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Channel: 無音の音声~むおんのおんじょう~
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美空ひばり 川の流れのように 森繁久彌の語り 芸能質疑応答

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カワサキ様

質問頂きありがとうございました。また諸々の件了解しました。

ニチントウですが、顆粒や粉、錠剤の場合で効かない時は二倍量にするという方法があります。日本の漢方は中医(中国漢方)に比べてかなり生薬の量が少なくなっているので、漢方医によっては二倍~三倍、場合によっては五倍量というものを薦める場合もあります。もちろんこれらは漢方医から証を見極めてもらった後でする必要があると思います。



ある歌謡やある語りとの出会いもあり、また再会もある・・・美空ひばりが25曲目の川の流れのように を歌いきった後に森繁がひばりへ向けて語り出す・・・ この映像は永年 私の心の支えになってきたものだ・・・このタイミングでまた出会えた事に心から感謝したい・・・


ひばりの声は私の精神状態によって聞こえ方が全く変わる・・・当然の事ではあるのだが、ひばりだけは やはり大きく変わるのだ・・・それも心が疲れていればいる程にひばりの声は深く染み入るようになる・・・

ひばりだけが究極だ!と謂う気はない。確かにひばりは放浪芸の集大成的な存在であり、芸能学的に分析しても底無しに面白い存在である事は確かだ。

だがそれ以上に私がひばりに対して特別な思いをよせているという事の方が正しいだろう・・・

エノケンが田谷力三などともに私の青空を歌う映像も好きだ。

エノケンはメイエルホリド的な原初演劇の一つの集大成であったと言える。


先日はNHKで北島三郎のデビュー曲ブンガチャ節が披露されていた。

これは代表的なバレ唄であり、北島三郎の射程は一般に向け、一気に深まったと言っていいだろう。

バレ唄は芸能のオリジン性を強く残すものである。 なぎらけんいちの春歌集もYouTubeにアップされていたが、今は削除されているようだ。なぎらの春歌は和製アメリカ俚謡的ではあるが、それでも相当な価値と射程は持っているものだ。

ヤージュニャヴァルキヤの中に至高の恋愛論があり、恋愛の本質をこうも捉えたものがない事を再発見した時の喜びはおそらくは釈尊が光明を得た時以上であろうか?

夫を愛するから夫を愛すのではなくアートマンを愛するから夫を愛す

というのは正しい。 ユングやヒルマン的にはこれはあるアーキタイプに触れる事で それが発生すると捉えるわけだ。

愛とは目の前のそれに向かうものではない。 目の前の者は何らかの態により我々に変容をおこさせ、その変容によりアーキタイプやアートマンに我々は触れ、愛するのである。

結えに愛とはASCの技法とヌミノーゼ的な体験そのものなのだ・・・

我々はヤマアラシのジレンマをどう克服するのか?我々の愛擬きを常に悩ますそれはこのジレンマなのだろう・・・

もしくは病は、肉体、精神問わずにこのジレンマを増幅させる事が多々ある。

エラノスはかつて時を思考した・・・我々は時を戻せぬ事、時を進められない事を何度呪った事だろうか? しかしながら我々芸能人はこの時を創造する力を与えられている。我々の究極技法が時の技法。まったくこのインイロテンポーレなのだから・・・

時を自在に操れるならば、我々の苦痛のほとんどは浄化されるであろう。それゆえに古代人はインイロテンポーレの態の完成を急いだのだ・・・。

場の記憶とのシンクロニシティと呼んでもよいのだろうか?我々には必ず象徴的な場があった・・・今、その地には何もない・・・いや、あるのかもしれないが、残念ながら今の私には何も見えない・・・この土地にアクシスムンディを打ち立て世界の始まりにまで回帰さす事が出来た時、我々の芸能力も再び潤いを取り戻すと思うのだ・・・その時までは、少し眠りについて、アーキタイプと戯れていようと思う・・・。

理想の芸能を語るな!!! 理想の声を語るな!!!夢の本義、詩の本義、オノマトペ演技術、特権的肉体、我慢する肉体 、芸能質疑応答

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カワサキ様コメントありがとうございます。

自分の声を何度も聴き、その時の筋運動上の感覚を感覚記憶してゆく事で、自身の声の客体化が上手くゆくようになってゆきます。俳優なども自身が他者からどう見えているかを客体化させる身体感覚を訓練してゆきますが、音声を客体化するそれは音声感覚と呼んでいます。

この訓練がすすめば聴覚フィードバックに頼らない美空ひばりちゃんのような状態も発生してきます。

メンタルピクチャーは基本的に危険は少ないですが、喉を痛め気味の時などは、控え目にした方が無難でしょう。

カタカナを半角にする理由は特に意味はないですが、あえて言うならば文字のバランスが私の勝手な好みとしてよく見えるからでしょう。

いわゆる鍵の機種は、その辺にあるもので特に拘りはありません、いわゆるバレルハウスピアノを使っています。

このバレルハウスピアノこそ、かつてピアノはインドや中近東の漂泊芸能人達の楽の器でそこから漂泊し、西ヨーロッパで様々な変遷を経て、現在の様な近代を象徴するような楽器となりました。

これをアフロアメリカンがアフリカ的な音感覚へと近づけようとしたのがバレルハウスピアノでした。

このバレルハウスピアノには近代を解体し、漂泊や野生へと回帰する願いが込められています。それはまるでルーツにおけるトビーとクンタキンテの葛藤のようなものです。

後はキルベルガーやヴェルクマイスター等の音律を使う事もあり、そうした音律をかえる機能のある機種は最近は一般的になってきているようです。

まあ、一般的な人達を変容させん事には社会や世界の変容は有り得ないので、やはり一般的な人達にかたりかける必要はあるでしょう。まあ世界や社会の変容のためには少なくとも3万人は変容させんと駄目でしょうね・・・

いわゆる西洋の楽譜、五線譜は基本的には西洋古典の再現のためにあるものであり、西洋古典をやるものでなければ必要ないものです。ジャズやロック、ソン、サンバ、ボサ、エンペベといった南北アメリカの大衆音楽や大衆歌謡とその影響を受けながら各地の放浪芸とシンクレして発生した世界各地の大衆歌謡(いわゆるワールドミュージック)は本来楽譜とは無縁のジャンルで、これらの歌謡の最も重要な部分は楽譜に記す事はまず出来ません、

それからシリアスミュージックのアバンギャルドな流れのもの達はまあ楽譜が読める者がほとんどでしょうが、彼等が表出している重要な部分もやはり楽譜には表す事の出来ない部分です。

楽譜は基本的には便利に大枠を把握する程度のものであり、大衆歌謡の芸能人のように微細な感覚までを瞬時に聴ける力の方が遥かに重要なわけです。むしろそういった力を抑圧する可能性すらある楽譜が権威、権力をもつ昨今の風潮こそを根絶やしにする必要があると思います。
















理想の~を語る事が出来るものは、そうはいない。それは理想を知らぬからだ。 世の風潮にあわせた理想など理想ではなくクズに等しい。

理想とは元来イデアの直訳ゆえに あの洞窟的な精神を通過せぬものが安易に語る事が出来ぬものと謂える。

ギリシャ哲学の源に神秘思想がある事を井筒俊彦は見抜いた。

そして新プラトン主義はエソテリスムの重要な核にもなってゆく思想であった。

先ずもって理想が高いなどとは間違っても口にせん方がよい。その方向にいくら積み上げても理想は絶対に顕れない!!!

イデアを自然科学的なロジックとして再構築したのがアーキタイプ論だとするならば、その射程はエラノスの源とも重なりをもってくる。マンガやアニメ、映画や瞑想、籠りの起源にも重なりを持つのだ

それゆえに理想とは古代まで遡り、精神の根まで遡りそれをロジックとして立ち上げてゆく事でしか、ありえない事なのだと言っていいだろう。

そういう意味において理想を語れるものが、果たしてどれだけおるというのだ。

先ずは、放浪芸やマレビト論を知る事だろう。 そこが一つのオリジンとなる。だが 私自身はもうすでにそこにはおらんのだ。更なる地平へと降りていっている。

理想とはいまや アーキタイプとして取り出され、 ユングやコルバン、ヒルマンによりその地平は切り開かれていった。

我々の夢、芸能、芸術、神話、文藝はその宝庫だ。

今、我々は夢の指示表出を試みている。エラノスの核にはこの夢と元型があった事は何度語っても語り足りない。

その指示表出のために様々なモラルセンス、様々なジャンルが実験されてゆくべきだ。
夢は類化性能、アナロジーにより埋め尽くされている。否、ヒルマン的に言うならば 夢が類化やアナロジーを発生させたと言うべきであろうか?

私は蛇と電車と翁の元型に今触れている。 ここに途方もない秘密が隠されているからだ・・・

見世物と舌耕芸人を従え、首に蛇を巻いた翁 が無音の音声で無音の言葉を語った・・・普通、私の頭は あらゆるものがセネストパチー化される。音や声も脳内にガンガン鳴るのだが・・・この翁、嫗の声は全く無音であった・・・

少し筒美節が頭になり始める 電車の中で遊び始めた少女は 誰だったのだろうか?

見世物の中でとぐろを巻いた蛇が私を見つめている 。

私は夢の中の元型達が私のフォールスメモリーを作り出してゆく感覚の傍観者となって
ゆく・・・

世界のあらゆるものは詩で出来ている事はユングやソシュール、インド哲学や弘法大師を引き合いに出すまでもない事だ。

詩もどちらかというならばダダやシュルレアリスム的でグロソラリア的なものがより基層だ。それからオノマトペ、ここにあらゆる演技術があり、特権的肉体、我慢する肉体もここを源にしている。ガム的な叫びは常にここと交錯している・・・。


アフリカのトリックスターすなわちエシュやアナンシ、チドンの卯やコメディアデラルテはたまたタルチュムそれからエノケン

メイエルホリド 的な原初演劇の探究はエノケンへとたどり着いた。

エノケンの身体性それから あの底抜けに明るい歌声、私はエノケンの歌が大好きだった・・・

エノケンと田谷の私の青空は、正に芸能獣の共演だにして饗宴、祝祭だ!!!

十二階芸能~六区へ、 原初の笑い~超芸能へ!!!

先日は~愛~についての授業を行った。

芸能や宗教、信仰の本質を捉える時に 相当なラディカリストも 度々この~愛~という語彙を使用してきた。

愛とはやはり変容と深く関わるものであると思っている。

変容そのものであると言っていいかもしれない。

それがミョウコウさんのような穏やかかつ至高の変容もあれば、 金剛蔵王権現のような 荒ぶる変容もあるわけだ。

昔話を穏やかに表出するカタリジサ、カタリバサも 激しいキアーやファナーにいるコイサンやスーフィーも変容している事にかわりなく、どちらの道を通ってもかなり深い世界に触れる事が出来る。

まあアーキタイプ論的な見方をした時、至高はやはり夢にあると言える。


私はここ最近、改めて夢のもつ力について再認識している。

神話、昔話、伝承芸能、巷間芸能の中に芸能のオリジンはあるのだが、それと同時に意識的な作意の装飾も多々施されている事も確かである。夢はその点、遥かに素朴だ。最高の芸能は夢の中にあると言っても言い過ぎではなかろう。

だがそれに気付くためには上記の様々な芸能に触れねばならないかもしれない。

アーキタイプ論は西洋のエソテリスム的心理学ではそれほどに深い位置にあると解釈されていないが、それは間違いだ。

創造神話もそうなのだが、夢の様々な段階の根源にこれらはある。

それはもしかしたらカールグスタフユングだけを見ているだけでは気づかないかもしれない。ユングはあまりに有名過ぎる。

その辺りの間抜け達でもその名は知っていようし、それゆえにその理論もあまりに浅い形で世に流布している。

だが我々はあのエラノスの要にユングがいる事を知るべきであり、ユングはもう一度超思考者としとの復活を果たすべきだ。

エソテリスム的心理学においてアストラル段階 を超えるならば我々は未来へと解放されてゆくわけだが、

エラノスははじまりの古代芸能を捉え、あらゆる芸能の展開を突き抜け、古代芸能のような未来芸能を捉えようとした。そしてエラノスも時間を思考した・・・

夢の中で何度も殺害されるあの童は、世界の解体と再生のアーキタイプであり、サクリファイス、祝祭のアーキタイプであり、愛の元型でもある。それから血・・・。

あらゆる段階の肉体と精神が浄化され、あらゆる段階の夢が再生されてゆく、その源にある運動を捉えてゆく時、我々の新たな変容がはじまるのだ・・・

芸能オリジン概説からエラノス的超芸能へ、~変態達の祝祭とサクリファイス~ ~至高の芸能表出のために何を聴き、何を見るべきか?~

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カワサキ様コメントありがとうございます。

先ず自身の聲を客体化する方法として、かつての芸能人達は山びこを利用していました。基本的に録音などは電気信号に変換されてはいますから厳密には厳しいでしょうが、悪くはないと思います。

美空ひばりちゃんは屋根なし市場の出身ですからね、当時のあの場はあらゆる芸能が交錯していました漂泊の芸能から浪花節、幇間芸それから和歌の朗詠がひばりの節の原光景だったわけです。戦後は沖縄の芸能も大分あの辺りでは聴けたでしょうし、ジャズも盛んでした。後は古賀メロ、ブギウギ、川田節(虎造節)といった様々な芸能がひばりちゃんの中に注ぎこまれたわけです。その手解きをしたのが父のマスキッチャンとあきれたの川田晴久です。こうしたものがあまりロジックとして取り出されずにほとんど遊びと生活の中でひばりちゃんの中に入ったわけです。なのでひばりちゃんの中には漂泊芸能の四大要素であるホカヒ型、日知り型、香具師型、盲人型、それから都々逸や虎造節、
三門節といった列島芸能オリジンがもののみごとに集約されているわけです。ひばりちゃんに欠けている部分があったとすればこういった事が前意識的、無意識的であり、ロジックとして取り出されずにいた事でしょうか、ただし芸能表出者の大半はそういう者がほとんどで、逆にロジックとして取り出されないところにある種の魅力が発生している場合もあります。
20世紀の大衆歌謡や大衆芸能の多くが港町で発生してきた事も美空ひばりの発生と関連している事でしょう。クロンチョン、パームワイン、ジャズ、ファド等
20世紀はこうした世界各地で各地の漂泊芸能とブルースによるアフリカ性(もしくはパーラーソング等が)がシンクレを起こし、そしてその象徴的な歌い手が各地で顕れてゆき、ひばりも当然その一人だったわけです。西洋ではアマリアやマリヤタナセ、ピアフがインドではラターやアーシャーそれからヌールジャハーンやサイガルが、アラブではウムカルスームやファイルーズが、インドネシアでは、ネティ、ヘティクースエンダン、エルフィスカエシ。マレーシアではサローマ、カンボジアではシンシーサム、タイではプムプワン、アフリカからはシティ、フランコやフェラクティ、ハワイからはレナマシャート、ブラジルからはカルメンミランダが、中国のショーシュアン、
台湾のテレサ、韓国のナムインスと
いった歌い屋達はある意味で近代性と古代性とが矛盾するままに交錯していった歌い屋達でした。


我々は籠りや瞑想、古代的な芸能の中でいわゆる意識の拡大や魔境などと言われる段階で悪魔や妖怪、神、精霊、タマ、イツ、マナ等と言われる存在に触れるわけですが、これは側頭葉が活性化する事でなると言われています。南方熊楠も粘菌想観により熊野の森で原初の妖怪達に会い、戯れた事でしょう。彼の側頭葉が発達していた事はよく知られています。 ブードゥーやサンテリア、カンドンブレ、ブドゥンは当然四ツ辻の悪魔、レグバやエシュを呼び出すための態を知っているでしょうが、これも基本的にはASCに入らねば駄目です。オウンガンやマンボの中にはASC
に入ったものとそうでない者とがおるわけですが、入らねばレグバやエシュは顕現しません。(儀式の便宜的に顕現された事にはなりますが) グリモワール等の悪魔学を中心とした西洋のペイガニズム、エソテリスムから入るのも悪くはないでしょう。こういった流れもグノーシスやエックハルトを中心にしてエラノス精神に深く関係します。上田閑照等の思考を通じてこれも深まりを見せてゆきます。

ただ我々列島人にとっての悪魔はやはり妖怪になるわけです。ASCに入った時に我々が出会うのはスーツを着た黒人や西洋悪魔ではなく、やはり翁型妖怪や童子型妖怪、はたまた天伯に会うのが普通でしょう。 列島における最古層の神にして妖怪は天伯でしょう。 これも実は四ツ辻の妖怪なのです。私はこの神とレグバとの共通性を感じているわけですが、我々がレグバ的なものを再生させるならばやはり天伯になってしまうように思います。結局、夢でも、神話でも、指示表出的な芸能においてもビジョンクエスト的なものは、古代心性だけで顕れてくる事はあまりなく、必ず民俗心性の衣をおびて顕現されてくるわけですから、天伯は三信遠国境地帯の芸能のマレビト神としても要となる神、妖怪です。
瞑想や籠りが窮まれば自ずと天伯的なる地平に触れる事と思います。

そう言えばブルース好きの教え子で夢の中にレグバが始終顕れてくると言っていた者がいますが、まあどちらにしろこの種の神、マレビト、悪魔、精霊の正体はトリックスターですから、基本的に悪戯者なわけです。深い段階にも場合によっては浅い段階にも顕れて我々をおちょくるわけですから、我々も戯れるつもりでいるのが、一番良いように思います。


一般の者を目覚めさせる方法は正直知りません、一般の者の情動は弘法大師風に言うならばかなりの埃を被っているわけですから、まあ金剛蔵王権現を再生させるのが良いかもとも思っていたのですが、やはり現在にはそぐわないようですね。恋愛は変な話 かなり浅薄なものでも基本的に変容性は含みます。peaホルモンはかなり強力に頭を変容させますし、性交も一般的なものでも瞬間的には変容を促進させうるわけです。まあいわゆるリュウメイ的な対幻想が発生するわけで、現象としては良いわけです。ただそれを認識させるのが結局難しいのでしょう。例えばボーッとした状態などもデフォルトモードネットワークと呼ばれASC
の一種ですし、酒やタバコだって古代芸能においては神の飲み物にして、変容の植物でした。そしてそれは近代人の中にも生理的には同様な現象として起こっているわけです。クラブで踊っている若者やサイケデリックをやっている若者達だって変容はしているわけです。統合失調症などの精神疾患、神経症も重要な変容性を我々に示すのですが、それを価値あるもの、古代心性の萌芽として認識する事が出来ないわけです。サイトシーイング的、スループット的にしてしまうからせっかく価値ある場にいってもそれがほとんど立ち上がってこない。

今の恋愛の型は12世紀、17世紀に西洋で起こったインパクトが明治期に輸入され、太陽族により爆発的に大衆化されたものです。 もちろん恋愛そのものの中に本質はあるのですが、こうした近代恋愛から本質が顕在化するのはやはり難しいと言えば難しい。

恋愛の本質はヒメヒコの芸能すなわち天皇陛下とナカツスメラノミコトの芸能やシュリテンガナシとキコエオオキミの芸能、アマミク、シネミク等のいわゆる兄妹婚洪水神話の中に先ずあるでしょう。それからこれらは、ヒエロスガモスやカガイ、モーアシビ等とも関連し、カガイやモーアシビはユーラシア全土にその帯があるわけです。

国魂の芸能や国風歌舞、タマヨバイ、等も恋愛の本質と芸能の本質が本来同根である事を示すものであります。

先日 里中満智子の天上の虹が完結しましたが、このいわゆる万葉人の恋愛の中にある種の恋愛のオリジンはあるでしょう。またプラトンはダイモンの中に恋愛の本質を見た。このダイモンはデーモンのアーキタイプなわけでして、更にヤージュニャバルキヤはアートマンやブラフマンにまで恋愛を交錯させてゆきました。

まあ一般人を変容させるのは、フィジオノミー(すなわち外見やファッションに繋がる学問で顔とはなんぞやを思考してゆく)
的な面を拡張してゆく事とロックやリズムアンドブルース、Jpop、小劇場運動、漫才、バラエティーの中に残存する巷間性とアフリカ性を再増殖するしかないように思います。
またポエムというのはそれ自体が古代人の思考法を内在したもので、夢や神話、昔話、なぞなぞ、駄洒落などのようにアナロジー、メタファー、メトニミーが駆使されているわけです。アナロジー、類化の能力の窮まり自体はそもそも変容への萌芽があると言って良いでしょう。

基本的に近代芸能人に足らないのは、変容と0の聲や0の肉体そしてそのバランスでしょう。例えば変容に長けたヌスラットもより細かな西アジア、南アジア的な聲を持ち合わせなかったし、シリアスミュージックのアバンギャルドなものたちは下方倍音列的な音の無意識には気付いたが、西洋近代の思考に囚われ変容が足りなかった。 後は民俗心性の通過も指示表出の上でしっくりこさせる上では重要でしょう。これなんかは原始主義の連中がこだわってきた事でした。伊福部なんかもこういった事を考えてゴジラのテーマや日本誕生の岩戸神楽なんかを表出したわけです。

アンザッツ1をひろめる事は生理的にも芸能モラルセンスの上でも重要でしょう。ガムは二重の弁が鍛えられるわけで、それは喉の無意識と関連するわけです。いわば0の聲へと働きかけてゆくわけです。

幸いな事にフースラーメソード発売以降は我が研究所を訪れる人達は多かれ少なかれ、ラディカルな方向にに向いているものばかりのようです。研究所の中では最低レベルの人でもまあ一般的な水準は、いわゆるプロや芸能教師を含めても遥かに超えていると思います。 ショービジネスの成功やカラオケが上手くなりたい目的の人も研究所にいるにはいますが、その目的を達成するためには古代心性や民俗心性を捉えた方がより上手くゆく事は理解している人がほとんどです。ショービジネスもカラオケの要にあるJpop
や演歌もその源にはマレビト直系の漂泊芸能とレグバ直系のブルースがあるわけですから、フースラーメソードを読んで研究所を訪れる水準になるとさすがにその程度の事は掴んでくれているようです。 ただ一般的なプロダクションなどではそういった表面的な者もいるにはいます。そういう表面的な者を教えねばならない時は面白いかつまらないかと問われれば当然つまらないです!!!
ただ思考のベクトルが古代心性に向いていなくても聲や肉体や情動が向いている場合も稀にあり、その場合はある意味で面白くかつスリリングではあります。









芸能のオリジンとは何なのか?その事だけをただひたすらに思考し続けてきた。そして至高の芸能とは先ず芸能オリジンを捉え、それを未来へと解き放つ事で発生するのだと考えてきた。

それは折口信夫の芸能学とエラノス的な思考に基づく一つの結論であるわけだが、

我々はこれを感染教育し、実践してゆかねばならない。

もはや最高の芸能を発生させうる可能性があるのは、我々か我々の周辺にしかおらんわけだ。

諸君は至高の芸能発生の瞬間を見うる可能性を持ち、また諸君の中の誰かが至高の芸能を発生させられるかもしれんのだ・・・


エビングの理論を借りるまでもなく、芸能をやるものとは基本的に変態でなくてはならない。変態でなかった芸能人がかつていたものか! 変態達の祝祭とサクリファイスこそ芸能の本質だ。変態達は祝祭とサクリファイスの中でついには怪物に変容するのだ。

六輪一露やアルトー演技論やグロトフスキ演技論のようなあらゆる状態への移行が重要なのだが、その基層に蠢く変態、怪物、狂気達とは戯れなければならない。それこそが芸能なのだ。そしてそれは縄文人やラスコー人、ジャレメ達の浸透と流動の運動とも重なるのだ。

その力は大地を海を惑星を宇宙をも解体し、また再生、創造させうるし、時間をもコントロールし、量子世界をも飛び回る力、フォルスを持っている。創造神話は世界各地の秘密結社の至高の籠りのいわばビジョンクエストから発想、発生したものにして、その刹那と永遠の交錯地平、インイロテンポーレへと回帰していった運動を捉えたものであった。

辻潤、唖蝉坊、ダントク、アラカンの芸能力。それから田谷やエノケンをもう一度メイエルホリド的な思考で捉え直してみるのだ。

こうした芸能力の根源には籠りそして魂振りがある。

魂振り性の大小があらゆる時代、国、民族を超越した芸能の古代モラルセンス、古代心性の根幹といってもよいだろう。

それはASCや内部光学とほぼ比例するといっていい、それからアナロジー、夢は基本的にアナロジーに基づく、否アナロジーを発生させた。メタファーやメトニミーの力をいかに増殖させるかもこういった運動と連動しているのだ。

我々はそこから0の精神、0の身体、0の声、0の言語を発見してゆく。

0の精神もまた途方もない射程を持つが、それはフロイトにより再発見された。更にそれはユング、ラカンにより解放された。またマズローやグロフ、ヒューマンポテンシャル革命により大衆化も行われていった。またフロイトの前段階としてメスメリズムがあった事はおさえておく必要がある。そしてそれはエソテリスムの流れの中から発生している。

イサドラ、グラハム、カニングハムそれからピナへと続く無意識の身体の発見というのもフロイトの無意識の再発見とやはり連動している。またヒューマンポテンシャル革命、エサレン研究所のワークは、0身体に対しても多大な影響を与えた。ヒンドゥールネッサンス的な近代インド聖者もこの流れと深く関わった。かなりラディカルな実験が行われた事も我々は捉える必要がある。更にこういったトランスパーソナル革命の根源に大拙がおり、大拙が浄土信仰と禅を列島の原初信仰として取りだし、エラノス的な超宗教にまで高めた事は確認しておくべきだ。
また0の身体を最高の水準で捉えたのが土方巽や大野一雄であった事も確認しておく必要がある。ピナもドイツ表現主義の一つの極にいた。

0の声もシュトックハウゼン、ケージ、そしてベリオにより模索された。そしてそれは何よりもフルクサス運動に多大な影響を与えた音声実験家がベースにおり、その顕れは、オノヨーコにより表出された。また一柳やスッブラクシュミの影響も考える必要がある。またアレアあたりがこうした地平を大衆化してゆくとともにプレワールドミュージック的な地平を切り開いていった。

0の言語はロシアフォルマニズムやダダ詩人、それからシュルレアリストのオートマティズム等により再発見されていった。また井筒の言語アーラヤ識やアルトーのオトマトペの再発見もこの0の言語といっていいだろう。何よりも我々は折口信夫の斜聴論を捉え直す必要がある。またこうした事の源に弘法大師の声字実相、バルトリハリの音韻論、シャブダビドヤ、シクシャー等があり、また近代的なロジックとしてその再発見した者にソシュールやヤコブソンがおり、レヴィストロースがいたわけである。

芸能オリジンを掴むために我々が見聴きすべき芸能は基本的に1960年代以降急速に滅んでいった。(また1960年代はその見直しやリバイバルが行われもした。) 基本的にはそれ以前の漂泊芸能の録音の中にこそ芸能のオリジンは存在する。後は俚謡や民俗芸能の中にある。また漂泊芸能性を色濃く残した大衆芸能、古典も古い録音には漂泊芸能性が残されていると考えてよい。

先ず我々が基本とすべきは~日本の放浪芸~である。これを聴いていないようなら芸能人失格だ!!先ず辞めた方がよい。

もちろんこれに相当する放浪芸能を見聴きしている場合はよいのだが、これだけ総括的なものはこれだけである。浪花節愛好家はこれらの放浪芸能の集大成こそが浪花節だという事を知るだろう。

放浪芸能や漂泊芸能の元型というのはホカヒビトとジャレメが交錯してゆく存在であるわけだが、こうしたマレビト的芸能から様々な放浪芸能が発生していった。構造的にあえて取り出すならばホカヒ型、香具師型、日知り型、盲人型として取り出す事が出来る。いわゆる門付け芸はホカヒ型に入り、見世物や啖呵売、舌耕芸、書生節などは香具師型に入る。山伏や日知り、それから願人なども日知り型に入る事が出来る。盲人型はゴゼやボサマ等がこれに含まれてきて語りものや俚謡伝播や昔話語りのハイハイ物語などとの繋がりをみる事が出来る。もちろん舌綟もここを源とし、香具師型と複雑にシンクレしてゆき現在にいたる。

後は本田安次の日本民俗芸能の体系を聴くべきだろう。折口が芸能のオリジンとして捉えた
三信遠国境地帯の霜月神楽すなわち天龍村霜月神楽、遠山霜月神楽、奥三河霜月神楽が聴けるのと同じく三信遠国境地帯最高の芸能にして折口信夫芸能学の要の要ともいうべき新野田楽も聴く事が出来る。また新野田楽の要には本来新野霜月神楽があった筈だが現在では分離してしまっている。

またアイヌ、ウイルタ、ニブフといった北方芸能の古い録音もこれにより聴く事が出来る。

沖縄音楽総覧も小沢、竹中、テルリンがまとめた放浪芸沖縄編と併せて聴く必要がある。琉球古典や沖縄伝承童謡、沖縄俚謡、アガリのウフヌシ、マユンガナシ、アンガマア、パーントゥ、フサマラー等といったマレビト芸能やモーアシビのようなカガイ的芸能も聴く事が出来る至高の録音である。

また奄美俚謡のヒギャ節とカサン節の坂元豊三と南政五郎は必聴だ。~このあたりのクッカやグインと呼ばれる強調対比メリスマは、まだまだ豊かかつ微細である。これもインドのガマカやイランのタハリール等の様に1960年代を境にして急激に軟弱化する。~
更に里国隆のクルダンドウ節は放浪芸能の中の放浪芸能と小沢から称されたものであり、実際相当に素晴らしいものだ。

それから世界各地の俚謡や民俗芸能を知るためにアランロマックスコレクションは重要だ。またアフリカ芸能はすこぶる重要なわけだが、これの総括的なものはヒュートレイシーによるものだけで、後は良いものでも断片的だ。ブドゥンやブルース、サーモンスタイル、エバンジェリスト型のゴスペルはアフリカ芸能の集大成として聴く事が出来る。
ブルースの核にしてアフリカの巷間芸能人のモデルとして取り出されたのは、グリオの芸能であった。研究者によってはアフリカの巷間芸能人全てをグリオという語彙でくくってしまうほどだ
このグリオの中で最高の録音はいくつかあるが、やはりバズマナのそれは至高の一つだスンジャータ大王の物語を最高クラスで表出したものである。
ポールオリバーによるブルースの更なるオリジンとしてのグリオの塩讃歌もまた素晴らしい。ブルースの中で最もアフリカ段階を強く残すのはテキサスアレキザンダーといってよいだろう。ロバートジョンソンやピーティウィートストローそれからサンハウスやチャーリーパットンも良いのだが、第一はテキサスアレキザンダーだろう。一部においてゴスペルはブルース以上にアフリカ性の集大成であるとする意見もあり、それもまた真実を突いている。エヴァンジェリスト型やサーモン型のそれがゴスペルのオリジンであり、ある意味でアホダラ経的である。
後はボーディブルースは最も芸能オリジンに近い事は言うまでもない。
アフリカの流行歌謡としては、西のフェラクティ、東のベズネシュベケレ、シティビンティサアド、南のマハラティーニ、北のリミティ、中央のフランコ

また、サカラやアバラも強力だ。後はアフリカ大衆音楽の原点というべきハイライフ、パームワインをおさえておく必要がある。

アフリカ神話の体系的研究としてはドゴン人の神話が基本となってきたドゴンの神話からアフリカに通低する神話思考を取りだそうとしたのだ。

それからエシュやチドンの兎、アナンシといったアフリカのトリックスターは重要だ。神話や芸能の核であり、アメリカ大衆文化の核にもこのトリックスター達はいた。アニメの核にチドンの兎がおり、ロック遺伝子の核にエシュがいたのだ。

トリックスターはメイエルホリド的な原初演劇を捉えるのにも役に立つ事はこれまでも言ってきた通りだ。またここには仮面の芸能やマレビト論も重なりだしてくる。世界各地の仮面の芸能はそのまま世界各地のマレビトやトリックスターを顕れでもある。ヨーロッパのマスカは、ルーマニアのマレビトであり、エリアーデ個人にとっての一つの古代にもなりうる芸能だ。アジアのタルチュムはメイエルホリドを狂喜させ、バロンはアルトーを狂喜させた。ケーララのテイヤム型の芸能がすばらしいのいつも言っている通りだ。

ワタリガラスやコヨーテは重要なマレビトだ。

ムヨンボやギテンガはアフリカの仮面芸能の一つの核であり、オセアニアのハウスタンバランの芸能もそうだ。

我々は籠りの中でチューリングパターンや幾何学模様などと呼ばれる映像を見るわけだが、これは内部光学と密接な関係を持つ、籠りにおける内部光学の自然科学的発見は生理学によるもので19世紀初頭に遡るが、 この現象自体は、旧石器の洞窟壁画や動産芸術からも発見されており、旧石器時代以前から籠りによりこの現象に触れていたようだ。
こうした籠りがある種のロジックとしてはじめて取り出されたのはやはり神話や昔ばなし、笑い話においてであった中でもトリックスター神話と創造神話は古い思考や籠りの深いASC段階を取りだしアナロジー的に表出したものだ。
籠りのテクニックそのものはパシュパティの態によってメソッド無きメソッドといってよい状態で認識されていた。これもやはりポエム的な表出であった。これをもう少しロジカルに取りだした最初のものは シャーンディリヤであり、更にそれはウッダーラカアルニ、ヤージュニャバルキヤによりはじめてインド哲学体系としてまとめられていったと言える。
インドの籠り態を考える上でここは先ずおさえておくと良い。後はブッダ、パタンジャリ、それからカビールやミーラバーイをおさえておく必要がある。それから至高はやはりトリムルティすなわちティヤーガラージャとムトゥースワミーディークシタル、シャーマシャーストリーだろう。北のハリダース、タンセン、バイジュバウラも至高に達している。またテイヤムやブータは芸能表出としてマレビトの芸能としてインド芸能のオリジンであると同時に芸能全体のオリジン性を色濃くもち、クーリヤッタム更にカタカリはインド民俗芸能の集大成的な芸能にして基層をも色濃く残したものである。このライフインデキスにソーパナムスタイルがある事もまた注目に値し、
ダヌルヴェーダ、カラリパヤットもこのインド芸能の肉体に深い関わりを持つ。

我々はそもそもエリアーデやオットーといった宗教性と籠り態のロジックとしての最高水準の取りだしを成し遂げた二名がインド芸能やインド籠り態、インド哲学を基層に持つ事を注目する必要があるだろう。エリアーデはタントラとハタヨーガをベースに持ち、オットーはシャンカラやギーターを基層に持った。またあまり関係ないが小泉文夫の芸能の原点もインド芸能にあり、新内節とタハリールのゴルパを最高の芸能という風な発言は有名だが、それ以上に彼にとっての最高はやはりインド芸能であった。


世界母親大会とは平塚らいてうの意志を継いだ会議だ。我々は元型としてのグレートマザーや土偶として表出されてきた地母神について思考してゆく必要があるだろう。それはやはりインイロテンポーレとも密接な関係を持つものだ・・・原初の肉体の反応とは、病や死の直前によっても引き起こされる事を我々は知る必要がある。生命活動の沸騰がおこるのだ。歩くとは?立ち上がる?とは一体何なのか?はじめて立ち上がり歩く瞬間の感動をかつて大野一雄は芸能として取りだしたが、それはこれまで芸能としては抹殺され続けてきた肉体に再び光りをあてる事となり、それこそが芸能の本質なのだといえる。

病や死を思考するタナトロジーをもう一度野生のタナトロジーとして再生させる事は我々がしなければならない事だろう。芸能とは病や死と密接だ。健全な肉体とは病をもその可動領域に含むそれをいい、健全な精神は狂気や聖性をその可動領域に含んでいるものだ。
それを抑圧隠蔽した近代こそが我々が滅ぼすべきものだ。

赤子がはじめて立つ時、翁、媼、病人が立つ機能、歩行機能を失おうとする時、我々は神経と痙攣の運動の本質をそこに見るのだ・・・それは無意識とも連動した肉体のオリジンだ。フロイトの無意識は本来ラカン的な解釈では相当な射程になるわけだが、一般的な解釈としては大したものではなかった。意識出来ないものが無意識なわけだが、フロイトや近代人が意識出来ないだけでアジアやアフリカの芸能人達にとってこの程度の精神領域はそれほど意識出来ないものではなかったのだ・・・
芸能の宇宙は常に増殖し続けている。タマフリは永遠と刹那を含みながらどこまでも増殖し続けているこの中で永遠と刹那の中で遊び続けられるものこそがジャレメであり、マレビトなのだ。芸能のオリジンとはこれを捉えたものをいう・・・

井筒やエラノス精神をベースにして発生する
メタ芸能は古代心性と民俗心性とその分化理法の全てを通過せねばならない。

我々はオリジンを捉え、メタ芸能として解き放つ時が来るまで あの精霊の来訪を待たねばならんのだ・・・。

漫画学と萬画學と それから十二階漫画とアニメと 元型のアニメとチューリングパターンと

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デジマ様 コメントありがとうございます。


さて漫画教師ですが、私は 漫画全体に対する知識は、持ち合わせている方ですが、漫画教育となると大雑把にしか認識していないのが現状です。

漫画学と呼ばれる学問はあるにはあります。スコットマクラウドのものが有名で、一般的に漫画研究のバイブル扱いされているものです。

ただこれが漫画教育に活かされているか否かは疑問です。

寺山のところにいた高取英氏等はラディカルな漫画評論家のひとりではありますが、あくまで批評であり、漫画教育からはズレると思います。

こうしたラディカルな批評家が捉えてた漫画の構造を教育に活かせる教師がいるならばそれは漫画教育として高い水準になりうると思います。

漫画教育で一般に有名なのは小池一夫の教育と言えますが、どうでしょうか、おそらくはデジマ様が望まれているようなものではないように思います。ただ小池一夫の子連れ狼は後の漫画構造に多大な影響を与えた事は確かでしょうし、極めて日本漫画のアイデンティティーを確立させる土台になった筈です。 ~確かマシリト博士(鳥嶋)もそのような事を言っていたような気がします。


日本の漫画教育はおそらくはトキワ荘においてもそうだったように他のアジア・アフリカの古典芸能、伝承芸能の全てがそうであったように感染教育法が基本となっており、そこには高度なアナロジーとサトルボディ感覚をベースとしたいわゆる態言語が存在していました。このワザ言語と申すものは、アナロジーを駆使した指導法のため、何と申しますか共同幻想により共通のアナロジー感覚、サトルボディ感覚を強く持っていた前近代社会においては(前近代の名残りが残っていた60年代~最後の灯火となる80年代前半まで、これはインド芸能におけるガマカの分析から導きだされる。)非常に有効に働いていたわけですが、現代においてはやはり難しいように思います。


私は現代漫画の構造発生のオリジンに田河水泡と小生夢坊を考えています。

~北澤楽天や一平も重要だとは思いますが~

そして田河水泡先生の背後にはダダがあり、夢坊には未来派の影響があり、それらダダと未来派に浅草に集積した漂泊芸能の構造がシンクレをおこしたのが田河先生や夢坊の漫画構造であったと言え、日本漫画の基層であったと言えるでしょう。 また現存する日本最古のアニメとされる~なまくら刀~もこういった浅草十二階ムーブメントから産み出されたものだったわけです。

漂泊芸能人が伝えたものは、のぞきカラクリや紙芝居、立ち絵、マジックランタン、そして絵解きといったものです。

60年代ガロやコムにより原初回帰と漫画実験の両極が同時に行われたのも重要でしょう。そして永島慎二を中心としたガロ作家がアングラレコードクラブに多大な影響を与えた事はJpop発生の背後に実験漫画があった事になるわけです。

漫画学においては美術史のライフインデキスに漫画があるような捉えられ方さへもされいますが、私も同感です。漫画は元来コメディアデラルテ的な存在にして、昔話や神話のライフインデキスと捉えられた笑話と世界各地の元型、シンボルの表出の直系の子孫にして、その蘇りとも捉える事が出来ます。


殷における甲骨文字や金石文等の漢字の元型も漫画表出との関連が示唆されています。

何よりも重要なのは、これは結局、芸能全体の基層の基層と言えるわけですが、いわゆるチューリングパターンや幾何学模様が古代芸能のASCの中から自己表出され、これが洞窟芸能のライフインデキス的な洞窟壁画として結実していった点にあるように思います。

更にこの原初の思考の絵画はかつての秘密結社の創造神話の源にもなっていったものです。

ラディカルな漫画教育というのは、こういった全てを捉えてはじめて完成すると言えるでしょう。

漫画、もしくは石ノ森のいう萬画は、やはり様々な芸能のライフインデキス的な構造を備えうる可能性を持っていますし、
現代日本のカウンターカルチャー、サブカルチャーの中で最も多くの古代心性を含む芸能であると謂えます。

我々も萬画の行く末を見守っています。

愛の保存、ヌミノーゼの保存、神の保存、芸術のオリジン、東洋美術の基層、洞窟の芸術、エラノスの根源、怪物としてのイサドラ、

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デジマ様、カワサキ様コメントありがとうございます。


絵画の場合、古今東西全ジャンルの基本となる。零の絵画というものがあるとするならば、それは洞窟壁画や動産芸術、岩陰彫刻といった旧石器時代の芸能を捉えたところから可能になると謂えるでしょう。この事を本当にラディカルに捉えたのはおそらくはバタイユ位ではないでしょうか?彼はラスコー人~マネまでを語り、絵画の本質を語りました。またスペインの中に東洋性を発見しています。
ラスコー人の中にあらゆる絵画に通低する基層を発見し、マネの中に主題を抹殺するというモダンアートの発生をみたわけです。

ただこうした射程までを含んだ実践的な絵画教育、美術教育は残念ながら知りません、思想やラディカルな学問が捉えたそれが実践教育におりてくるにはまだまだ時間が必要なような気がします。


さて、ラスコー人の洞窟壁画を知るには、アボリジニーやコイサンのロックアートも知るとよいでしょうし、ルロワグーランやブルイユ神父による先史芸術研究も知る必要があるように思います。またその他のアフリカやオセアニアのいわゆるプリミティブアートも助けになると思われます。


またこういった事への射程を総合的に持っていたのは、やはり岡本太郎や宗左近でしょうか、


太郎の中には上述のバタイユ理論やマルセルモース、それからエラノス最大の巨人エリアーデの理論が注がれていますし、太郎の父はストーリー漫画の真の祖である岡本一平です。


またエリアーデの中にはスラヴィク経由で岡の秘密結社とマレビト論、すなわち岡は折口信夫の理論を自身の人類學的な理論の基本にしたわけであり、エリアーデの中には折口信夫のマレビト論が岡~スラヴィクという流れで注がれているわけです。


太郎は世界各地の仮面芸能に使われるマレビトの仮面の眼を自身の絵画のまさにアクシスムンディに据えました。このマレビトの仮面もあらゆる芸術の基層にあるものと考えて良いですし、

このマレビトの芸能と連動する形で神話や昔話、すなわち物語の元型が発生してゆきました。

漫画のストーリー創作のベースにはこういったマレビト達の物語がある事は、一つおさえておくべきところでしょうか


ここから折口信夫は貴種流離譚や聖なる水の力で再生させる神の嫁の物語という。最も元型となる話を抽出してゆきます。漫画の多くもこの元型を基層にして書かれています。例えば藤子作品の大半は貴種流離譚やマレビト論で説明がつきますし、仮面ライダー、スーパー戦隊といった石ノ森作品もマレビトや仮面芸能の直系の子孫ですし、その先行作品となる月光仮面、七色仮面、ナショナルキッドそれからウルトラマンやゴジラもマレビト的な存在として物語を動かしてゆきます。

また近代的な仮面ヒーローの元祖の元祖と考えられるのがアラカンの鞍馬天狗でして、全ての特撮ヒーローの源といっていいでしょう。アラカンになると映画の本質も見えてくると思われます。そもそも日本漫画のルーツと一般に言われる鳥羽僧正の戯画も映画的な思考とのリンクがよく言われていますし、手塚も映画的な手法を漫画の中に取り込んでゆきました。キートン、ロイド、チャプリンの肉体も胸叩き的な肉体とシンクレさせていったのがアラカンで、キートン、ロイド、チャプリンのベースにはコメディアデラルテがあるわけです。

特撮技術そのものは円谷やキングコング、ロストワールドそれからコナンドイル等にも繋がりを持ちますし、円谷作品はアニメクリエーターにも多大な影響を与えています。

聖なる水の力で再生させる少女(神の嫁)の話を現代的に蘇らせたものの代表は意外ながらドラゴンボールです。ちなみに聖なる水の力で再生させる少女の話は折口信夫により死者の書として描かれました。

龍とはそもそも水の聖なる力がヒエロファニーした存在であり、その聖なる水は世界や死者を再生させる力をもちます。そしてその再生させる力を操るのが少女が発明したドラゴンレーダーという事になるわけです。

西遊記もまた桃太郎やラーマーヤナとの繋がりや神仙思想との繋がりを持った昔話ゆえに深い射程をもちます。浅草十二階最大の芸能人であった辻潤にも多大な影響をスティルナーやロンブロゾーと並んで与えた物語でもあります。

またアメコミからの影響も鳥山は大きく、鳥山ワールドの基本はDrスランプの初期に確立されたと考えられています。またドラゴンボールの後半にGLAの思想がある事も一つ注目に値するでしょう。まあこれはアニメオリジナルの発想でしょうが、

後は中華武術、この源には水滸伝があります。水滸伝こそあらゆる中華武術を集大成する物語です。またダヌルヴェーダの影響も中華武術関係では思考する必要はあるかもしれません。当然そこにはケーララの基層の身体性があり、ブータやテイヤムとの関連も生まれてきます。

折口信夫のマレビト論を考える時にロンブロゾーの犯罪心理学、犯罪人類学、天才論、パトグラフィーは極めて重要でしょう。特にアタヴィズム論は一つの核となると謂っていいでしょう。このアタヴィズム論から考えるならば現在天才と認識されている天才の大半は天才などではありません、天才というのはもっともっと古代的な存在であり、それでしか有り得ない存在です。現在一般に認識されている天才は資本主義や世のモラルセンス、神智学がいうところの時代霊的なるものと
たまたまあっただけに過ぎないでしょう。

絵画の基本として水墨画や書、日本画、大和絵はやっておくと良いでしょう。日本画教育の源には岡倉天心がいるでしょうが、何よりも私は竹内栖鳳の中に日本画の基本を見ています。それは魯山人の総合芸術の美的原光景となったものです。また金沢の民俗料理や田螺も魯山人の源として注目すべきものでしょう。

天心の基層には茶から日本の美を思考する方法があった事はご存知の事と思われます。
また日本美術は元より東アジア美術の基本にある精神こそ気韻生動と呼ばれる対象の生命力を描く力で六法の最も基層にある運動と考えられています。
インドのラサ理論の精神は東南アジア~南アジア美術の基本的な精神にもなってゆきました。雪舟や等伯からは禅の核となる運動を実感してゆく事が出来るでしょう。


また柳宗悦の民芸運動は日本人にとっては、あらゆる芸術の、芸能の原点の一つであると謂っていいでしょう。宗悦は大拙からの影響もあり、間接的にはスウェーデンボルグやギンズバーグ等のビートニクス詩人との関連も出てきます。

思えば、私は元々、日本画や書画、水墨画に囲まれて幼少を過ごし、客人には浪花師、落語家といった寄席芸人が数多くいました。今となっては伝説的な名人達の芸を本当に身近で見る事が出来ました。また日本漫画のオリジンにして、大正ダダ、浅草十二階芸能の中心人物の一人であった田河水泡先生も我が家をよく訪れた名人でした。祖母からは折口信夫古代芸能学のドローンと申してもよい日想観を学び、鈴木大拙によりエラノスの会議の要の芸能にまで昇華された妙好人の思考も学びました。祖父からはオキナガやカジリ法といった古神道、
神仙の思想を学んでいたわけで、何やらこのあたりの事は私にとっても原点になるわけです。フロイト的な解釈をするならば幼少児の情動や思考の発生は、全く私にとっての古代であり、それは古代人の情動や思考の発生とパラレルで連動してゆくわけです。

デジマ様の漫画道を予祝致します。










さてカワサキ様、武田梵声門下がすべき芸能ですが、基本的にはやりたいようにやってくれればいいと思っています。
皆それぞれのニーズを叶えるために私の研究所に通っていますので、あくまでも生理の解放と芸能の古代心性を捉えたら、後は好きなようにすれば良いわけです。生理解放前や古代心性を捉える前は、極論何もしたくなければしなくてもいいと思っています。

そもそも芸能の本質は、まあハリダースのように自然や神に向けて歌う事であり、太陽に向けて歌うタマフリであり、大地を再生させるヘンベであり、インイロテンポーレへ回帰させる籠りにこそあるわけです。

まあ、あえて芸能学的にどのような芸能をすべきかと謂うならば上記のような芸能を捉え、超芸能の発生を目指すべきだと考えています。これこそ折口信夫古代芸能学~エラノスそして浅草12階芸能の目指す至高の芸能です。


ですので具体的に謂うならば漂泊芸能を学びそれをある意味でのアバンギャルド芸能へと昇華させてゆく事でしょうか、

またはじまりの芸能、マレビトの芸能、漂泊芸能、アフリカ的段階の芸能、古代芸能、等々の芸能のオリジンを真に捉えたならば極論全ての芸能はこの芸能のオリジンが芸能分化理法により古代~中世~近世~近代と世界各地で無数の芸能を発生させたものである事を実感するでしょうから、そうなれば各芸能を最も根源の場で表出する事が出来るのです。

AKBやモーニング娘を歌う場合も旧石器時代人や縄文人の流動と浸透の運動が思考や情動の根源の場で行われていなければならないわけです。

ただ芸能の根源の場から最も遠ざかったのはこうしたポップカルチャーよりもむしろ19世紀西ヨーロッパ的なハイカルチャー芸能ですが、こうした思考や概念の発生もボードレールといった極めてラディカルなデカダン詩人の中にあったものでした。また19世紀西ヨーロッパ的なハイカルチャー芸能の代表であるグランドオペラやハイカルチャー的な面を持ったミュージカルなども元々はナポリ俚謡やミンストレル、ボードビルといった漂泊芸能から発生してきたものであり、その段階の力を自己表出する事でハイカルチャー化により腐敗した芸能も再生させる事が出来るわけです。要するに12階芸能のライフインデキスであった浅草オペラのようにです。田谷や原信子や清水金太郎、
藤原義江の中にもハイカルチャー的な精神やベクトルはありました特に原信子はそれが強かったが、しかしながら彼らのなかには浅草的な漂泊芸能の力も他のどの芸能よりも大きく働いていたためあれだけの怪物になっていったわけです。










アクシスムンディも愛もヌミノーゼも唯一神も全部 無数に顕れるのだ。 その事を理解出来ないものは、やはり腐ったヌミノーゼの中におるのだろう。 そして腐ったヌミノーゼも腐った愛ももやは愛でもヌミノーゼでもないのにそれをそれだと誤解していつまでもしがみつこうとするのだ。ただいつまでもしがみつき抜く事で愛もヌミノーゼも再びヒエロファニーする場合もあり得る事だ。もちろん加減を誤れば腐敗しっぱなしなのは謂うまでもない。


愛の塔はそれ一つで宇宙の中心にして未来と古代と今の全てを含むものだ。


だがその愛の塔は現界の視点から見た時には無数に建てる事も可能なのだ。すなわち我々の目からすれば世界は無数に存在する事になるが、それで構わないのだ。


恋愛共同体はボードレールも菜食主義者もユウランも折口もヒッピーもフウテンもアナキストも皆が試みたものだ。 この菜食主義者の共同体と恋愛共同体というものは、我々に多大なヒントを与えてくれる事になるだろう。私は菜食主義者ではないし、菜食主義は食の本義から考えるならばやや浅はかな思想ではある、だがこの思想を源としながら、我々が基本とし、目指すべき超芸能を発生さすための超芸能思想は後に花開く事となるのだ。


愛を保存するのは、ヌミノーゼの保存に近い、そしてそれは腐る だが永い時を経る事で時間による沸騰により愛は再び 新たな形と光りを取り戻す。それもまた 美しいものだ。

ロマンティックラブイデオロギーとモノガミーを規範とした社会に生きている以上、我々はその矛盾に葛藤するのは仕方のない事かもしれない。ロマンティックラブイデオロギーもモノガミーもその根源においては芸能や変容と密接な関係を持つが、やはり解体せねばならない思考と情動である。

我々はオノマトペの中に思考や情動、言語が交錯した根源的な力をみる事が出来る。折口信夫もアルトーもロシアフォルマニズムも未来派もダダイストもこの力に魅了されたのだ。

オノマトペと伝承童謡を交錯させてゆく事で我々は芸能のひとつのオリジンを観る事が出来る。 演技の基本とはまったくオノマトペの中にあるのである。

死者の書は、まったくいまもって至高である。この中には古代芸能~芸能分化理法~メタ芸能、オノマトペ、アナロジー、洞窟の芸能~映画的表出、夢遊病、 死霊、マレビト、籠りの至高としての日想観、そして原初の恋愛があり、原初の物語の構造さへもが組み込まれている。それからあらゆるモノが交錯した存在としての珊瑚が象徴的に描かれている。

マレビトは、天皇陛下とホカヒとジャレメをその語彙の含蓄として捉えてゆく事で、そのフォルスは無限に解放されてゆく。

やはり我々の至高はどこまでもマレビトという語彙の中にある。要するにそれをどこまでも深く捉え、実践に立ち上げられるかなのだ。超芸能というのもやはり超マレビトというべき存在によってなし得るのだ。

我々は2年前に折口信夫に唾をかけた。 そしてこうも言った・・・折口信夫は再びとてつもない怪物として復活するであろうと

今まさに折口信夫はとてつもない超芸能獸として復活する時に来ている。

エラノスの根源にいたのも折口信夫であったのだ。

我々はロンブロゾーのアタヴィズムを通じて辻と折口が結ばれてゆく事を知るだろう。

また折口からエラノスまでの基礎にいたのがミトラ教の密儀でありユリアヌスであった事を捉え直してゆく必要がある。

そして我々はエラノスの根源にへと入ってゆくのだ。我々はここで至高の自在な肉体に出会う事となる。また菜食主義というものをもう一度思考し直す事、それから地母神の思考を捉え直してゆく事が必要になってくるイサドラもまた怪物として蘇り、ブラヴァッキーもまた新たな姿で復活を果す事と思われる・・・

ボイストレーニングの未来 究極のボイストレーナーである~夢遊病のボイストレーナーとは?~ チェザリーとネオslsとは?

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ある統計によると世の中全体で最近はボイストレーニングを受けたいと思う者の数が減っているらしい。 ボイストレーニングの認知度は上がっている らしいが、これはボイストレーニングの紹介動画がネット上に氾濫しているのが原因と考えられているようだ。


それにより多くの者が「ボイストレーニングなんて検索すれば出来るし、」と思っているらしいのだ。

まあネット上に増殖しているボイストレーニングを良いだ悪いだ 言う事自体がもはや意味がないが、


基本的に声の学習者の多くは自身のリテラシーの無さと、耳と感覚の悪さを疑った方がいいように思うのだ。

ボイストレーニングというのは、声の前に先ずはそこを変えねばならない。

要するに脳や思考のパラダイムシフトがなければ声の変容も中々に難しいだろう。

19世紀型のボイストレーニングと17世紀型の訓練の差異さへ分からない者が世には溢れかかえっている。

それは結局は非科学的かつ芸能破壊のモラルセンスを世に増殖さす事に繋がる事にさへ気づいていないのだから残念だ。

結論を謂うならばネット上に増殖した非科学的なミックスボイスやその他もろもろのボイストレーニングなどでは声の変容は起こりえない。もし起こったとすれば、その者が偽りのミックスボイスの根に僅かに残存するやもしれないプレミックスボイスすなわち19世紀に改変される以前の17世紀型レジストレーションを発見出来るほどの優れた夢遊病の耳を持っていた可能性がある、もしくは声の変容は単なる勘違いだ。


私はそもそもボイストレーニングという語彙が嫌いだ。またボイストレーナーという語彙も嫌いだ。便宜的に上記のタイトルや肩書きも使うが、このあまりにも浅はかな概念に塗り潰された語彙が何とも言えない気持ちにさせるのだ。


そもそも発声訓練教師とはフースラーとその周辺からしか顕れようがないものなのだ。

後はボーカルトレーナーすなわち歌唱モラルセンス教師である。世に溢れている自称ボイストレーナーの大半は歌唱モラルセンス教師であるという事を知るべきであろう。

いわゆるsls協会系のボイストレーナーというのも一部のチェザリーの射程に気付いたネオslsと呼んでいいボイストレーナーを除いては、基本的には同じだ。

そもそも19世紀型のボイストレーニング自体がかなりの部分が近代的なモラルセンス訓練であり、声の野生に働きかけるものではないからだ。slsの大半もこの19世紀型やアメリカショービジネスのモラルセンス教師になっている場合がほとんどであり野生を聴けているものはほとんどいないのが現状であろう。

ただし、以前の記事にも書いたようにsls協会系ボイストレーナーの中からチェザリーの真の射程やあのカリフォルニアの地におこったムーブメントの射程にも気付きだしている謂わばネオslsが発生しつつあり、それこそはチェザリーをフースラーに匹敵するものとして高められる可能性があると申していいだろう。どちらにしろ従来型のslsは解体してゆくべきだ。あなた達の大好きなアメリカショービジネスの歌い手達があの従来型のsls訓練で育ったと考える事自体が大きな間違いだ。彼等を育てたのは、民謡だ。俚謡だ。ビッグビルブルンジーの思考が辛うじて生きている事だ。それはアメリカの地が未だに若者たちからもハリースミスコレクションが聴かれている事と関連するだろう。また、いまやレジェンド化している例えばアレサフランクリンやオーティスレディングそれからJB
といったリズムアンドブルースのパイオニア達の時代には今よりも遥かにアフリカ性はアメリカに残っていた。もちろんテキサスアレキサンダーほどのアフロ性はそこには無いのだが、もしくはアパラチアの民謡やボーディソングやボーディブルースもこういったモラルセンスにまさにソウルを増殖させるための原動力になっていたのだ。


(そもそものところでチェザリーの射程はフースラーに劣るものであった。17世紀的な西ヨーロッパの中にあるアジア段階への射程がチェザリーとリードのものであり、フースラーはそこを入り口にしながらももっともっと深い段階、それは旧石器時代をも突き抜け言語獲得以前という段階。ある意味でアフリカ的段階以前の段階にまで到達しているのだ。それは民謡研究の射程と見事に合致する。というよりフースラーはヘルダーやシャープ、ザッグス、ロマックスといった原初の民謡、俚謡の思考をその発声学の中枢に呑み込んだのだ。リードとチェザリーにはこの芸能の核が抜け落ちたがためにアジア段階に止まってしまったのだ。
しかしながらチェザリーはアメリカの地とシンクレをおこす事でアフリカの俚謡を呑み込みだしている。チェザリーがアフリカを呑み込む事ではじめてチェザリー学派はフースラーに匹敵する射程を持ち出してくると言える。)



真のボイストレーナーと謂うのは

~夢遊病のボイストレーナー~である

面白い事に折口信夫の思考や文体もかつて

~夢遊病の文体~

と呼ばれた。

至高のボイストレーナーと謂うのは

トージ、マンチーニ、カッチーニ、ポルポラ、マンフレディーニ、ミクシュ

といった17世紀型のボイストレーナーであり、フースラー、チェザリーが理想としたのもこういった面々であった。


これらのボイストレーナー達が使った態こそが野生を聴くという態である。


その野生を聴く力こそが~夢遊病の態~なのである。


モラルセンス教師は野生ではなく、モラルセンスを聴く事になるから結局、生理の解放を行う事は出来ないのだ。

私はこれまでにも多くの芸能教師に諸々の芸能指導法の教授を行ってきているが、フースラー発声学や折口信夫古代芸能学の全容が伝わるところまで指導出来たかと問われれば、中々に難しいところである。

それほどにこの全容を把握した教師を育成するには時間と根気が必要である。

私はこういった芸能教師や発声訓練教師を育成するための専門のコースをオルフェ芸能研究所のコースとして設けようと考え出している。

またこうしたラディカルな芸能訓練が世に拡散していかない最大の原因は諸君達や私自身にあると言えよう。それは何よりも我々がある種の浮世離れした存在であるという事だ。

ラディカルな思考や芸能に興味が向くようなものの大半はそういった傾向がある。だから積極的にそういったものを世の中に拡散させようとはしないし、むしろ隠そうとすらする。芸能の本質は確かに秘技にある。それゆえにその段階はそう簡単には見えないものだ。


だが、ここらで我々は3万人の変容を目指してゆくべきであろう。


芸能教育を根底から覆すためには3万人の変容が必要だ。

そして芸能教育を根底から覆す事が出来ないならば芸能に未来はないであろう。

すなわち演技術ならばスタニスラフスキーをぶっ飛ばしてアルトーへ回帰させる。

舞踊、ダンスであるならばデカルト的な肉体をぶっ飛ばしてイサドラ以降更には土方巽や大野一雄の零の肉体へ回帰する。

歌唱モラルセンスならばグランドオペラをぶっ飛ばして浪花節や都々逸、書生節に回帰させる。

ボイストレーニングならばガルシアをぶっ飛ばして17世紀型を捉えフースラーへと回帰させる。

漫画ならば手塚に付着したハイカルチャー臭をぶっ飛ばして田河水泡と小生夢坊を蘇らせる。手塚はそもそも漫画をハングリーアートと呼んでいた。手塚をハイカルチャー化させるのは、そもそも手塚の意図に反する。


瞑想ならば即席禅や即席ヨーガ、即席ヴィパサナーをぶっ飛ばしてアフリカ、オセアニアの籠り、すなわちキアーやインティチューマへと回帰させる。まあ神智学やエソテリスムの脱構築という事になるだろうか


美術ならばルネッサンス以降の具象絵画をぶっ飛ばしてラスコーや縄文土器に回帰してゆく

あらゆる芸能はラスコー人、縄文人、漂泊芸能人、すなわちマレビトから始められなければならない。

マレビトからみる芸能教育、すなわち~真感染教育~もしくは~超感染教育~が行われていかない限り、芸能に未来はないだろう。

ボイストレーニングというのも本質的にはマレビトの声を捉えるところからのみ発生しうるのだ。

かつてジャックスがハマクラサウンドをぶっ飛ばしたように、我々も何かをぶっ飛ばす必要がある!!!


ぶっ飛ばす対象が無くなったものは、やはり軟弱になる。我々は最終的には腐ったヌミノーゼや腐った愛をぶっ飛ばしてゆくつもりだ。

そして列島人は池田弥三郎がいうところのかつての芸能民族になるのだ。

全列島人はかつて芸能民族であったのだ。それは明治、大正、昭和初期までの大衆の声や肉体を聴けば、その残り香がある事がわかろう。

奥三河の霜月神楽やナマハゲの岩波映像を観るならば、その圧倒的な芸能力が解るだろう。我々はこの古代タケビゴエを喪失したのだ。肚から聲が表出するというのは、こういうのを謂うのだ!!!

この肚から聲を出すを近代人が軽々しく使うべきではない。まあカスの極みである腹式呼吸と混同しているものがほとんどなのだろうが、

この肚から表出される聲というのは、文字通り、神や妖怪に変容せねば表出されないものなのだ。
このサトルボディを生々しいまでにセネストパチー化さす作術の中でしか肚は我々の中にヒエロファニーされんのだ。

神や妖怪というのは、信じるべきもの以上に我々がなるものなのだ。


芸能革命はマジョリティからは決して生まれない。マイノリティの共同体が沸騰する事で芸能革命は起こるのだ・・・芸能がこのままでよい筈がない・・・先ずは夢遊病の耳と思考を我々芸能教師が持つべきだ。


最高の芸能教師とは?最高のボイストレーナーとは?夢遊病の芸能教師であり、夢遊病のボイストレーナーなのだ!!!







武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

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ケレーニイ再考

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エラノスの怪物と呼ぶべき存在は、何人かいるものの、そのあまりの力からエラノスを追放されたものがいる。そのエラノス最大の怪物がカール・ケレーニイである。ケレーニイは我々にとっても非常に要となってくるASCの源となるバッコスの芸能を生々しい形で復活させているのだ。井筒哲学の源、古代ギリシャ哲学の源もここにある。またシュルレアリスムやロシアフォルマニズムの根源もここにあるのだと言えよう。そしてプロティノスとミトラの秘技が交錯してゆく所にまで行き着く。
我々は今またケレーニイの思考を甦らせねばならない・・・


ウコン様、ご質問ありがとうございます。
顔面神経と喉頭の神経には繋がりがないため、基本的には表情をどうこうしないと、声が出なくなるとか、音が下がるという事はありません、 ただし場所が近いため、初歩的段階においては表情筋の影響を受ける事もまた確かな事です。例えば微笑の構えは声門を閉鎖する筋肉を強める可能性が高い事が確認されていますし、いわゆるラッパ口は喉頭を下方や後下方に引きやすくなる現象は確認されています。 ただし喉頭内外に神経支配がゆくならば こうした事をわざわざしなくても喉頭内外の筋肉や咽頭筋群はほぼ自動的に働いてくれますので、表情筋をどうにかしながら声を導く方法は初歩的段階におけるあくまでヒント程度の役にしかたたないでしょう。また大半の教師は

微笑は良い声が出る。目を見開くと良い声が出る。縦に開くと良い声が出る。等々というように表情筋と実際に出る声との因果関係が曖昧な場合がほとんどです。良い声と謂うのはそもそもがモラルセンスの問題になるわけです。生理的段階とモラルセンス段階の線引きは持つべきでしょう。

夢遊病のボイストレーニングの選び方。芸能変容のオリジン。芸能教師の選び方。テクノ、ハウス、トランス、クラブカルチャーの変容性

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ゆたちん様、カワサキ様、コメントありがとうございます。


ゆたちん様、大変申し訳ありませんが、私の方では基本的に本の在庫管理をしていないため、その辺りの状況が不明ですが、手に入りにくい状況にある事は伺っています。また何か情報が入りましたら、ブログにアップしたいと思います。また詐欺サイトの情報もありがとうございました。






カワサキ様以下がコメントへの返答ですが、やや本文と交錯気味でコメントへの返答からやや逸脱する感じもありますが、大枠は答えていると思います。





存在そのモノが芸能になるというのは、極めて重要ですね、それから神や悪魔になるという事も、


そもそも芸能の目的は人が神や悪魔や妖怪や精霊もしくは怪物に変容して、世界の破壊と再生を行う。または真釣り合わをする事が目的でした。それ結えに世界各地の原初性を残す芸能は冬至または夏至に集中しているわけです。


真釣り合わせはタマフリやヘンバイ、インイロテンポーレの態、それからサクリファイスにより成されてゆきました。


脳の変容から考えてもタマフリは報酬系の物質に関係するでしょうし、サクリファイスは懲罰系に関連してゆくでしょう。インイロテンポーレやヘンバイは両方に跨がっていると言えましょうか


かつて小沢昭一は芸能の本質は門付け芸・大道芸(すなわち漂泊芸能、巷間芸能)にあり、 それは祝う芸と祓う芸に分かれ、これらを併せてシュクトウ芸の語彙で括っています。 祝う芸には万歳、大黒舞、春駒があり、祓う芸には人形まわし、琵琶法師、祭文があるわけでます。
そして芸能の一番の要を万歳と考えました。万歳の元型である千秋萬歳が翁舞いのエッセンスであった事も考えるならば万歳の射程の深さというものが見えてきます。そしてその背後にいた神が漂泊芸能の神である守宮神そして天白であると言えるでしょうか

万歳の芸能人はいわゆる声聞師ですが、この声聞師の元型と申してよいのが、コンクです。

こうした流れから、各地のご当地万歳が発生し、玉子屋円辰、砂川捨丸やエンタツアチャコ 、ミスワカナ等が出てきて現在のビートたけしを頂点とするショービジネス型の漫才 にまで繋がってゆくわけです。

たけしの師匠の深見千三郎はコントの人で俄色の強い人でしたが、浅草最後の芸能人と言われた人で至高の十二階芸能の最後の残り香を放つ芸態であったと言えるでしょう。

かつてビートたけしはパンダを芸能の究極だと言ったが、ある意味においては、そうでしょう。

ビートたけしの語ったその理由は、動物園で寝ている動物のほとんどに人だかりは出来ないが、パンダだけは寝ていても人だかりが出来る。ゆえにパンダが究極であるという事です。



大半の人だかりの出来る動物は、何らかの動きを伴うものが多いわけですが、パンダだけは何もしなくてもその存在だけで客が集まるわけです。


まあパンダは熊ですから、かつて熊は芸能の王であり、王権や神の根源も熊に
あったと言えます。アイヌのイヨマンテや獅子舞の源流の一つとなるツングースの熊の仮面、北アジアの芸能は熊の身体性や音声を模倣してゆく芸能も沢山あり、そもそも瞑想やシャーマニズム等の元型である籠り態の更なる元型もクマリと申して熊の冬眠にあると考えられています。

まあそういう意味においても中華熊でありますパンダの中に芸能の一つの根源を見るというのはあながち間違いではないように思われます。

そもそも神話時代、神代の世、において動物や植物は神や精霊そのものでした。そうした動物神の王に蛇や熊がいたわけです。

北米においてはワタリガラスやコヨーテも重要視されましたし、オセアニアではクジラやシャチ、イルカも重要視されました。またインド・ヨーロッパの古層には牛がいたわけです。ディオニュソス、シヴァ、スサノヲの基層に牛への信仰をみてゆく説もあります。アフリカは蜘蛛と兎のトリックスターが重要視されてきました。

そして植物への信仰もまた鍵になってゆきます。世界各地のアクシスムンディ信仰もそことの関わりは濃厚です。またトテムの信仰やライフインデキスも、折口信夫の民間信仰における他界観念の要にあった思考もライフインデキスによるものでした。

植物性というのは三木成夫のラディカルな生理学における要にもなり、身体性の至高というものもそこにおかれます。もしくは野口三千三のように液体、水においてゆくわけです。


更に植物でもあり動物でもあるあらゆる生命や宇宙、思考の根源を表出する生命に粘菌がおったわけです。南方熊楠は粘菌想観とも言えそうな籠り態から南方曼陀羅そしてあらゆる思考の根源としての萃点を発見してゆくわけで
す。


万歳の源には陰陽道もあるわけでコンクはそもそも下級陰陽師だったわけです。日本の民俗信仰や漂泊芸能、民俗芸能の根幹をエソテリスム的なロジック化する上で陰陽道、陰陽師は非常に重要な働きをしてきましたし、中山みきや出口なおといった新宗教の発生には陰陽道がありました。まあ山伏もそうですが、山伏の野生を取り出すと山人がおり、ロジカルな部分にはやはり陰陽道があったと言えるでしょう。

漂泊芸能の更なる基本に万歳があるとする小沢の考えは重要でしょう。それはホカヒヒトの精神を色濃く継承していたからだと言えるわけです。





さて、神や悪魔や妖怪や精霊になる事はそもそもの芸能の目的なのですから、成る事はさほど難しい事ではありません、
これら全てを総括する根源神と言ってもよろしいのが折口信夫が取り出したマレビトになるわけです。


神や悪魔になるための基本は、やはり籠りになります。これにより報酬系、懲罰系を活性化させ、ASCの値へと向かいヌミノーゼに触れてゆく事が重要です。

これは、瞑想や催眠でももちろんよろしいわけです。瞑想や催眠は籠りから発生したバリエーションになるわけです。

これを補うもしくはここに導く手法に 太鼓があります。コアシャマニズム的な考えでは毎分200パルスの太鼓の律動を浴びる事がASC化への基本となります。 また20キロヘルツを超えるハイパーソニック領域の音響も脳内の血流を高める効果が確認されています。基本的には西洋楽器よりいわゆる民族楽器の方がそれは濃厚に顕れます。

民族社会においては、サイケデリックスももちろん効果的に使われてきましたが、我々は酒か煙草位が公に認められているものになるわけです。後はベニテングダケがソーマ的な飲み物である可能性もありますが、これも飲み方を知らない近代人にとっては危険度は高いでしょう。

後はサイトシーイングを避けるために呼吸法が重要になってゆきます。


呼吸法も現代では吐くものが主流ですが、古くはネワール人やアナパナサティや古代大和の籠りのように吸気を重要視するもの、それからハタヨーガのプラーナヤマのクンバカのように保息を重要視するもの、井上正鉄や白川神道のオキナガのように呼気、クンバカ、吸気の真釣りを重要視するものと様々ですが、そのどれもが脳肝や脳間を活性化させます。


サイトシーイングしやすいものではありますが、我々は近現代におけるこうした変容性の強い芸能にテクノやハウス、トランス等といった芸能、クラブカルチャーにも注目する必要はあるでしょう。クラブカルチャー間連者の多くは変容も浅かったり、深く変容してもサイトシーイング的であったり、無意識が意識に浮上してきてもそれをロジックや態化出来ない者も多いように思いますが、ただこれは他のジャンルにおいても同じと言えば、同じでしょう。シャーマニズムや瞑想には既にそれなりの
思想が付着しているため、はじめからそうした意識の者が集まりやすく、クラブカルチャーも本来はアングラブラックカルチャーやヒッピームーブメントの継承といった形からエクスタシーなどのサイケデリックスを軸としながら発生してきたものだったのですが、クラブカルチャーは70年代以降の思想なき思想の影響もあったがために表面的にチャラくなっただけといった方がよろしいように思います。(まあチャラさは大衆芸能、ポップカルチャーの重要な要素でもありますが、変容によりヌミノーゼありきのチャラさか、ヌミノーゼなきチャラさかが、まあ重要になってきます。) 後は商業主義の介入は何よりデカイ痛手でしょう。
もちろん60年代以前の芸能の方があらゆる面で変容性という点や古代心性、原始心性の点で優れてはいますが、






我々は夢遊病のボイストレーニングが如何なるものかを明らかにしてゆかねばなるまい。それは夢遊病の肉体訓練。夢遊病の情動訓練。夢遊病の思考訓練。夢遊病の言語訓練・・・とあらゆる芸能教育は感染教育にして夢遊病の芸能教育でなければならない。


夢遊病のボイストレーニングとは野生を聴く事から始まる。それは美の外にあるものだ。


夢遊病のボイストレーナーが現在どの位いるのか? 結論から言ってほとんどいまい、唯一期待出来るのはフースラーとその周辺後は17世紀型の訓練の系譜にいるもの位であろうか?


ほとんどのボイストレーナーというのは役に立たない。かろうじてモラルセンス教師として役に立つ位であろうか?


夢遊病のボイストレーナーが持たねばならない能力は1にも2にもレジスターに関する野生の思考である。これがない教師は駄目だ。 野生の思考と態々書いたのにも理由がある。いわゆる栽培された思考でこれを捉えていてもあまり教育には役に立たないのだ。


世にいるモラルセンス教師がボイストレーナーという肩書きで色々と語るとその間違いだらけの知識が世に蔓延する。またネット上ではろくな芸能を見聞きした事もなく、知識や能力も乏しい者が 浅はかな知識を最もらしく展開させてゆく記事が蔓延しているから、もうこれは手遅れだと言っていいだろう。 デジタルタトゥー的なものはこんな所にも増殖しているのだ。

まあタトゥーは本来は変容やトテムに関わる本質的なものだ・・・


ボイストレーナーというのは世界各地の全ての芸能を知り尽くしていなければなるまい。そういう意味において真のボイストレーナーはどれほどおるのだろうか?


芸能史的にみた時、あらゆる芸能の根源には聲があったといってよい。それもグランドオペラのようなヌミノーゼが腐ったそれではなく、 漂泊芸能人の要になった胴聲、胴間聲のような聲がシャブダブラフマンの現世的なヒエロファニーとして顕れていたのだ。どうにも19世紀型グランドオペラのモラルセンスを最高のものと考える者が世には多くて困る。 グランドオペラもモラルセンス的な顕れの一つに過ぎない。 最高のモラルセンスは別にある。全芸能の基層に蠢くモラルセンスは原始古代芸能と漂泊芸能とにあり、その要にある聲は胴間聲なのだ。 それも喉頭の位置は高めだ。


先ずは近代人の頭を解体せん事には教育は上手くゆくまい。


俳優教育も舞踏教育も漫才教育も同じ事だ。 学問もそうだ。 80年代以降の大学のテーマパーク化は拍車をかけた。


大学とはそもそも学問をやる場としては欠陥品だ。


そもそも学問とはタマの研究と変容を研究するものなのだ。 それは洋の東西を問わず本質的にそうなのだ。


折口信夫、平田篤胤、國學の根源とはタマと変容の研究であった。蕃學の基礎もギリシャ哲学にあり、その基礎もディオニュソスの変容の芸能にあったのだ。 そもそもインド哲学はその全てが変容の学問だ。


我々は重要な思考の働きである萃点や類化性能を喪失させた。



これでは学問はかつて芸能であった時代には回帰出来まい。


古代的なアナロジーを回復させるために我々はもっと駄洒落や謎々をすべきだ。


学校なんぞ辞めて、親父と親父ギャグを言い合った方が余程 思考の根源にたどり着けるだろう・・・。


グノーシスはあらゆるものを解体してゆく、現在の世は欠陥だらけの神により創造されているからそのほとんどが 欠陥だらけなのだ。 だが真の神から流出した僅な光もある・・・それを捉えてゆく事こそが籠りであり、瞑想であり、そして芸能なのだ・・・。


我々は夢や神話によりこの真の神から流出した火花を再発見せねばなるまい。

ケレーニイの思考は役に立つであろう。ギリシャ神話をディオニュソスを軸にして捉え直してゆくのだ。それは変容を我々にもたらす。

風街レジェンド Jpopオリジンとは誰か? 至高のJpopとは? 松本隆45周年から大衆歌謡の根源を思考してゆく。 書生節、民権歌謡、読売。

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武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。

フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。

そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。


フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。

これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。


現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、

それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、

~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。~

にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。

それに唯一成功したのがフースラーでした。


武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks




さて今月だったかに国際フォーラムだかで
、風街レジェンドという松本隆45周年記念コンサートがやるそうな、LAWSONに大々的にポスターが貼ってあるし、雑誌でも大々的な特集が組まれたりもしているから、知っている者も多いと思う。


私も各芸能プロダクションや集団稽古で今年は松本隆とアングラレコードクラブを軸にしながらJpop、大衆歌謡の根源を探る講義を行っている。


風街レジェンドという語彙の持つ射程というのはどこまで伸びているのだろうか? この語彙は極めて根源的なところまで射程を持っていると思うし、また持たせうる事の出来る語彙だ。


我々は真の意味合いにおける風街レジェンドを捉え、そして我々自身がそうなる必要がある。


もしも風街レジェンド・オリジンと呼べる存在がいるとすればそれは添田唖蝉坊であると言えるだろうか?


もちろん、神長瞭月や秋山楓谷・静代、鳥取春陽なんかも風街レジェンド・オリジンであろうし、民権歌謡の元祖的存在である川上音二郎や演歌壮士団(青年倶楽部)の久田鬼石なんかも含んでも良いかもしれない。


風街というのは、ご存知、Jpop的構造バランスの祖ともいうべき~はっぴいえんど~のドラマーであり、作詞家である松本隆が考えた理想的な街のイメージであり、彼の作品に通低した元型的なイメージであると言えるだろう。それは東京オリンピック 以前の東京であり、ガロの永島慎二的なビジョンを継承したものでもあった。


また寺山修司からの影響も松本は受けていた事を考えてゆくならば、この射程は更に伸びてゆくだろう。


確かに松本のそれは都会的であるが、その根源にはこうした風街的なイメージがあった事をもう一度捉えてゆく必要があるだろう。

そもそもアングラレコードクラブはJpopを生み出してゆく都会的なビジョンと後の小沢昭一の日本の放浪芸シリーズのプレと申してよい竹中労の禁歌集的なビジョンという。近代~古代、もしくは未来~古代の両極への射程があった。

高田渡や高石友谷、岡林信康、なぎらけんいち、ジャックス等にも共通していたビジョンに

こうした未来的な芸能・歌謡は

古代的な民衆的な俚謡、民謡を捉えなければ発生し得ない事を

しっかりと意識化に立ち上げていた所にあるだろう。

風街というのもこうした近代と古代が交錯したオリンピック前の東京を捉えて発生してきた思考であった。


また町田佳聲等によりねじ曲げられてしまった民謡観の復権もこの日本のフォークリバイバル運動により、成されていった事も注目に値する。それは関西フォークの中核メンバーによって成されたというよりは、むしろ竹中労や谷川雁によって成されたと見るべきかもしれない。しかしながら高田渡、高石友也、岡林信康といった面々にも民謡の根源を捉えてゆこうとする思考は間違いなく働いていたが、アメリカのマウンテンミュージックやブルースとシンクレさせてゆく方向に進んだため、ある種の肉体化は行われなかった。

もちろんマウンテンミュージックやブルースはアパラチア人やアフロアメリカンにとっては肉体化された芸能である。

我々の中でハリースミスコレクションはどのような位置付けになるだろうか?今のところ我々は美空ひばりを化石化させてしまい。小沢昭一の放浪芸能集や竹中の禁歌集を土台としない者を中心とした世に生きてしまっている

権威、権力となった美空ひばりは完全に化石となった。 我々は化石化したひばりを馬鹿どもから救いださねばなるまい!!!

我々は結局ハリースミスコレクションを持たず仕舞いだ。

我々のハリースミスコレクションである小沢の放浪芸能集や竹中の禁歌集はハリースミスコレクションを遥かに凌ぐ出来であるというのに・・・

アングラレコードクラブはフォークウェイズから多大な影響を受けた会社だったが、
結局アングラレコードクラブはフォークウェイズ以上の射程を持ったと言える。
それはやはり竹中の力によるのだ。


我々は竹中の捉えた炭坑節を捉え直し、その炭坑節のライフインデキスと満映とそれから知道とを交錯させてゆく。そこに折口信夫のマレビトを超えてゆくヒントもあると言えるだろう。


風街レジェンドは想像以上に深い射程を持っている。今こそ、我々は風街レジェンドの真の射程を捉え、真の風街レジェンドを 再生し、ネオ風街レジェンドに我々自身が目覚めてゆくべきなのだ・・・そしてオリンピックをぶっ飛ばせ!!!ハマクラをぶっ飛ばすのではなく・・・。

沖縄文化圏の芸能。芸能学の流れ。 超芸能としての十五代目市村羽左衛門 。 超芸能人論 未来芸能または未来演劇について

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武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks






ウコン様、コメントありがとうございます。

ミルク、アンガマア、これらは芸能学上、極めて重要です。要の要と言っても言い過ぎではないでしょう。そもそも沖縄文化圏の仮面の芸能、マレビト的芸能により、芸能学の基礎は築かれたのですから、
マユンガナシやアカマタ、クロマタ、シロマタ等のニイル人、パーントゥ、フサマラー、アガリノウフヌシ等々、


芸能学の発生という事からみると、この中でも特にアンガマアとアカマタ・クロマタが重要です。このマレビト芸能を見聞き(折口信夫はアンガマアは見ましたが、アカマタ・クロマタは話に聞いただけで直接見る事は出来ませんでした。)マレビト論、それから芸能学を発想してゆくわけです。

因みに世に一般的に出回っている大半の学問は欧米発祥のものですが、芸能研究に関しては、日本発、折口信夫によってなのです。

まあ、断片的な芸能研究はアリストテレスのミメーシス理論やディドロの演劇論などがありましたし、


ヘルダーの民謡研究やフレイザーを中心としたケンブリッジ・リチュアリスト
も芸能研究的ではあり、

それらを折口信夫も下敷きにはしましたが、芸能を総括的に捉えてゆく学問の発生は折口信夫からと申してよいでしょう。欧米でこうしたパフォーミングアーツ研究が始まるのは1960年代からです。またこうした概念の萌芽は欧米ではフルクサス運動から発生したと考えるのが定説になっています。


(出版という形においては、折口信夫の芸能史六講~1944年~の前に1943年の飯塚友一朗の~芸能文化論~がありますが、折口信夫が芸能学を明確に表明したのは1928年の芸能史の講座からであります。

そして折口信夫は芸能学の祖となります。あの本田安次に影響を与え、本田は早池峰神楽を発見し、椎葉神楽を発見してゆきます。更に本田は山伏神楽の体系化をも行ってゆきます。また人類学的な芸能研究も本田は行いアジア各地の芸能もまとめてゆきました。

その流れから郡司正勝は初代團十郎が山伏神楽の根幹をなす不動明王を顕現させた事を荒事の本質と捉えてゆきました。


郡司正勝の思考は服部幸雄に受け継がれ、服部は折口を崇敬し、その思考を継承発展させ漂泊芸能の神である宿神の研究、すなわち宿神論が生まれるのです。





エイサーは芸能学的には風流系の太鼓踊りに分類されますが、九州~沖縄は全国的にも最も風流系の芸能が多く残っている土地と言ってもいいでしょう。



こういった芸能のライフインデキスとも言える歌や節も沖縄文化圏の芸能は豊富ですね、沖縄のオモロ、ウムイ クェーナ 、宮古の ニーリや アヤグ、八重山の アヨー、 ジラバ それからユンタ

またアカインコや恩納ナビ、吉屋チルといった伝説的な芸能人も多々いますね



ナビはモーアシビとの関係を考えるならば、その射程は更に拡がりを持ちますし、モーアシビの核を抽出したのが嘉手苅林昌といっていいでしょう。


後、折口信夫芸能学の一つの起源として、聞得大王の就任の芸能にして秘儀~御新下り~(おあらおり)があります。御新下りの中にもマドコオフスマと同様の構造がある事も注目すべきでしょう。


アマミク・シネミクの兄妹婚洪水神話も創造神話として古層のものを持っていますし、これをキコエオオキミとシュリテンガナシのヒメヒコの芸能にまで昇華しているわけです。


ユタのカミダーリ等もポゼション型のシャーマンとして芸能の根源を実感出来ますし、ノロはプリーストの本質を実感させてくれるわけです。これほどシャーマン・プリースト論を実感しやすい土地も中々にないと思います。

また私は沖縄の民俗料理(郷土料理)が大好きでして、中でもンジャナという薬草のチャンプルーが好きです。またミーバイやチノマン等の沖縄独特の魚も沖縄に行くと真っ先に食べにゆくものの一つです。ただ何よりも好きなのはイラブ汁でして、最近はイラブカレーといったいわゆるB級グルメ化もしており嬉しい限りです。もちろんゴーヤや豆腐ようといった今では全国的にメジャーになったものも好きです。
ハンダマやモーイ、チョーミー草なども素晴らしいですね

とにかく私は沖縄は大好きでして、芸能や食、信仰、遊戯の本質は(これら全てを私は芸能という言葉でまとめています)全て沖縄から実感出来ると思っています。沖縄のニライカナイ信仰はアボリジニのドリームタイムとの類似性が人類学からも指摘されていますが、あらゆる信仰や芸能の元型と申してよいと思います。

かつて折口信夫が大王崎灯台から実感した常世と同じように私は白保海岸に立った時にニライカナイ信仰を文字通り肌で実感しました。アタヴィズム的な表出かのようでした。

これからも事ある事に沖縄の芸能は我々に芸能の古代を実感させてくれる力となり続ける事と思います・・・。







さて、我々は折口信夫の思考を更に突き抜けてゆく場としてのエラノスの再考をしているわけだが、折口信夫の直の弟子の一人にして、折口信夫の後継者とも名高いのが井筒先生である。

井筒の~神秘哲学~はディオニュソスの憑依からはじまりプロティノスの~新プラトン主義~でおわるわけだが、


井筒はエウリピデスの戯曲を引いてバッコスの芸能の中にある

エクスタシスとエントゥシアスモスのなかに芸能、信仰、学問の発生と究極を発見しているのだ。


更に井筒が理想としたのは、古代アラビアの芸能人カーヒン。カーヒンはジンをポゼションさせサジュウという色的な節を表出していた。これは咒言やアイヌのトゥス、ロシアフォルマニズムにおけるグロソラリア等と同様な構造を持つ。

そしてムハンマドなどもこのカーヒンを基盤にしある意味での未来的な発生を遂げたのだと言える。


井筒、エリアーデ、ケレーニイそれからツカーカンドルから我々は超芸能の発生を考えてゆくわけだが、アスコーナ的な思考と芸能を根源におく必要もあるだろう。そうするとこの問題はほぼ直接的にサブカルチャー、カウンターカルチャー全体をも巻き込み、学問、思考、思想史全体をも巻き込んでゆくダイナミズムを発生させてしまう


要するにAKB48やエヴァンゲリオンや京都アニメーションとブラバッキーや暗黒舞踏、イサドラやピナ、マハリシマヘーシュヨーギーや大拙、バクティベーダンタ、オーロビンド、ラーマクリシュナ、ティモシーリアリー、平田篤胤、黒人、中山みき、出口なお、母権論、フェミニズム、エサレン研究所、コアシャーマニズム、菜食主義、ダダ、シュルレアリスム、表現主義、未来派、象徴主義、ボヘミアン、ビートニク、ヒッピー、フウテン、アルトー、ガロ、コム、フルクサス、グノーシス、錬金術、悪魔学、秘密結社、新プラトン主義、神仙、量子論、構造主義、ポスト構造主義、等々が全て一つの地平の中に重なり出してきてしまう




けいおんやラブライブと平田篤胤とAKBと中山みきとラマナマハリシを同じ地平で思考すると何がおこるのか?


アニメやサブカルチャーの中に存在するアタヴィズム性を再認識し平田や中山みき、ラマナマハリシの中にある未来性を再認識してゆく事になると言えよう。




我々はアスコーナとエラノスから全てを

聖なる芸能化

してゆく運動を展開させてゆくのだ







折口のマレビトは何よりも万葉人を理想としていた。万葉人の理想を出雲人におき更にその出雲人の理想はオオクニヌシの中にあると考えた。そしてオホクニヌシを知るのに出雲国風土記更に生々しいオホクニヌシを知るのに播磨国風土記を知る必要がある事を示唆している。

これらとホカヒビト、台湾蕃族、沖縄や先島の来訪神

(すなわちマレビトはウィーン学派により来訪神とされ、人類学の術語となっていった。すなわち折口信夫のマレビトの原像となった。アカマタクロマタの更なる起源は岡によって発見されたメラネシアのニューブリテン島の秘密結社ドゥクドゥクであり
岡の助手であったスラヴィクはゲルマンの祭司秘密結社を明らかにしてゆく
そしてエリアーデは岡政雄、オットー・ヘフラー、スラヴィク、デュメジルを統合してゆくのだ)

三信遠国境地帯の芸能が重なってゆくのだ。


また我々は


ここから芸能王になるべく思考を実感してゆく必要がある。


ミイツをつけた芸能王、芸能神が次から次へと顕れてくるべきなのだ。それは浮世から見た時に宇宙の中心が複数立ち上がりながらも、その全てを飲み込み内在するという極めて瞑想思考でしか認識不能な状態がおこるのだ。

最終的な折口信夫の地平は辻的なアタヴィズム論とハートランドのライフインデキスが交錯してゆく時に折口の古代研究と民族史観における他界観念は一つに重なりだすのであるが、そこを捉えてゆく事につきるのだ。


未来芸能、超芸能を思考する上で忘れてはならないのが、十五代目市村羽左衛門である。折口が最も愛した歌舞妓役者として知られている。折口は市村羽左衛門を古い型の上に盛り上げられてゆく新しい感覚を見ていた。まさに未来芸能、超芸能への萌芽を羽左衛門
の中に見ていたのだ。

また折口信夫が愛した歌舞妓俳優に

特に二代目実川廷若、七代目澤村宗十郎がおり、

後は五代目中村歌右衛門、六代目尾上梅幸、、七代目松本幸四郎

がおった事も付け加えておきたい。

また春団治、雲右衛門も良く聴かれたという。

何よりも歌舞妓のエロキューションの基層としての義太夫の大隅太夫と山城少掾を高く評価していた事も覚えておくべきだろう。




さて我々が更に超芸能のために思考すべきが以下の芸能人達である

すなわち桜川ぴん助、博多淡海、笑福亭松鶴
そして
浅野梅若それから嘉手苅林昌後は砂川捨丸も忘れてはならない。


カッポレは梅坊主の義兄である平坊主が踊り始めたと言われている。 それから梅坊主や安楽斉初坊主(安楽斉初丸)により継承され、ぴん助にいたる。

日本民謡の典型は今では刈干切唄や最上川舟唄、佐渡おけさ が連想されるが戦前は完全にカッポレが横綱であったのだ。

それゆえに本来の俚謡の生命力が桜川の中に残されている。

また幇間としてのぴん助も思考してゆくべきだ。


俄の語源は岩戸神楽~庭神楽~にあるという説がある。

博多淡海はこの俄の名人であった。俄は全く、列島芸能のあらゆる面に影響を与えたと言えよう。あらゆる芝居の根源であり、漫才やコントそれからバラエティ番組全般もこの俄が変化したものである。後は松竹新喜劇や吉本新喜劇はこの俄の本当に直系の子孫であった。藤山寛美は美空ひばりと並ぶ一つの究極でもあった。また俄の怪物にして浅草十二階最強最大の怪物である曽我廼家五九郎は何よりもおさえておくべきだ。


秋田の仙北地方は民謡の宝庫と言われていたが、浅野により残されたそれは文字通りの生きた俚謡であった

秋田音頭、ドンパン節、ひでこ節、秋田おばこ ・・・

我々は民謡研究の元祖をヘルダーに見、それからセシルシャープにより科学的な民謡研究の始まりを知る。そしてロマックス親子や
ハリースミスによる見事なフィールドレコーディングを知るわけである。
柳田や町田による民謡研究は残念ながらその本質に届く事はなかったのだが、それでも我々は彼等から学べる部分は、ある。それは小泉文夫の童歌研究や民謡研究も同様である。


我々は谷川雁の思考を通過する事で炭鉱節の底なしの射程を知る事になるわけだが、

基本的に筑豊炭坑節は採炭唄、石刀唄、南蛮唄、撰炭唄に区分され、その区分は労働の態様による。

採炭唄のゴットン節、ヤーレ節などは今ではCD化もされているので比較的に古い録音も容易に聴く事が出来る。

そして我々は何よりもからめ節の中に~雨しょぽ~のもと唄がある事を知るべきであろう。ここに炭鉱節、漂泊芸能、バレ唄、バレ芸能、満映、十二階の全てを統合してゆく思考が隠されているだろう。


アメリカ黒人のワークソングがジャレメ的な存在によりブルース化していったように撰炭唄は炭坑街のジャレメたちにより伝わったわけである。



我々は沖縄の至高の芸能を集めた映画を見てゆく時にその基層には、ヅレといった芸能人の存在がある事に気付く。彼女たちは丸の字のついた源氏名を名乗った。梅丸、桜丸、蝶丸等々。
更に我々は奄美の伝説なアマオナグへとたどり着くわけだが これはヅレの起源とも考えられるのだ。


超芸能の発生のためには少なくとも上記全ての芸能を捉えてゆく必要がある。それから我々は今こそマラルメを読み返す時に来ているように思うのだ。

そもそも未来演劇を総括的に最初に語った存在がマラルメであるからだ。(祝祭性回帰の思考はルソーへと遡る。)

未来演劇は未来芸能といいかえて良いだろうし、それは超芸能と申してよい。

マラルメのそれは、我々からするならば正直アンビバレンスなものではあるのだが、それでもアルトーや寺山を再考し、エラノス的な超芸能への助けになる事は間違いないだろう。

また我々はにっくきオリンピックやワールドカップ、万博、スポーツ試合といった超大型イベントが、未来演劇発生に繋がる可能性すら見えてくる事だろう・・・


もちろんあのままではダメだ。

しかしアラヤ識が変容するかの如く、あのオリンピックやワールドカップを変容させる事が出来るならば、 そこに一つの超芸能発生がある事は認めねばならんだろう。




我々の親(漂泊芸能人)を抹殺したオリンピックと万博に我々は再び寄生増殖し、 超芸能の再生を果たすべきなのだ・・・

歌は音程じゃなくて気持ちか? 縄文 的な 食文化  おもろそうし マブヤー 歌詞と 無意識 について

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SMAP の 中居正広 氏が「歌は音程じゃなくて気持ちが大事」という事を被災地でのイベントで改めて実感されたそうだが、

そのニュースのコメント欄やツィート欄には、音程を大事とするコメントが溢れていた。


結論から謂えば、被災地での心のやりとりやある種のデュルケム的な沸騰は、極めて重要なものであり、我々が正常性バイアスにより追いやってしまっている。重要な思考や情動が立ち上がってくるという事を押さえておく必要がある。そういう意味において

中居氏のコメントは正しいと言える。

また音程というのは、

本来モラルセンスに関わるもので俚謡段階においては土地々、村々で音律が異なるのが普通であり、


12平均律を唯一正しい音程とする発想そのものが暴力的な発想であると言わざるおえない。

もちろん、こういった様々な音律やツカーカンドル的な原旋律を視野にいれて音程が大事だというのは、当然、重要になってくるし、ここまで視野に入れるならば、音程の極致と情動の極致は即で結ばれており、音程が大事?情動が大事?心が大事?等という議論自体が成立しなくなってくる。

かつての記事でいわゆる音痴にこそ可能性があるという事を説いたわけだが、その本意は、上記のような事を伝えるためであった。

世界各地の様々な俚謡でさへ、12平均律化してゆく、もしくは西洋芸能の影響を受けてゆく昨今であるわけだが、それに毒されない、いわゆる音痴の者から古層の節の萌芽のようなものが表出される事もまた一つの事実なのだ。

それらを捉え直さない限り、やはり上記のような議論は本当の意味において無意味と言え、また東北的な思考や肉体の復活も有り得ないのだと言うことは押さえておく必要がある。









武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks








ウコン様、シマムラ様コメントありがとうございます。


ヤギ汁 ナカミ汁 も素晴らしいですね、どちらとも私も大好きです。

この辺りがきますと後は 石垣猪の煮込みとかも私は好きです。

フーチバの鮮烈な香りと味も私も大好きです。沖縄そばやソーキそばによく入れて食べます。

沖縄 の民俗料理は中国の医食同源の思想の影響も大きいですが13世紀位までは狩猟採集の生活が残っていた事からかなり食の原点といいますか、食のオリジンが残っていると考えられます。

それゆえにいわゆる おもろそうし 等にも極めて古い古層の歌が残っていると考えられるわけです。

沖縄でモノレールに乗りますと沖縄の伝承童謡が流れますが、あれもよろしいですね

琉球旋法はインドネシアのモードとの類似もあり、少し飛躍すれば スンダランド との繋がりをも

沖縄の伝承童謡は含んでいると言えます。


こうした野獣肉料理というのは旧石器、縄文、それから 港川人 の食文化の基本にあったと言えますし、こうした野獣肉料理と サクリファイス の 芸能 、祝祭は結びつき、いわゆる 直会 や アエノコト といった 神人共食の芸能にも繋がってゆくわけです。


また、沖縄料理ではありませんが野獣肉料理、ジビエ料理の根源を表出しているものの一つに三信遠国境地帯にある
野獣肉料理店星野屋さんの野獣肉料理があるように思います。

後は マブヤー には注目しています。

あの マブイ  とか マブイ込め と申しますものは、(もしくは セヂ や セヂユン )かつて マレット があらゆる信仰や芸能の根源にあるものとして捉えました オセアニアの マナイズムを 極めて古層の状態をそのままに伝承してきたものでして、 それを いわゆる 特撮 や 戦隊ヒーロー 的 ? メタルヒーロー 的な表出と シンクレさせていった事は 中々に興味深いように思います。


元々特撮ヒーロー自体が鞍馬天狗、月光仮面、ウルトラマン、仮面ライダー、スーパー戦隊シリーズと全て、マレビト論や貴種流離譚をベースにして発生してきたものでしたので 、ある意味では このどれもが 沖縄のアンガマアやアカマタクロマ的なるものの影響を直接的、間接的に受けてきたものと言えるでしょう。 ウルトラマンは金城哲夫が先島出身ですので、ほぼ直接的にアンガマアをサイフェンスフィクション化した存在として表出されました 星新一 小松左京 なんかからの影響を アンガマア に重ねた戸に ウルトラマンがおり ウルトラマン をベースにして エヴァンゲリオン 等も 生まれてきた訳です。

金城哲夫 は後に 沖縄芝居 の作家になってゆくわけです。

金城の 処女作も 吉屋チルー を題材にしたものです。


沖縄について語りだすと キリがないようです。 長くなってしまいすみません
ではでは






さて、歌詞についてですが、基本的に我々、原初の芸能人は 分節言語 発生以前の地平から芸能を捉えなければいけないわけです。

そういう意味において分節言語の基層で蠢く 叫び の地平が常に流れているべきです。

我々は日常においても表層の意識と古代心性という無意識全体の底~スク~にあるような フォルス を働かせながら生きているわけですが、


芸能においては  古代的心性 や 原始心性 を更に強く働かせておく必要があるわけです。

その意味において歌詞は表面的には邪魔です。

だから太陽劇団やリビングシアターは戯曲そのものの解体を行ったわけですが

ただ歌詞は アナロジー による原初の思考が働いている事も確かですので、我々はあらゆる層の 心性 を多重に働かせながら 歌い 語る 必要があると言えるわけです。

その意味において 金春禅竹 の 六輪一露 論は、正に ものの見事に理想的な 芸能の 精神 を言い当てていますし、 これは  身体論 においても あてはまるものであると 言えます。


だから 我々は Jpop の ラブソング を歌いながら 近代的な ロマンティックラブイデオロギー と ヤージニャヴァルキヤ のように アートマン に対する愛とが交錯してゆくような思考以前の思考や情動以前の情動をも動かしてゆく必要があるわけです。

実生活においても カルマヨーガ や ワーク のように常に アーキタイプ (元型) や マナ イツ ドリームタイム 中空構造 まあ言い方 は何でも よろしいのですが ヌミノーゼ的な 聖なるモノ に触れている必要があるわけです。

これも厳密にはモラルセンスによるのですが、芸能においては その活動 が より 増殖 されるのが望ましいと言えます。

祝詞や咒言、サジューやグロソラリア的なるものは、アタヴィズムと即で結ばれてゆくものです。

折口信夫もアタヴィズムにより祝詞や咒言を唱える事、また咒言や祝詞の音響、言霊によりアタヴィズムは促進される事を説いています。

これらはどちらが先か?というのは難しい事ですが、発生論的には内なるタマフリが先攻し、その言語精霊すなわちヤゴゴロオモイカネノカミを宿したものが祝詞や咒言となるわけです。


そしてあらゆる歌、詩や文芸は、極論19世紀に発生した小説にいたるまでが、この咒言の力をベースに働かせる事でしか真の意味において成立しない事が
言えるわけです。

それは丁度あらゆる肉体芸能がサトルボディを発動させながら、表層の肉体、体壁型の筋肉をも発動させないといけないのにも似ているでしょう。

プロ歌手 にとって音程は大事? 気持ちが大事?JPOP 演歌 アニソン 歌謡曲  ニューミュージック 関西フォーク 等々 

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武田梵声です。 ボイストレーニング のバイブルと呼ばれた フースラー 理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks





先日の  SMAP の  中居正広 氏の
被災地でのイベントにおける発言を元にプロ歌手と音程という事をもう少し考えてゆきたいと思う。

中居正広氏は、音程じゃなくて気持ちが大事 と言った事を被災地でのイベントで再実感したとの事であったが、

それに対してツィート等のコメントでプロ歌手は音程が大事とする意見が多々寄せられていた。

本当にそうであろうか?


おそらくは、この音程が大事とするコメントをした者の大半は十二平均律をその大事な音程と考えている事と思うのだが、

だとしたら中居正広氏が実感したような東北の人達とのある種の交感の方が遥かに重要であると言える。

そもそも流行歌、 JPOP 演歌 などにおいても十二平均律が基本となっている事は確かなのだが、大衆的な歌い手の多くはやはり無意識的にではあるが微分音の表出が行われている。


JPOP 演歌 アニソン 歌謡曲  ニューミュージック 関西フォーク カレッジフォーク グループサウンズ  ムード歌謡 青春歌謡 故郷歌謡 アイドル歌謡 リズム歌謡 等々の20世紀~21世紀の 流行歌 の基本的な遺伝子は大きく三つだ。



一つは 放浪芸 の節の集大成的な 浪花節 都々逸 そして 読売 である。

もう一つは、いわゆる 蛍の光 等に代表される パーラーソング

最後に フォックストロット 経由の ブルース的な遺伝子だ。


最後の ブルース 的遺伝子はそれこそ時代事に様々な形で輸入されている。 戦後は ブギウギ 1950年代の ロックンロール 1960年代の ブリティッシュインベージョン それから R&B や ソウル ダンスクラッシックス ファンク ヒップホップ と様々な形でブルース的な遺伝子は輸入されている。


やや乱暴な論ではあるが、南米などの ソン  サンバ マンボ   ボサ  エンペベ 等も 極論 ブルース的遺伝子(アフリカ的な遺伝子と言えばしっくりくると思う。)の変化したものであり、 レゲエ や  ハウス  テクノ   トランス 等も  アングラ・ブラックカルチャー  から発生してきたものである

この三要素がシンクレしてゆく中から 日本の大衆歌謡は発生してきたのだと言える。

ちなみに ジャニーズ の アイドル歌謡 というのは昔から極めて ブラックなサウンドが多く、しかも比較的 最新の 流行りの黒っぽい要素を 取り入れてきた傾向がある。

こうした 俚謡段階の芸能、 歌謡 の習合 こそが  大衆歌謡 の本体なのだから その意味において 十二平均律的な厳密さはむしろ 無用な ジャンルと言えるし、 そのように こういったジャンル自体が 芸能分化理法 に基づいて 展開してきたというのが 事実であろう。

そもそも ブルーノート や バレルハウス 自体が 十二平均律 の解体 から発生してきたものである。 北米歌謡 の ベースはそこにあり、 それを 集大成 した ハリースミスコレクション こそを 皆様の 大好きな アメリカ様 ご自身 が 理想として 掲げてきた事は 今一度 押さえておくべき事だろう。

だが 世の中のメインカルチャー自体が 顕在的な思考としては、十二平均律 を重要視
する方向に 進んでいるのだから それに従わなければ 世の中の負け組になってしまうのでは? という意見もよく聴く

こうした 芸能に 勝ち負け は本来 ない
あるとすれば 相撲 や カガイ のように 神 や マレビト と 戦う事 位だ

かつて インド哲学は 宇宙法 としての ダルマを掲げた。 宮沢賢治 の作品も 宇宙法 に基づいてきたものであり、 法の発生 も ジネン の秘密や法則 からきたものである。 そこから 外れたものは 本来 宇宙法を司る 芸能人がすべきではないのだ。

その意味において 音痴の ものというのは 下方倍音列的なる 宇宙根音 に 稀にでも 触れている分 近代化を 遂げた 素晴らしき 者達 よりも 宇宙法に近い世界を 生きていると言ってよい。


そして 大衆歌謡 の 本質とは ビッグビルブルンジー が唱えたように 民謡 俚謡
にこそあるのである。

因みに プロ歌手 というのは ここでは 単に 職業歌手 という意味で使うが、 アマチュア 歌手 と プロの歌い手 のどちらが総じて優れているかと 問われれば答えは、アマチュア歌手の方が遥かに優れている歌い手が多いと言ってよい。


もちろん、職業歌手の中にも優れた歌い手はいるし、アマチュア歌手の中にもいまいちな歌い手も山のようにおる訳だが、

世界全体のいわゆる第三世界を含めてゆくならば、 職業歌手ではない、優れた歌い手は山のようにおり、そしてその数は 職業歌手を凌駕すると言っていいだろう。

そして近代化に拍車がかかった現代において職業歌手の力の近代化も頂点に達してきている。この事は欧米様 も大変お喜びの事と思う。


かつて 黒人 の アフリカ性 が喪失しつつある時に その アフリカ性の 再生 を試みた 歌い手 にして ダンサー がいた・・・

この遺伝子 は マイケルジャクソン を経由 して マサラ・ムービー や フィルム・ソング にも多大な影響を与えたし何よりも  パンアフリカニズム   のある種の核 となり アフリカ大衆歌謡の要になっていた。

それはもう一つのアフリカ大衆歌謡の核ともうしてよい ルンバ や ベルパターン 更には パームワインミュージック  や   ハイライフ  といったはじまり の 混血音楽 以上の精神的な アクシスムンディ となっていたといいだろう。 そして フェラクティ により アフロ大衆音楽、アフロ大衆芸能の集大成と言ってもよい アフロビート が発想されたのである。

こうした アフロ性回帰の 背後にいた者こそが JB すなわち ジェームス・ブラウン である。

我々は トビー となるか? クンタキンテ となるか? という質問に対して クンタキンテ である事を 宣言せねばなるまい。

それは近代を解体し、古代性を獲得する事に繋がる。 もしくは  岡本太郎 の 対極主義 のように その近代性 と古代性をぶつけ合い、葛藤し続けながら 爆発 させ続けてゆく 超芸能の地平に たたねばなるまい。

音痴 というのは 極論 対極主義のような地平で葛藤し続ける者達の事であり、それは 極めて 美しい!!!

かつて 無意識 の肉体を得ようとした アルトー 以降の 肉体の演劇 もしくはイサドラ 等のモダンダンス コンテンポラリーダンス 暗黒舞踏 等により 抹殺されてきた 肉体の 復活が行われてきた。 身体の障害 や 病 O脚 がに股 抹殺されてきた肉体の中にこそ 無意識の肉体 零の肉体 があるのではないか? と そしてその試みは 正解であった 例えば ダウン症 の人達の 舞踏 や 芸術 は極めて優れたものを 表出した。

また 精神疾患 等による 抹殺されてきた精神 も 演劇や エサレン研究所 などにより 捉え直されてきた

我々は近代により肉体 歩行 言語 声 エロキューション 精神 音 ノイズ 微分音 シュルティ  ガマカ 下方倍音列 メリスマ 野生の思考 アナロジー 類化性能 萃点 ヌミノーゼ 妖怪 悪魔 精霊 と様々な重要なものを抹殺し続けてきたわけだが、この音程の問題とこれらは全てリンクしてくる

東北の交感と音程の問題は極めて重要な事を我々に考えさせるのだ。

また 心が大切 の 心の射程という事も我々は考え直す必要があるだろう

マズロー 的な 自己実現 の 自己を完全に取り違えているものがあまりに多い昨今であり、 当然ながら ユング の自己も完全に取り違えている。

心 精神 の壮大な世界は ユング ラカン フロイト タート ライヒ グロフ 等 はもとより 世界各地の シャーマニズム や 芸能 インド哲学 上座部仏教 大乗仏教 新プラトン主義 グノーシス主義 また ラスコー ショーベ アルタミラ 等の 洞窟壁画 動産芸術 等を 踏まえて見てゆく必要があるだろう。

ノイズ のある 声 を窮めるか? それとも 自在な声 を窮めるか? フースラー 発声学 から考える。 アフリカ的段階 の声と 芸能

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武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。





武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks




カワサキ様 コメントありがとうございます。

この質問を少し拡張させて考えてゆきますと、我々にとっては一つの究極的なテーマになってゆきます。

私は古い アボリジニー の録音からガムを中心としたノイズ聲こそが、旧石器時代の芸能モラルセンスの要にあった事を確信したわけですが、



(もちろんこれだけではなく、古い アイヌ ウイルタ ニブフ エベンキ ツングース ブリヤート といった北方民族の録音 スリランカのベッタ 南米の セルクナン ベトナムの ムノンガル インドの アンダマン人、アフリカの コイサン といった原初芸能性を多く残すと考えられている声や 放浪芸 、 見世物 、 コメディアデラルテ 、 タルチュム 、 ルホズィ 等の メイエルホリド 、 クローデル 、 折口信夫 等によって捉えられた古代性、始原の演劇性を残すもの。また世界各地の民俗芸能で始原の演劇と考えてきたものとして、 カタカリ クーリヤッタム マニプリ バロン劇 コーン 花祭り 雪祭り 天龍村霜月神楽 遠山霜月神楽 西浦田楽、 
アカマタクロマタ マユンガナシ アンガマア  等々これら全てを総合的に考えてゆくとノイズの中にこそライフインデキスがある事が見えてくるわけです。)


最古代の芸能人というのは、喉頭構造の斯くあるべき姿としてみた時にはノイズ~クリーンまでのおよそ全ての声音の表出が出来た事でしょう。

そういう意味においては、喉頭の自在性こそが、目指すべき地平と言え、いわゆる酒焼けにより 気息嗄声 または ガム 的な領域しか出なくなってしまった状態は人類学的な射程、民俗学的な射程、民謡研究的な射程を取り戻したフースラー発声学が目指す方向ではないと言えます。

しかしながら、アジア段階において、こうした ノイズ だけを窮めていく芸能が発生してきます。北方アジアの芸能や
放浪芸 節談 浪花節 ハウルーなどの泣き女 パンソリ 等々です。


特に 節談 浪花節 の 演者は ノイズ だけが強くなり、 クリーントーン機能を喪失した演者が多々います。 これはいわゆる寒稽古や韓国、朝鮮における 恨(ハン) の訓練により そうしたわけですが、 こういった方法はかなり賭けに近いわけです。 声の機敏性を失い ほとんど節が回せなくなってしまう場合や声域も著しく狭くなってしまう可能性もあります。 しかしながら 絶妙なバランスでこの寒稽古を遂げるならば ノイズ機能のみにはなるものの 声の機敏性 や 声域の広さも ある程度まで保つ事も出来ます。

我々はこうした節談や浪花節の超名人と表面的にはかなり近い声を出す事を可能としますが、やはりノイズ~クリーンまでを持ついわゆる解放された喉のノイズトーンと
ノイズのみに偏った声 (ただしクリーントーンしかでない声も同様に偏った声であるわけだが、)のノイズトーンは微妙に異なります。


節談の 亀田千厳老師等はその極みにして究極 至高 です。


要するに古代芸能において自在な声を持つ古代芸能人はその要にノイズをおいていたわけですが、アジア段階になり、自在な声を捨て、その古代芸能のライフインデキスであるノイズトーンを窮めにかかった


という事が言えましょうか


そういう意味において亀田老師をはじめとした節談や浪花節の演者達は超芸能を目指したのだと言えましょう。

またそれは遡れば節談と浪花節の祖であるともされる 藤原澄憲 そしてその澄憲すらもが憧憬する存在としての 富楼那 (フルナ) がおったわけです。

ですので、ノイズのみを窮めにかかる事は一つの超越的な領域への可能性は持っています。


ただし、これを確実に上手くやる方法はないでしょう、下手をすれば相当な偏りにより、声による芸能表出の可能性が著しく制限されてしまう可能性すらあります。(まあ、失声となったものが、声無き声とも言える宇宙的表出をする事もありますが・・・)

酒焼けがかつての寒稽古や恨の訓練なみのノイズをもたらすのか?と問われればそれも厳しいように思います。


酒は神の飲み物としてASCへと導きますが、声そのものに関してはアンビバレントなものと言えます。

パルジファルとカトリックのミサの中にマラルメは未来演劇への可能性を見ましたが、この未来演劇の一つの要が食の芸能であり、酒の芸能であったわけです。

井筒、 ケレーニイ 、 ニーチェ 、 バタイユ 等の思考のベースともなるディオニュソスの芸能も基本的には酒の芸能です。




(ディオニュソスは、ニーチェの「悲劇の誕生」により復活を遂げるわけですが、その背後には ワーグナー と ショーペンハウアー の影響がある。また ミノア文明の原ディオニュソス その ゾーエー性 を捉えてゆくならば パシュパティ スサノヲ ヴォータン を一つの地平で捉えてゆく事が出来る。)


(またケレーニイの思考の源には K・O・ミュラー や バッハオーフェン ニーチェ ヴァルター・F・オットー がいた事も押さえておく必要がある。)



変容させるための声というのは、まさしく芸能の根源であり、 グルジェフ
の捉えた  客観芸能  主観芸能
( 客観芸術  主観芸術 )といった概念も彼が重要視した客観芸能は変容性のある芸能であったわけです。

そもそも変容性に乏しい芸能やそれを目指さない芸能は芸能にあらずと申してよろしいでしょう。

そしてある種のノイズ性にそのヒントがある事も確かでしょう。

脳の変容方法は大きく分けて 懲罰系 と 報酬系 とになるわけですが、 ノイズの本来の目的は 両極に股がるもの すなわち まったくヌミノーゼ的なるもの そのもの であったと言っていいでしょうが、 アジア段階になると  懲罰系的な面が強まってゆきます。 日本においては 陰陽道 や 山伏 の思考や 御霊信仰 からそうした思考が強まっていったと考えられます。


どちらにしろ変容のために必要な事をラディカルに突き詰める事は芸能の本質でしょう。しかしながら酒焼けにより最高の変容のための声。すなわち亀田老師のような声が訪れるか否かは、極めて可能性としては低く、単に声の自由度を著しく落としてしまい、平凡な慢性的な気息嗄声が残るといった可能性が高いように思われます。

妖怪ウォッチ 美輪明宏 の射程 トットちゃん 邪魔だよ エンヤコラ !!! 黒柳徹子 と 労働歌 ワークソング ヨイトマケ 炭鉱節

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黒柳徹子 が 美輪明宏 の ヨイトマケの唄 について語った時、彼ら(ヨイトマケ)は即興が出来るんですと言い

「トットちゃん邪魔だよエンヤコラ」

とその時の様子を再現した、 好奇心旺盛で、ちょこまかしていたトットちゃん(黒柳徹子)と上記のような遊ばせ唄で戯れるのだと言う。

ヨイトマケ、筑豊炭鉱節、常磐炭鉱節こういった中に列島の否、世界民俗の根源的な原旋律があった。もしくはその萌芽があった。

高石友也 が 美輪明宏 の ヨイトマケの唄 を世界最高の歌と考えたのには 上記のような射程があったのだ

すなわち フォークウエイズ や 谷川雁 竹中労 のビジョンだ。

芸能 歌謡 は ここを捉えねば何も始まらない事はいつも言っている通りだ

今でも つくり歌 とか照葉樹林文化の中に残されているカガイや歌垣的な芸能の中には 歌袋 といった即興力を高める一つのシステムがあるが、 この民俗的な即興と言うのは、ほとんど 生活の中から生まれる節であり、本当の意味での生命力がある。 ジャズやカルナータカも即興力を問う芸能であるが、ややハイカルチャー化したもののそれにも本来の民俗的段階の即興力というのが宿っており、また宿っていなければそれはうわべだけのモノになりがちだ。 古いブルースマンなんかはジャズ的な即興と民俗的段階の即興とをやりわけてくれたりもするが、結局この段階を空気のように扱えるようになる事が重要で例えばサッチモやチャリーパーカーにはこうした民俗的段階が流れていたし、
チェンバイやマハラジャプラム、ムクタ、パッタマル、等のカルナータカ・レジェンドもこうした力を宿していた。


それはビッグビルブルンジーの全ての歌謡は民謡だ。




池田弥三郎のいう日本の芸能は古典や寄席芸を含め、全て民俗的である。

と言った事と繋がってくるわけだ

民謡と変容は本来ほぼ同根だ。それゆえにこれらは至高となりうる。

食い物だって最高のものは民俗料理および民俗段階の野生的生命力を洗練の衣の下に必ず残しているものだ。

まあ民謡も正確には俚謡というべきだろうが、

もちろんハイカルチャー化した民謡はカスだが、これも場合によっては俚謡段階の力を流す事で、再び土や風の生命力を持たす事に成功する事もある。

黒柳 や 美輪 の世代はまだまだこうした俚謡の生き残っていた世代であり、こうした中に真の生きた歌謡、芸能があった事をほとんど直感的に知る事が出来たのだ。

それからこうした民謡が、民俗芸能の基礎訓練になっていたという点も我々はおさえておくべきだ。

民謡のライフインデキスとしての伝承童謡がある事も踏まえるならば、当時の子供達も皆、民俗的なインプロ力を最高クラスに持っていたわけである。

戦後70年の今、我々は抹殺された芸能をどう捉えるかが、最も重要な事と言える。芸能とは本来、天皇陛下の存在そのものとリンクし、政治、戦争も本来芸能であった。我々はゲルマンの芸能秘密結社の戦士芸能人ベルセルクの存在を知っていよう。この霊的な戦士は芸能人そのものであったのだ。思考や学問の根源が芸能である事も以前から言っている昌平坂学問所の機能を中心に持った真の東京大学は、タマ研究所であるし、西洋学問、西洋思想の諸学の基礎となる哲学もディオニソスの芸能を土台にしている。イスラーム学は芸能人カーヒンの思考をベースにしており、インド哲学も國學もその基本は歌があり、タマを発動させるのもまた歌であり、歌そのものがタマでもあったわけだ。

芸能を再生させる事だけが、あらゆるモノの再生へと繋がるのである。

妖怪ウォッチ の 流行はよろしいとはいつも言っている事だが、あそこから 芸能の本質を学ぶ事は可能だ。

かつて あしたのジョー から アスコナ的な地平の集成を学び 鉄腕アトム や 新宝島 から 昆虫的な肉体 を学ぶ事が出来たように ドラゴンクエスト や ドラゴンボール から原初の物語りを学びとったように

タツノコ作品からフィジオノミーの根源を学びとったようにだ。


妖怪は原初芸能の要にして、信仰の要だ。 今でも我々は 上野公園に 神仙界への入口を実感する事が出来、天狗のボスである杉山僧上の力を実感し、神仙界の芸能を知る事が出来るのだ。


そしてそれは、平田篤胤の思考の根源になった。 更にそれは 我々列島人のあらゆる学問の根源だ。すなわち 構造人類学やバタイユやラカン、フーコー、ニーチェのようなラディカルな思考さへもが、そこをベースにしながら バイロジカル的に 動かさねば 我々にとっての地肉ある思考にはならないのだ。 これは 音楽教育におけるバイミュジカルというのも同様な構造である。

そして平田篤胤の思考は三信遠芸能に溶け込み 折口信夫の芸能学を発生させ、 岡 経由でエリアーデに また井筒俊彦により エラノス会議的な 超芸能に至るのである。

さあ、我が教え子から 超芸能を発生させうるものが出る事を 我は楽しみにしておるぞ!!!


それは古代~民俗~都市~未来の全てを貫く剣となる 史上最強の芸能になる事だけは間違いない!!!

芸能 演劇 舞台 オーディション に受かるには? プレザンス を窮める事。 プレザンス を鍛える プレザンス身体とは?

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武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれた フースラー理論 と


旧石器時代~現代までの世界各地のあ
らゆる芸能


を分析、実践してゆく


芸能学とを専門とするものです。



フースラーはかつて

人は自由自在に歌う事が出来たという事を


生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーは アンザッツ という筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks








ここ最近の芸能の集団稽古は プレザンス の訓練を中心にして行っている。

少なく見積もっても近世~近代の芸能の基本は、プレザンス こそが重要であったのだと言い切ってしまってもいいのかもしれない。

ここで言うプレザンスとは 演劇人類学 のバルバが使う意味とほとんど同じと思ってよい。


かつてバルバは カタカリ オリッシー バロン 昆曲 歌舞伎 能 狂言 の中から 演劇の始原 と ~虚構の身体~ を発見していったわけだが、

それと同時に東洋の 古典芸能 民俗芸能 の ワザヲギ 俳優 芸能人 の持つ プレザンス力に 驚愕したという。

ショービジネスのオーディションにおいてもやはり究極的にはプレザンス力こそが問われているのだと言える。

(もちろん集団芸能においてはプレザンスのバランスは必要になる。)

かつて 池田弥三郎 は日本芸能は古典芸能までが全て民俗芸能的だと語ったが、 これはアジア芸能全てに当てはまるとも言える


最も プレザンス のあった 歌舞伎俳優として 十五代目市村羽左衛門 がおった事は 何度も言ってきた事だ。 エロキューション においてもやはり彼は優れていた。

野口兼資 の プレザンス力 というのもやはり 群を抜いていたが、

そうした プレザンス の源には やはり昭和天皇陛下 と 漂泊芸能人 (放浪芸能) がおり、 それこそが プレザンス の極致であると言える。

漂泊芸能人の怪しさと陛下のヌミノーゼの極致のような表出の行われているプレザンス力は圧倒的だ。

今上天皇陛下のプレザンス力というものも

後は妖怪や怪獣や悪魔などの 怪物達のプレザンス力というのは、原初演劇、原初芸能のライフインデキスとなっている。

ここでいうプレザンスは前近代的なプレザンスであり、 近代芸能においてこうしたプレザンスが表出された場合はもしくは嫌悪されるおそれすらある。

秘すれば花 珍しきが花 時節感当 男時 女時

といったもののバランスというものも
プレザンス性とある種の関係がある事も確かだが、 至高のプレザンスはやはり 全てを突き抜けてゆく事もまた確かであろう。


世阿弥は 陰陽道 をその 芸能論 の核に取り入れたわけであるが、

列島の 民俗芸能 漂泊芸能 それから 新宗教 天皇陛下 の芸能にいたるまでが 陰陽道 により 無意識 の 東洋的なロジック として 再編成されていった事は 注目すべきであるように思う。

現代の TV芸能 ショービジネス芸能における プレザンス性 の 最高峰 と申してよろしいのは 美輪明宏 であろう 。

紅白の ヨイトマケの唄 における プレザンス は 現代ショービジネスの水準は 遥かに突き抜けていた 聖なる怪物 は 同時代的風俗劇 以前 の 西洋演劇 の一つの核ではあったが 美輪明宏 のそれはそういった 西洋的なプレザンスの限界を楽々と超えていったと言ってよいだろう。 三島由紀夫 が美輪を聖なる怪物と呼ぶ時にその射程はどこまで延びていただろうか?三島も天皇陛下の射程に気付いており、折口信夫もある程度読み込んでいたわけだが・・・
またバタイユあたりからの影響を受けていた事も考えてゆくならば・・・

由紀夫という名が 大嘗祭 から発想された事もまた射程を伸ばしてゆく可能性をみる・・・



美空ひばり の プレザンス力 も やはり群を抜いていた・・・ こればかりは 個人的な 想いも含まれはするが、 ひばりちゃん は プレザンスの頂点を窮めた瞬間が何度か あった事だろう。


一つには 上條恒彦 により 透明 になったと 評された あの 広島 の平和音楽祭 における 一本の鉛筆 それから いくつかの 川の流れのように それから
ひとすじの道 愛燦々 においても そうした 圧倒的な プレザンス を残している。

歌声は虹の彼方 における ひばりちゃんの プレザンス も 個人的に好きなものだ。


だがプレザンスの最高とはプレザンスの喪失であるという事に気付かせてくれたのは、とあるインドの聖者であった。

この者は何も残さない・・・何も感じさせない・・・存在していないからだ・・・最高の音の表出がインド芸能からアバンギャルド~ノイズミュージック~禅~スーフィー~列島民俗芸能に至るまでが無音である事とやはり無関係ではない。

(すなわちケージやホワイトハウス、片手の音声、本、シャブダブラフマン等々のまさしく無音の音声)



最高の精神が精神無き精神である事ともだ。

また肉体も全ての意味を喪失した。生気を喪失した。命がけの屍 こそが至高であり、さらにはサトルボディ的な宇宙身体が、バンコやユミルやプルシャのような宇宙原人の肉体が一つの至高である事とも無関係ではない。


こうした プレザンス力 というのも表面的なフィジオノミー分析によるものと、よりラディカルなフィジオノミーからみてゆく方法とがあるわけだが、

ショービジネスのかなり表面的なプレザンスという点から見ても、 プレザンス力のあるものは、やはりある種の輝きがある事は確かであり、それは 本当に目でみて解るものだ。


それはモラルセンスと陰陽五行との真釣りの中に発生しているのであるが、

やはりプレザンスの 最終段階は 籠りの極まりと 密接な関係があるのだ。

ボイストレーニング と 歌謡 芸能 に関する108の質問 受付中

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武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論と古代~現代までのあらゆる芸能に通低する構造を捉えた折口信夫古代芸能学を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks





さて、近々 ボイストレーニング 歌謡 芸能に関する108の質問という記事を書こうと思っています。 これまでも私のところに寄せられてきました多くの質問に 総括的に答えるための記事として考えたものですが、 この際ですから 改めて 質問の募集をしたいと思います。私のブログのコメント欄にボイストレーニング 歌 芸能全般 について疑問に思っている事がありましたら 是非とも 書き込み下さい。 ではお待ちしています。 (全ての質問に答える事は出来ないと思いますが、出来る限りお答えするつもりです。)



また島村様 リンクの件ありがとうございます。 太気拳 やはり かなりラディカルな武術ですね 先日もお話したように中世までは、芸能と武術は本来同根のものだったわけですが、20世紀に入っても メイエルホリドやバルバ、グロトフスキにより 東洋武術 の身体訓練が 演劇的肉体すなわち虚構の肉体と呼ばれる 宇宙的身体を 再生させるために注目されてきたわけです。

武術の多くがサトルボディを喪失している中で、これほどまでに根源的な肉体を捉えてゆこうとする武術がある事には、やはり希望があります。

ちなみにヤフーブログは、ヤフーブログの人でないとリンクが貼れないのかな? 今その辺りを調整中ですが、 リンクの件引き続きよろしくお願いいたします。

フースラー真ミックスボイス理論 ミックスボイスの五つの段階 密林の原始ミックスボイスとは 言語獲得以前の超原始ミックスボイスとは?

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武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks




武田梵声がフースラー、リード、チェザリー、オールドイタリアンスクール
について語るためのフースラー真ミックスボイスブログ

至高のボイトレ フースラー真ミックスボイスを思考するブログ SLSの真の射程チェザリー回帰の方法

http://blog.livedoor.jp/bonjyou88/












質問を下さった皆様、ありがとうございます。まとまり次第、ブログにアップしてゆきますので、今しばらくお待ち下さい。


さて、最近私は新たに別のブログを立ち上げました。ライブドアブログで



至高のボイトレ フースラーの真ミックスボイスを思考するブログ SLSの真の射程チェザリー回帰の方法


http://blog.livedoor.jp/bonjyou88/



というものです。基本的には
フースラー、

リード、

チェザリー、

17世紀型の訓練、

オールドイタリアンスクールの訓練

といったヨーロッパのアジア段階の芸能というべき古楽思考や民謡学に立脚した声の鍛練法を中心にして展開させてゆくつもりです。

ボイトレ、ボイストレーニングという語彙ほど、浅薄かつ堕落した言葉もないように思い、これまであまり使用せずに、あえて発声訓練等という語彙を使用していたのですが、世に流布している語彙を使用した方が一般の人には解りやすいという事から、

ボイトレ ボイストレーニング それから ミックスボイス という本来 アカデミックに 思考した時には 間違いのある語彙から フースラー や リード チェザリー オールドイタリアンスクール の 根幹 も 敢えて語ってゆこうと思っています。

裏声

地声 表声 といった語彙も あちらのライブドアブログでは、 ファルセット とか チェストボイス とか ヘッドボイス とか

段々 自分で言っていて 笑いが込み上げてくるのですが


私らしくないブログをあえて書いてゆこうと思っているわけです。


どう考えてもおかしい語彙に ミドルボイス とか ミドルレジスター なんて語彙もありますが、 こちらもまあ問題のない範囲で使用してゆきます。


後は ホイッスル と エッジボイス
これは語彙として特に問題があるわけではないのですが、何というか 凄く浮わついた イメージがついてしまっていて どうにも 使いたくないのですが
まあ使ってゆきます。

ヴォーチェディフィンテ とか ヴォーチェディゴラ とか ファリンジルボイス とか


ヴォーチェディテスタ ヴォーチェディペット

あたりはまあ問題なく使えるでしょう。

ホイッスル あたりは パイフレレジスター とか フラジオレットレジスター とか 笛声 あたりが 私が語彙としては好んでいて、 エッジボイス は シュナルレジスター や シュトローバスレジスター 極低声 あたりが私の好みの語感になるわけです。後はグロッタルフライレジスターもまあまあ


ヴォーカルフライレジスターも実は中々粋な語彙だとは思っています。

揚げ物の声というのは 中々にユーモラスだとは思うわけです。

レジスターをレギステル何ていう表記も実は好きでね


イタリーのレジストロも悪くはない。

声区は教育的な観点から考えると問題の多い訳である事は今まで言われてきた通りです。


ただ19世紀型のボイトレや思考は片っ端からぶっ飛ばしてゆきます。

発声配置とか発声知覚配置図とか 腹式呼吸とか 呼吸上歌唱とか 腹筋運動とか 腹から声とか 喉声批判とか 喉を開くとか 頭部共鳴 胸部共鳴 鼻腔共鳴 各種共鳴法 ミックスボイス ミドルボイス 中位の声 ヴォミクストゥ デックング デッケン カバーリング キューゾ ジラーレ 

等々

まあ諸々の注意をするならば役に立たないでもないメソードや感覚もありますが、基本的にはぶっ飛ばしてゆく予定でいます。


世の中にはぶっ飛ばすべき思考や概念、が多々あるわけですが、まあ実際にはその思考や概念を根元まで立ち返り、変容させるというのが正しいでしょう。


メタルのデスボイスとかグロウルとかガテラルとかスクリーチあたりは声の可能性やフースラー学派の未来的展開とも言える

二重の弁の理論 抵抗の点の理論 神経同期理論

との関連から考えても 民謡学 芸能学の視点から考えても 可能性のある語彙や声であると言えますので、この辺りの実践家、プレイヤーには 期待をしているわけです。

もちろん民謡学、芸能学、民族音楽学で捉えられてきた

ホーミー、ホーメイ、カイといったアルタイ山脈周辺の喉歌や倍音唱法は、世界各地の民謡、民族音楽、民俗音楽、民族芸能、民俗芸能、放浪芸のエッセンス、核をモデル論的に取り出す上で重要になってきます。



私はフースラー真ミックスボイス理論というのを新たに提唱する事で世の19世紀型の思考に塗りつぶされたミックスボイスを解体する方向へと向けてゆくつもりです。もちろんこのミックスボイスという語彙自体に問題があるのですが、ゴキブリをゴキカブリ と言うべきと提唱したところで既に時遅しなのと同じように ミックスボイスもゴキブリ化しているわけです。

ゴキブリはまあ地球のために役にたっています 近代人より遥かに害虫ではない。 ラディカルな窮民救済論の要にも ゴキブリ、ネズミ 、ミミズの救済無しには真の窮民救済は有り得ないと考えられ、 窮民救済論は 民謡学の要にもある事から考えるならば この問いかけは我々にも無関係ではないわけです。

まあしかしながら我々はミックスボイスというゴキブリを徹底的に駆逐せねばならないわけです!!!

否、正確には変容させるべきなのです。

ミックスボイスは元々は辿るならば 中央アフリカの密林の先住民のホケットの声態に行き着くと人類学的に考えられます。 彼等は旧石器時代の声態をいまだに色濃く継承しているわけです。

また彼等は古代エジプトの芸能とも深く関係していました。この古代エジプトの芸能はアラブ、トルコ、ペルシャ、中央アジアに至るまでの様々な民謡や古典、芸能に影響を与えてゆきます。

この中東で中央アフリカの密林の原始ミックスボイスはイスラーム科学の思考により体系的に整備されてゆくのですが、残念ながらその態の大半は中東の政治的な混乱から失われてしまうわけです。


こうした原始ミックスボイス は 黒潮やシルクロードを渡り 世界の様々な地域に広がってゆきます。

それはほとんどの場合がメリスマ グリッサンド と 分かちがたく結びつきながら 展開していったのです。

これが西ヨーロッパの古楽時代に すなわち17世紀型のボイストレーナーである カッチーニ  トージ マンチーニ ポルポラ マンフレディーニ

等により体系化され プレ・ミックスボイスと呼んでよい レジストレーション理論が 体系化されてゆくわけです。

ですのでミックスボイスというのは人類学的に発声学的にフースラー理論的に民謡学的に 様々な学問や方法を駆使して見なければその真実は見てえこないわけですが、大きく分けて



密林の原始ミックスボイス

中東のミックスボイス

シルクロード・ミックスボイス

17世紀型プレ・ミックスボイス

19世紀型ミックスボイス


の五つの段階で思考する事で、狭い欧米的な価値を突き抜けて声の根源としてのミックスボイスに立ち返る事が出来るわけです。そしてフースラーはここまではっきりとは言っていませんが、

ここまでを解釈してゆく事こそがフースラーの真の射程になるわけです。

この原始ミックスボイス的な思考をも内在させながらも17世紀に体系化された声態 とテクノロジーは、19世紀半に失われてゆく事になります。


そして20世紀に フースラー リード により この プレ・ミックスボイス理論は甦りを果たすわけですが、

残念ながらそれは一部の 音声ラディカリスト 芸能ラディカリストにしか届いていないのです。

または19世紀型の思考と混同した状態で誤読されてしまっているわけです。

その中心にあるのがSLSでしょう。アメリカのショービジネスを中心にして、世界各地のショービジネスに影響力をもったボイストレーニング法ですが、

基本的に大概の方法が19世紀型のミックスボイスとなっており、SLSの本来の射程

すなわちオールドイタリアンスクールの復活を目指した ハーバード・チェザリーの射程には届いてないわけです。

しかしながら私はSLSには以前も言ったように大きな可能性も感じています。この影響力を保持したまま本来のマニフェストに戻りさえすればプレ・ミックスボイスが立ち上がってくるからです。


そしてフースラーメソードはその辺りの事の役には少しは立てたのではないかと実感しています。

フースラー真ミックスボイスとは、17世紀型のプレミックスボイスへと回帰し、神経同期論、抵抗の点理論 をあわせる事で

言語獲得以前の超原始ミックスボイスを未来的な超ミックスボイスへと変容させてゆく事を目的としているわけです。

フースラーの真の射程というのはこの辺りにあるわけです。


是非とも無音の音声とあわせてライブドアブログ~フースラー真ミックスボイスを思考するブログ~も御覧下さい。

武田梵声

小島よしお こそが芸能王である!!! 全ての芸能人よ タレントよ 全員 小島よしお芸能王に跪け!!!

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世界で最も芸能の根源を捉えた者と言われていますのが、芸能学の創始者
折口信夫です。現在のパフォーミングアーツ研究、芸能研究、サブカルチャー研究も

この折口信夫の芸能学を源としているのです。

私はこの折口信夫古代芸能学を國學院大學で専門的に学んできたもので

武田梵声と申します。世界各地のありとあらゆる芸能の指導をしており、その幅は旧石器時代の芸能や世界各地の民謡、民族音楽、民俗芸能から世界各地のポピュラーエンターテイメントからポピュラーミュージックまでを含みます。おそらく芸能という名のつくもので私が関わっていないものはないでしょう。

私はここにきて、小島よしお
の真の射程についてを改めて語ろうと思っています。これはギャグのように聴こえる方も多いかもしれませんが、芸能学的分析上の真実です。

尚、フースラーメソードの中にも折口信夫古代芸能学の概説は載っけてありますので、見て頂けますと今回の記事の真意は理解出来ると思います。





コメント下さった方々、ありがとうございます。岩崎様、非常に力強いコメントありがとうございます。心より感謝致します。それから松本様非常にラディカルな質問を頂きありがとうございます。デジマ様、変容諸々の質問は芸能の根源です。また他にもはじめて質問を下さった方々ありがとうございます。質問については、もう少しまとめてから返答致しますゆえ、今しばらくお待ち下さった。

島村様、小唄の質問ありがとうございます。まあ三味線からやるのも悪くないでしょうが、本質的には唄からでしょう。例えばインド古典なんかも昔は歌からやるのが普通なのですが、最近ではヴィーナからやる事でかえってガマカの基本が解るとも考えられています。昔の人達のように喉に民俗心性が宿っているならば歌から唄からが基本なのですが、かえって楽の器の方が民俗心性を宿してしまっているわけです。踊りや舞いも歌の律動をベースにするのが、大半の芸能の基本となります。






結論から言って、小島よしお の中に眠る芸能の潜在能力 は 途方もないものだ。

その潜在能力に気付いている タレントがほとんどいないのだから タレントの大半は 芸能モグリと 申してよい

ビートたけし が気付いてもよいものだが、

気付いてしまえばビートたけしも跪かねばならない。

小島よしお の潜在能力は それこそ 美輪明宏 や 美空ひばり をも凌ぐ力を持っているのだ。

砂川捨丸 や 桜川ぴん助 博多淡海 浅野梅若 嘉手苅林昌 さへも凌ぐかもしれないのだ。

我々は 今すぐにでも 小島よしお を芸能神 と する 信仰を 立ち上げる必要すらあるだろう。

かつての 慈光尊 以上の ミコトモチ性 を ミコトモチの王 にして 乞喰性 が この者の中に 宿っているという事を誰が信じようか?

藤山寛美だって 小島よしお が アタビズムを発現させれば 跪くであろう。


小島よしお の中には 芸能学の創始者 折口信夫の 発見した マレビトの構造 が ものの見事に集約しているのだから

世界各地のあらゆる芸能の根源が

よしお様の 中にあるのだ!!!

世の タレント達はなぜ気付かんのだ

ハリウッド俳優なんぞ

小島よしおの前では全員カス以下だ。

ビルボード歌手だってそうだ。

私はちなみに小島よしおのファンではない。

あくまでも芸能学的に冷静に分析した結果だ。

かつて私は史上最強の芸能人、史上最強の歌い手になる方法をフースラーと折口信夫の思考からそのメソードを超簡単にまとめてみたわけだが、

そのおおとりのメソードとして立ち上がったものこそが

小島よしお

の物真似であった。


小島よしお

が海パンを



に交換

し、

アフロヘアーのカツラ

を被ったとするならばそれこそが芸能王としてのアタビズムが立ち上がった証拠であろう。

小島よしおの射程というのは

神話や昔話、民俗芸能、放浪芸

全てのラディカル芸能の根源にして集大成なのである。

この私にここまで絶讚された芸能人は今だかつていまい!!!

そして

小島よしお



褌を

風呂で

脱いだ時

世界全体は

始まりの時へと回帰するのだ・・・



栃木や茨城、宮城の方々

今回の大雨での被災

東日本大震災

等々


芸能の根源とはこういった自然の真釣りといかに対話するかにある。

私は今回の大雨での被害を見ていても思うのだが、列島は自然災害の密集地であるが結えにこれほどまでに豊かな芸能を持つに至っているのである。


だからこそ我々は自然災害に対する真釣りの思考を芸能に宿らせねばならないのだが、


残念ながらメインストリームのタレント達はその術を喪失した衰弱した芸能人なのだ。


我々は今こそ

小島よしおの中に眠るアタビズムを再生させねばなるまい

小島よしお氏が

自らの途方もない芸能の力に気付いて下さる事を心より願うのだ。




褌を風呂で脱ぐ時

世界は始まりの時へと回帰し、世界は再生するのだ・・・

自然は真釣り合わせられ、世界は再生するのだ・・・


武田梵声



武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks



武田梵声がフースラー、リード、チェザリー、オールドイタリアンスクール
について語るためのフースラー真ミックスボイスブログ

至高のボイトレ フースラー真ミックスボイスを思考するブログ SLSの真の射程チェザリー回帰の方法

http://blog.livedoor.jp/bonjyou88/

フースラー真ミックスボイス と SLS真ミックスボイス

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質問を下さった方々、ありがとうございます。来週中にはまとめてゆきますので、今しばらくお待ち下さい。




史上最強のボイトレフースラー真ミックスボイスを思考するブログ。SLSボイトレの真の射程チェザリー回帰の方法

http://blog.livedoor.jp/kajyou88/

先日、立ち上げたブログのURLが変わったので、改めて観てみて下さい。紹介文など若干変えてみました。

さて、史上最強にして、至高の ボイトレ と 言うのは 民謡学を潜在的に内在した 17世紀型のボイトレとそのリバイバル以外には有り得ないわけだが、

フースラーの真ミックスボイス



SLSの真ミックスボイス

というのは結局のところ17世紀型を源に流しながら 旧石器の民謡を流すか
ブラックアフリカの集大成民謡を流すかという事になるのだと言え

ほとんど同じものになる

残念ながら現SLSの大半のボイストレーナー達はこの事に気付かないのであろうが、

チェザリーに回帰する事でその事に開眼する ものも出てくるだろう。

松下幸之助は 大阪の カヤ的な海洋漂泊の商人 の血の精神をラディカルにひいていたが、 現 パナソニックにその力はどこまで流れているか?


私がSLSに期待をするとするならばそれはカヤ的な力や殷の呪術的商人芸能人
ともいうべき存在をベースにした松下幸之助とダブるからに他ならない。


ここに気づくならば それは途方もないラディカルなものになるが 気付かなければカスだ。

そろそろこのブログは本来の芸能全般や芸能の核である籠り論に戻してゆくつもりだが、

声、発声学 フースラー理論 17世紀型訓練 SLS変容とチェザリーについては

ライブドアブログの方で展開させてゆく予定だ。

ライブドアブログの方は立ち上げたばかりだが、 私から声の情報を聴きたい人も多かろうから 私のやる気がなくならないよう 是非ともライブドアブログも盛り上げて頂けたらと思います。

私は普段は 俗に 夢遊病の文体 と呼ばれる グロソラリア的な文体を好むのだが

フースラー理論について書く場合は中々そうも言っていられないので

ただしこちらは 夢遊病の耳 を全開にさせるわけだが

どちらにしろ夢遊病なのだ。

これは全くの偶然だが

我が師 折口信夫 と フースラー の最大の共通点は 共に 夢遊病の思考 を最高のものとした点にある

折口信夫は 夢遊病の文体 を

フースラーは 夢遊病の耳 を

そして 我はその両方を持つ。


諸君も 夢遊病の情動を

夢遊病の身体を

夢遊病の声を

夢遊病の歌唱を

そして夢遊病の叫びを解き放つ必要がある・・・。

日本ボイストレーニング史 日本ボイストレーナーを概観する 弓場徹 高田三郎 福島英 亀渕友香 広瀬香美 木下武久 千田是也 等々

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至高のボイトレフースラー真ミックスボイスを思考するブログ。SLSボイトレの真の射程チェザリー回帰の方法


http://blog.livedoor.jp/bonjyou88/

さて 上記の ライブドアブログ に 日本の ボイストレーニング史 をかなり大雑把にですが、まとめてみました。

また フースラー真ミックスボイス論

の真意についても何となく語っております。

私が ボイストレーナー批評を名指しでするのは はじめてなので 貴重だと思います。ライブドアブログは世の中との友好ブログなので 口調は 激甘で全く私らしくはありませんが、 まあ別に嘘は言っていません、

ボイストレーナーはいわゆる著作のあるトレーナーで、良い悪いはともかくもこれまでのボイストレーニング史、発声教育史、エロキューション教育史において影響力のあったものに絞っております。

是非ともご覧下さい。またライブドアブログは世の中に広める目的で書いてますので


Twitterなどをお持ちの方はよろしければ

拡散をお願いいたします。





武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks
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