歌を夢の中で知っていたのだそうだ。

これをフォールスメモリーととるか否かはとにかくとして、情動のおく深くで面が白くなる現象がおこった事は間違いあるまい。

まあ夢というのは特別に際立った夢以外も 精神の根源にある神話だ。

芸能を學ぶものはこの至高のビジョンクエストと如何にして対話するかが、 将来を左右すると言えよう。いや、この中に時空を超越した かの時があるのだ。

ユングとフロイトを足して2で割るとちょうどよいだろう。 ボスの分析だって悪くない。

世界各地のあらゆるアーキタイプを思考し直す事は芸能、信仰のオリジンを捉えることに繋がるだろう。

あなた方の見る夢の中にこそ古代はあるのだ。

私はよく夢の分析を依頼されるのだが 多くの者は整合性を持たせようとして、表層の思考でそれを翻訳してしまいがちであるが、それよりもむしろほとんどありのままを聴きたいと思っているし、その方が根に触れる事が出来る。
先日は久しぶりにマルベル堂に行ってきたのだが、なんというかホッとする。大瀬康一とアラカンそれから力道山のプロマイドを購入した そういえば天知茂は見なかったが、マルベル堂にないのだろうか?
店員に言うと、各スターのプロマイドをまとめて持ってきてくれるが、ひばりちゃんの量は凄い、断トツにあった。

浅草から、大阪から、沖縄から、東北から、どこからスタートするとしてもどこをも通られねばならず、最終的に我々は東北に行き着く事と思う。

東北的な肉体を新たな交響劇と再生させるために

芸能質疑応答。嘘実の肉体~嘘とは優しいものだ 真実は内臓を抉る~ ボイストレーニング低迷期、ボイストレーニングのリテラシー、

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シマムラ様、女神楽の創造、これからも思考なさると良いでしょう。 タマフリ、ジャレメ性、インイロテンポーレ性、神楽こそ芸能のオリジン性そのものと言っていいでしょう。

カワサキ様、コメントありがとうございます。
さてチーズですが、チーズはそもそもドパミンの生成に深く関わる食材ゆえ、エクスタシー、ポゼション、カミソーデ、カミダーリ、キアー、サマーディ、ファナー、ゾーン、フローティング等々のいわゆるASCに関わる状態にするための基本的な栄養チロシンを含んでいるわけです。
巷に出回っているチーズの中には紛い物も多いので、出来る限り本物のチーズを求める事をお薦めします。

まあ音痴そのものが良いというよりは、そこに近代により抹殺された音の萌芽があるといった方がよいでしょう。結えにそれを認識し、それを取り出す事でアジア・アフリカ段階の芸能をより生々しく取り出せる可能性があるわけです。

複数の声はかつての旧石器時代の芸能でも行われていた筈です。彼らは楽弓により自然倍音を知っていたでしょうし、アフリカにも倍音歌唱法がある事などから間違いないでしょう。また洞窟の音響効果がその効果を倍増するわけです。また火を囲みながら影の舞踏(影と共に舞い踊る)更に洞窟壁画の動物達とも舞い踊る。洞窟内の二酸化炭素による効果も手伝い彼らのASC力は更に拍車がかかってゆきます。洞窟の秘密結社の芸能は絵画、呪術、舞踊、声、楽器、瞑想、神憑り、治療、等を含む総合芸能であった事が解ります。

悪魔的な表出ですが、悪魔の解釈や悪魔のモラルセンスにもよるのですが、悪魔は元来先住民の神であり、精霊であったわけです。そのためそういった力が流れていなければ、やはり表面的な悪魔となります。ロックの中にいる悪魔の原像は西洋的なイメージもありますが、根源的にはレグバがおります。これはアフリカに古くからいる悪魔、精霊です。ブドゥンの芸能がアフリカ以上にアフリカらしい、ブルースやゴスペルがアフリカの縮図とされるのはこのレグバ性を色濃くもつからであるといっても大袈裟ではないでしょう。この悪魔のオリジンを掴む事が一つの核になります。

折口信夫の入門に良いのは、まあよく言われるのは池田弥三郎の著書から入ることです。池田弥三郎は折口芸能学を体系的にまとめた最初の研究者で、
折口のポエジーな思考を解りやすいロジックとして取り出しています。
後は日本芸能史六講、日本文学啓蒙あたりが入門にはよいかと思います。







芸能とは嘘と実の間にある。否、嘘にも実にもその間にも、また同時に三つの時空さへをも捉えうるのが芸能である。
嘘つきは優しいやつだと思っている。真実だけを語るものは冷酷な場合が極めて多い。

私はかなり冷酷な側にいる。だが嘘つきは嫌いではない。

芸能の本質とは愛にある。 それも全体性の愛にある。 部分的な愛というのはカスに等しいし、第一それは愛ではない。 だがアクシスムンディのように無限の愛の塔を無数に建てる事だって可能だ。愛の塔は一つしか建たないと考えるのは、やはり近代的な発想と言えるだろう。

禅竹のようにあらゆる段階を容易に飛び越える芸能力が重要だ。

私は近代的な仕事の大半をカスだと言うが、それさへも古代的な仕事に変容させる事が出来る。 我々は芸能の力でそれを可能とするのだ 深川の芸者達のイキを思考してゆくならば我々が何をせねばならぬか見えてくる筈だ。

東京の民俗料理の代表と言っていいのが深川鍋それから深川丼だ。それからこの地には田河水泡がおった。漫画を思考する上においても芸能を思考する上でも重要なのだ。


特権的肉体論は未だに新しさを持っている、まだまだ19世紀的な肉体論や肉体観、芸能教育が蔓延っているからだ

列島改造論から未だに脱却出来ない事ともこれらはパラレルだ。

近頃は一般的にボイストレーニング低迷期らしい。ネットの普及やYouTubeにアップされたボイストレーニングメソードで、ボイストレーニングが手軽に出来る事からいわゆるボイストレーナーに習う必要がないと思い込んでしまっている者が増殖しているそうなのだ。

結論から謂うがネット上の情報もYouTubeにアップされたボイストレーニングもそれからボイストレーニング教則本やボイストレーニング教室も何の役にもたたないだろう。

それからボイストレーニングのリテラシーがないものは、そもそもの価値判断が出来ない。

アホな乞喰、聖なるアホな乞喰、アホな王、聖なるアホな王、凡夫、アホな遊女、聖なるアホな遊女、放浪的なレスラー、特権的肉体者、放浪的なボディビルダー、対極主義的なレスラー、近代的な古武術家、神代的な古武術家、近代的な放浪芸人、近代的な民俗芸能、近代的な民族芸能人、・・・世の中様々なモラルセンスがシンクレティズムをおこしている中で我々は如何にして理を認識すれば良いのか?


答えは旧石器的な浸透と流動の思考をグノーシス化すれば良いのだ。

その認識に全てを通過させる必要がある。変容されたものだけがこの中に残り、後は消え失せる。

美空ひばり も 藤山一郎も 霧島昇も 松平晃も 皆そうだったのだが、あれだけの力を持ちながらも自身のベクトルは かなりずれた所にあった。

どうでもいい者がずれた方向や価値を持っても構わないのだが、そうでないものがそうなってしまうのはやはり 見ていて、もどかしくなるものだ

かつての放浪芸能人達もそうであった。 この矛盾する状態こそが芸能の本質なのだが、 それでもやはり もどかしいのだ・・・。

我々のように放浪する肉体と放浪する思考と認識の中で生き死にを繰り返すものは稀だ。まさに稀人であるのだが、本来の稀人はやはり上記のような~もどかしい者達~なのだと言えるし、私にとっては、~もどかしい者達~は、愛憎の対象ですらあると言っていい。

我々は超稀人に位置する。だが~もどかしい稀人~が、それをロジックとして取り出した時、その~恨~はどうなるのだろうか?消えるのか?それとも?

答えはその真釣りにこそあると言え、その真釣りを誤れば ただちに恨は消える。

超稀人とか超擬とか超芸能とか 言ってきたが、我々は芸能のオリジンを捉え、その展開を全て通過し、未来へと解き放つ エラノス的思考、グノーシス的思考の 肉体化をしなければならないわけだ。

フースラーメソード以後は私の周りにそういった方向やそれに近い方向を目指す者も増えてきており、嬉しい限りなのだが、 まだまだ足りない。 少なくとも3万人の超稀人が発生しない限り、エラノス的な全体の変容は起こらないからだ。最も私が大杉やゲバラ、王仁三郎のような社会全体の変容を求めているかと問われれば まあそういったものがオマケ程度についてくれば良いかなぁ という程度だ。

まあ近代思考や資本主義はこのオマケが主になった世界で 早急な解体は 個々人 のエラノス的な変容も加速させる効果もあるにはあるのだが、


そして私がエラノス的な肉体化として、もしくはエラノス的な芸能指示表出として最も可能性を見るものが~人体交響~である。

芸能のオリジンとしての神楽や野生の音声実験も重要だ。

だが、最終的に我々は東北を通過すべきだと思っている。もちろんエリスを東北的に再解釈する事こそが 我々の到達点になるであろう。
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