Quantcast
Channel: 無音の音声~むおんのおんじょう~
Viewing all 231 articles
Browse latest View live

フースラー真ミックスボイス SLS真ミックスボイス ファルセットからヘッドボイスへ ファルセットからファリンジルへ ミドルボイス解体

$
0
0
史上最強のボイトレフースラー真ミックスボイスを思考するブログ。SLSボイトレの真の射程チェザリー回帰の方法

http://blog.livedoor.jp/bonjyou88/

さて 上記の ライブドアブログ に
フースラー真ミックスボイスについての新しい記事をアップしましたのでご覧下さい。


金城様、コメントありがとうございます。これは中々に素晴らしい質問ですね、また後程コメントさせて頂きますが、寺山やフルクサス運動が捉えてきた地平とも重なりますが、我々の射程は彼等も比べ物にならない程の古代に到達していますので、中々に難しいのですが、様々なトラップが考えられます。その最大のトラップの一つに東京オリンピックがあるように思います。

川崎様ありがとうございます。精神の浄化力が高いものですと

証のあうあわないもあるので一概には言えませんが、例えば中医学(いわゆる中国漢方)で最も強力なのはサソリを使うものと言えるでしょう。風邪をひきにくくするにはいわゆる補気剤をつかっていきます。解毒作用で最も強力なものに出雲の薬でハクシュウサンという漢方薬がありますが、これらも証をみない事には何とも言えないのが現状です。補中益気湯あたりはファーストチョイスとしては、無難なものかもしれません




武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/s?ie=UTF8&fi eld-author=%E6%AD%A6%E7%94%B0%20%E6 %A2%B5%E5%A3%B0&i=stripbooks

折口信夫芸能論 原始 ミックスボイス考 グロソラリア サジュウ オートマティズム、御筆先、言語アーラヤ識、アンザッツ5ガムそして咒言

$
0
0
折口信夫芸能論 を専門としている武田梵声です。フースラーメソードは民謡学のライフインデキスであったフースラー発声学と 折口信夫芸能論 の二つの思考から描いたものであり、どちらが欠けても読む事は出来ない。

折口信夫芸能論 は世界各地の旧石器時代から現代のポップカルチャーまでの芸能という名がつくあらゆる現象の根源とその展開の構造を捉えたものであり

宗教、芸術、パフォーミングアーツ、文藝、学問等々の全てを

芸能という語彙で総合的に捉えてゆく射程をもっている。

折口信夫芸能論

は、芸能を最も深くまで捉えた

芸能研究者にして芸能学の祖であった

ただ残念ながら

折口信夫芸能論

はほとんど国文学、民俗学、人類学の中での展開しか見られず机上の論としてしか展開されてこなかった。

肝心なパフォーミングアーツ教育の中に

まれびと を置くという事を行ったのは、私のフースラーメソードが世界初であろう。

その意味においても芸能教育史の中でフースラーメソードの存在は大きな意味を持っているし、持っていかねばならないと思っている。

極論、私でなくても構わんのだが、

まれびと やそれに相当する芸能の根源存在を基層においた芸能教育が行われない限り、真の芸能教育にはなりえないのだ。





武田梵声のレッスンは

オルフェ音楽教室まで

武田梵声の著書

『ボーカリストのためのフースラーメソード』(リットーミュージック刊)

『こどものための究極正しい声のトレーニング』(リットーミュージック刊)





グロソラリアの授業をしている。ロシアフォルマリズムの技法であると同時にその構造は、各種アバンギャルドから旧石器時代の原始古代の基層にまでも射程を伸ばすものだ。


折口信夫芸能論 の基本の基本は咒言にある。

まれびと の咒言


ほかいびと の咒言

だ。


そして エラノス的思考の原初


カーヒン の サジュウ

にこそあるだろう。


古代インドの籠りの態で 最も強力な力を持つものもこれであるし、

浪花節の語彙が 地下芸能 バレ芸能と結びつく事で至高の表層思考解体力を持った超越的なグロソラリアも列島において発生しているのだ。

中山みき

出口なお



おふでさき

シュルレアリスム



オートマティズム

もこれらの地平と重なる


本田霊学 あの 鎮魂帰神法 の根源にある態というのも

ASC少女の わざうた

であった。

わざうた とは

民族音楽学の

小泉文夫

原始主義の コダーイ や バルトーク
等が 原初の歌 ウアソングとして 捉えた

伝承童謡 の中でも 最も原初的な伝承童謡形態として知られるものだ。

グロソラリア の授業は 強力なASCを持つ ほとんどの 我々の思考や情動のゴミはこれにより解体し

アナロジー的な言語 ソシュールが あのゲルマンの指輪物語から発想した 分節言語の 根源に常にドローンの如く流れる 歌 ポエム の地平

アントナン・アルトー の オノマトペ や 叫び の地平 情動のアストリート の地平が 顕れてくるのだ。

声 も 身体 も 情動 も 思考 も 言語 も 近代思考により

抹殺された

零時 の地平がヒエロファニー する

全ては解体され




脱魂 と 神の充満


というエラノスの捉えた 古代芸能 と 未来芸能の


至高の地平が 発生する 回帰するのだ。

井筒のいう

意識の零ポイント

更には 言語アーラヤ識 の地平も捉えてゆく事も可能であろう。


身体は 抹殺された 身体を 命懸けの生きる死体の地平を 原初歩行やヘンベ ヘンバイ をしだす

宇宙のライフインデキスたる一枚の布きれは 踏まれ踏まれて

世界は 宇宙 は 解体 と 再生 と インイロテンポーレ の全てが交錯した地平を 顕し ては 消してゆくのだ。

陰陽師 達 の コング 達の

ヅクシ の根源的な地平もここに重なりを持ったものだろう。


韻文から 散文 への メインストリームの以降は 19世紀半ばの 西ヨーロッパの 特に 同時代的風俗劇的な思考やモラルセンスによるものだっただろう。

それは我々の中の生活にあった 節という節を

抹殺された節を 文字通り 抹殺した犯人であった。

それを取り戻してゆくには

まれびと の 咒言 と カーヒンの サジュウ が 重なる 地平が必要だ。


抵抗の点 と 神経同期力 を最も発揮するのは

5のガム であろうか


グロソラリア は5ガムを中心としてゆく

例えば 中東のミックスボイス が クルアーン や アザーン の ベースとなる サジュウ との関わりを根源に持つと考えるものが 私以外にいるだろうか ? だがこれは事実だ

後はマタンガやハウルーがこの流れの原初形態すなわち 原始ミックスボイスとの関係を持っている。

モガリとかも原始ミックスボイスの養成を行うものとして再構築させてゆく事も出来よう

特にマタンガはアフリカの芸能の一つの要でもある。

我々は 原始ミックスボイス をここから捉えてゆかねばなるまい

言語獲得以前の 至高の声態は

確実に 死の領域 と 生の領域が交錯した地平にあり それはどちらかというならば 我々のイメージでは 死の香りの方が強い。

原始ミックスボイス トレ というアフリカ最古の神 や精霊との対話さへも可能とするのだ。


それゆえに ミックスボイスとはそもそも我々の領域のものであり、 近代人ごときが 扱える代物ではないのだ。

そして異界 の 極致 ASCの 極致は

抵抗の点 神経同期 弾性的足場枠 グロソラリア が 交錯した 時 はじめて
顕れる

折口信夫芸能論 は まれびと のこの状態から あらゆる 芸能分化理法が拡散してゆく 様を捉えたのだ

ビートたけし の 浅草キッド SLSボイトレ SLSミックスボイス の変容 折口信夫 古代研究 折口信夫 死者の書 折口春洋

$
0
0
あらゆる芸能の根源を発見した 折口信夫 古代研究 折口信夫芸能論 を専門としている芸能教育者 武田梵声です。

全ての芸能教育は必ず折口信夫的思考を源とせねばなりません

またあらゆる音声芸能の根源的生理法則と訓練法の発見者フースラー発声学も私武田梵声の専門であります。



武田梵声のレッスンは

オルフェ音楽教室まで


武田梵声の著書

ボーカリストのためのフースラーメソード(リットーミュージック刊)

こどものための究極正しい声のトレーニング(リットーミュージック刊)




武田梵声のフースラー発声学、コーネ
リウス・リード発声学、チェザリー発声学、オールドイタリアンスクール発声学、SLSボイトレ SLSミックスボイス チェザリー回帰思想 ミックスボイス裏声の効果 等について語る ブログは


ライブドアブログ

至高のボイトレ フースラー真ミックスボイスを思考するブログまで


(以下の検索ワードでも出てくるようです。


SLSボイトレ


SLSミックスボイス


ミックスボイス武田梵声


ミックスボイス裏声


フースラー真ミックスボイス)


さて、ビートたけし が 浅草キッド を13年振りに 歌ったとの事。

この歌はやはり 最後の浅草の姿を顕していて 貴重な歌だと思う。

近代大衆芸能と古代芸能を繋ぐ地は浅草であるわけです。

十二階から浅草公園六区へ、

ビートたけしの師匠 深見千三郎は最後の浅草芸能人であった。

ビートたけし はこの 浅草の芸能の香り をどこまで メインストリームに残せるかが 彼の芸能人としての本当の価値になると言える。

フランスの映画賞 など それに比べたら カス以下と言えよう。

浅草キッド を歌う事の方が カンヌやオスカーを 百万回受賞するより 遥かに価値のある事だと 私は師匠である折口信夫に誓って言いたい・・・。

ビートたけし は 浅草がおいらの原点と語ったという。

現代の漫才師達は 放浪芸 シュクトウ芸の
原点にして 至高である 萬歳 の精神をどこまで受け継いでいるだろうか?

日本のあらゆる 文化の エソテリスム オカルティズム の体系化を図りながらも アメーバの如く増殖をした 陰陽道が その萬歳の一つのロジック化に関わっている事をどこまで認識しているだろうか?

萬歳師とはそもそもコングにして陰陽師であり、 ほかいびと であった。

ギリヤーク尼ヶ崎がその原点に 出雲阿国をおいた時の

大道芸の原点に出雲阿国の名を語る時の

その出雲阿国はまさに真実の阿国の姿だ

我々は近代的な大歌舞伎によりハイカルチャー化した 阿国像を知らず知らずの内に 影像魂化し くっつけている


折口信夫 古代研究 や 折口信夫 死者の書 の一つの原点に

ヴントの 影像魂 理論がある事は間違いあるまい

死者の書 の原点には 古代エジプトの
原始ミックスボイス が最初の体系化、ロジック化されてゆく地平もある事だろう

もちろんこれを 二上山の信仰 中将姫伝説 日想観 古代太陽信仰 と シンクレさせてゆく

更にそのさきには 空海 や 景教があり、 更には 折口春洋 がいた事だろう


原光景としての

藤無染 と 折口春洋

死者の書 の 至高はそこにあるのだろう。


萬歳というのはこうしたとてつもない芸能の根源的地平を背負い 放浪するもの なのだ


そして浅草には その 放浪 と 未来が交錯していた

ビートたけし はその事を伝えねばならない と思う 浅草の最後の空気を知る者として


そして 浅草キッド はそういう歌なのだ・・・

折口信夫 古代研究 死者の書 まれびと ほかいびと ~原始 ミックスボイス ~

$
0
0
武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

ボーカリストのためのフースラーメソード(リットーミュージック刊)


こどものための究極正しい声のトレーニング(リットーミュージック刊)




武田梵声のライブドアブログ

(フースラー発声学、リード発声学、チェザリー発声学、オールドイタリアンスクール発声学に特化したブログで、ミックスボイスの歴史を遡り、旧石器時代~言語獲得以前の原始ミックスボイスの再生を目指すためのブログです。)


至高のボイトレフースラー真ミックスボイスを思考する。SLSボイトレ SLSミックスボイス のチェザリー回帰の方法を思考する。




SLSボイトレ

ミックスボイス武田梵声



等の検索ワードでも出てくるようです。




芸能に関する108の質問


金城様ありがとうございます。

さて、ルソー以降 西洋人や近代人の間でも この 古代的心性を 甦らすための 祝祭性 の復活は 究極的な方法として思考されてきました。

その極致にいたのが マラルメでしょうか

マラルメにより カトリックのミサ やワーグナー は 祝祭のモデル 古代芸能のモデル として捉えられ、オリンピック や ワールドカップ スポーツ観戦 更には テレビ世界同時中継 等にも マラルメ的な祝祭概念は応用可能と考える研究者も出てきています。

これらは確かに大きな可能性はあります。デュルケムも指摘しているように

集団は沸騰を発生させやすいわけです

しかしながら 秘密結社が喪失した近代において こうした 籠り や 瞑想 沸騰により 発生した


ヒエロファニー や ヌミノーゼ や

古代的心性 にたとえ出会っても 日常レベルにはほとんどおちてこない ロジックとして 取り出せないという事が言えるわけです。

例えば エラノスでも 重要な考えとなった

中空構造論 は現代の日本人の中にも蠢く 精神 や 思考の根源にある原理と考えられますが、 それを 取りだして動かした中にいる 変な言い方かもしれませんが 中空構造 の アフォーダンス を実感している人は少ないのが現状といえます。


後は先日もお話しましたが

テーマパークのマシーンは 全て 未来派いわく 変容のためのマシーンです

特に 旋回系 スピード系 落下系 はそうでしょう お化け屋敷 などももちろんそうです。


ジェットコースター ティーカップ

観覧車 等で 我々の情動は 近代人の情動は 変容に向かう筈なのです。

車 飛行機 バイク 自転車 どれもスピードは変容性を含みます マリネッティ率いる未来派 は 人類が新なスピードをてにする度に 狂喜したわけです。 我々は更なる変容に向かえるのだ!!! と しかし残念ながらそうはなりませんでした

宇宙ロケット や 星 惑星 の 想観は

月輪観 や 日想観 を 未来芸能にまで解き放つ可能性を持つ事は確かで 実際 宇宙に行った 宇宙飛行士達の多くも
ある種の変容体験は語りはします。しかし・・・

現代のクラブカルチャーも MDMAと共に アンダーグラウンドブラックカルチャーと共に 変容性 を多く含んだ文化現象の筈です。 これは ヒッピームーブメント フラワームーブメントの子孫なわけです。 彼ら彼女達の中でも

ヌミノーゼに触れているものは 毎晩 何人も出ている筈なのです。 少なくとも 脳波分析 や 大脳生理学的な分析 報酬系 や 懲罰系 の分析をするならば
彼らに変容は訪れてはいるでしょう。


しかし・・・

ベケット

の戯曲~ゴトーを待ちながら~のように結局 近代というのはそういう空間なのかもしれません、 ゴトーに会っているかもしれないのに その存在に気付く事が出来ていない。

我々は 最高の変容の機会を与えながらも 何度も 逃し 今度こそ と 思いながらも また逃してしまう・・・

まあこれは 相当に 瞑想 や 籠りを修練しているものでも 多かれ少なかれ 同じでしょうが、


近代のサイトシーイング現象を上手く防ぐ事が出来た時

近代生活~アフリカ段階の生活までのすべてが

瞑想空間 籠り空間 に 一気に変容する事でしょう

オーロビンドゴーシュ

瞑想都市空間 は いきなり 顕れる可能性すらある

マラルメの 祝祭空間 も いきなり顕れる可能性もあるようにも思うわけです。




松本様。吸気の質問ありがとうございます。


これもダーウィン以降 発見された法則ですが、類人猿の中には 呼気発声と吸気発声とを行うものもいますし、 全ての動物が吸気発声というのは 例外もあるようです。 人類もアフリカ的段階の芸能や言語の中には吸気発声を伴うものが残っている事から原初のホモサピエンサピエンスもかなり 吸気発声は行っていたと考えていいと思います。
現代の赤ちゃんが吸気発声になるか否かですが、クーイングや ボーカルプレイの中には 世界各地の様々な言語の音響が含まれていますので マザーリーズの段階で そうするならば そうなる可能性は高いかもしれません、 実際 吸気発声が残っている言語の文化圏ではそのようにし、その言語や発声を子供達が習得しているわけですから、
素晴らしい質問を頂きありがとうございます。


川崎様 浄化、解毒の芸能は

そうですね 北米インディアン の ズニ の芸能マルセルモースの民族誌により報告されたもの や ラコタスー のサンダンス等は浄化力を含みますね 南米のインディオの芸能の特徴もメディスンマンによる 治療芸能ですし、ジョーギーの クリアヨーガも浄化のための籠り態にして芸能と捉えてよろしいでしょう。
日本の放浪芸の祓う芸能というのも浄化、解毒の芸能です。
人形回し、琵琶法師、祭文がそれにあたります。




デジマ様ありがとうございます。

脳内変容のための様々な事は上記の祝祭や瞑想曼荼羅都市空間の中で語った事とやや重複してしまうのですが、

思い付くままにあげてゆきますね


旋回系の遊び

目眩系の遊び、

チーズを食べる、

チョコレートを食べる

ボーっとする。いわゆるデフォルトモードネットワークです。

とにかく走る。すなわちランナーズハイです。


泳ぐ。かつてインド哲学者が最も瞑想的な近代スポーツは水泳と答えたわけです。


桜木花道と流川の真似をする。半分冗談半分ですが、このスラムダンクの最終回シーンは、いわゆるスポーツ選手の至高のメンタル状態にして、身体性とされるゾーン感覚をよく顕していると考えられているものです。


ブランコに乗る。私のブログによく登場しますが、ブランコはかつてユサハリとかプレンカと呼ばれ冬至の太陽を再生させるための魂振りの装置でした。折口信夫の ほかいびと や まれびと のモデルとなった 台湾蕃族の最大の芸能もブランコによるものでした。当然少女を変容させ、太陽と世界の魂振りを図るわけです。 基本的にカイヨワの遊び学やフェイゲンの動物の遊び行動学から言ってほとんどの遊びと遊具は多かれ少なかれ変容性を含みますし、伝承遊戯、伝承童謡の大半は古代芸能の変容態が信仰を喪失したものと考えられています。

酒を飲む

煙草を飲む

サイケデリックスを飲む

テーマパークの乗り物に乗る(未来派的変容)


車に乗る(未来派的変容)


飛行機に乗る(未来派的変容)


炊事、洗濯、掃除(カルマヨーガ、ワーク的に)

食事をする(カルマヨーガ、ワーク的、アエノコト、直会的)

歩く、座る、様々な座法(禅的にもしくは、アクシスムンディ論的に)

性行為

眠る(夢を見る、アーキタイプに出会う、エラノス的な超芸能の原点)

殴る、殴られる、怒鳴る、怒鳴られる(懲罰系の脳内麻薬の発生)

サクリファイス

通過芸能、通過儀礼

タトゥーを彫る(通過芸能的変容)

砂利道を歩く、枯れ葉道を歩く(ハイパーソニック音響による変容)

チベットの法具を中心とした民族楽器の音を浴びる

ノイズを浴びる

呼吸をとめる(クンバカ)

息を長く吸う(アーナパナサティ的)

息を長く吐く(当世流行りの瞑想呼吸)

息の真釣りを感じる(オキナガ的)

寝ない(2日以上)

食べない

恋愛をする(peaの放出)

ワールドカップ、オリンピック(集団沸騰)

ギャンブル(ギャンブラーズハイ)

金をつかいきる(トウジン、サクリファイス型)

笑う(バタイユ的変容)

牛と闘う(スペイン的、ディオニュソス的変容、ミノス的変容)

熊と戦う(ボーパ型)

クラブで踊る(ヒッピー残党、集団沸騰型)

各種瞑想

各種籠り態


鏡をみる(ミカガミギョハイ型)

風呂に入る、温泉に入る(ユカワミズ型、廻立殿型)

天狗の真似をして二階から飛び降りる
(セネストパチー型)

笹の葉を振りシャッ!シャッ!という音を聴く(原始神楽型)

ジャンプする(踊り型)

蕎麦をすする(みょうこうさん型)

冬眠する(原始籠り態型)

だだっ子の真似(ヘンベ型)

泣く(泣き女型)

グロソラリア

オートマティズム

オノマトペ(アルトー型)

叫ぶ(アルトー型)

抹殺された所作(暗黒舞踏型)

農作業(アスコナ型)

影と踊る(ラスコー型)

影と一緒に絵を描き、絵の中で影を踊らせる(ラスコー型)

出産(縄文ビーナス型)

銅鐸を破壊する(弥生型魂振り)

ホト、ヨーニ、リンガを森羅万象にむける(原始魂振り型)

等々 多分一生言えそうです・・・が大半が危険なのでやらないようにお願いいたします。



類化性能 アナロジー メタファー メトニミー の訓練ですが、

基本的には なぞなぞ とか 駄洒落 で鍛えられます。 後はシンダレラごっこ
です。 神話 昔話 も アナロジーの宝庫ですし、 何よりも ご自身の夢(睡眠時)を分析なさるのが 至高のアナロジーの発現が行われている事に気づかれるでしょう。 夢とそのアーキタイプはエラノス的思考の根源ですから、
後は詩や和歌ですね、こちらもアナロジーの宝庫です。何よりも芸能そのものもがアナロジーの集大成です。




心が疲れた時に何をすべきか?


様々な方法がありますが、東洋神秘主義的呼吸法でいわゆるセロトニンを出す方法なんかありますが、禅病とか籠りのやりすぎだと逆効果でしょうね
我々は芸能や瞑想、籠りの専門家ゆえに白隠禅師みたいな強迫性障害のような神経症的なパラダイムに陥った場合は、あまり籠りや瞑想が役にたたない場合も現実的には多いでしょう。これも時間をかければ、その内に抜けてきますが、やはりその間の魔境感覚は恐ろしいものがあります。基本的には漢方薬がお薦めです。ミンハオや柏子養心丸が無難ですが、証にあわせて様々です。 抑肝散は一般化されていますが病名漢方ほど馬鹿げたチョイスはないように思います。 タイナイフウドウ のような 激しい心の疲れにはやはり 蠍がよく効きます。これぞ 中医学 中国漢方の奥の手です。

折口信夫 古代研究 死者の書 まれびと ほかいびと 原始 ミックスボイス すべては変容のために・・・フローティング

$
0
0
武田梵声です。ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

ボーカリストのためのフースラーメソード(リットーミュージック刊)

こどものための究極正しい声のトレーニング(リットーミュージック刊)


武田梵声のライブドアブログ

武田梵声がフースラー発声学、リード発声学、チェザリー発声学、オールドイタリアンスクール発声学について語るブログ

至高のボイトレ フースラー真ミックスボイスを思考するブログ SLSボイトレ SLSミックスボイス チェザリー回帰の方法





変容への質問の追加です。

迷子が母親を見つけてお母さん!!と駆け出してゆく・・・その瞬間

(いわゆるフロー感覚、フローティングの感覚)

川島なお美 と 代替医療 サイモン・シン 死生学 漢方 中医学 アーユルヴェーダ ユナニ医学 シッダ医学 メディスンマン 治療芸能

$
0
0
川島なお美 の最後の言葉が ごめんね ごめんね ・・・ だったというYahoo!ニュースの見出しをみた時になぜだか涙が止まらなくなった。

それが何故なのかは解らないのだが、

川島なお美さんに特別な思いがあるわけでも 生前に注目をしていたわけでもないのだが、 人の生命の何かを何となく感じて 涙がとまらなかった・・・

川島なお美 が 代替医療をしていたという事もかなり 意見の対立を生んでいるようだ。

代替医療はかつて サイモンシンにより徹底的に批判されたが 残念ながらサイモンシンの批判自体がおかど違いである。

そもそも代替医療の多くは西洋の自然科学とは全く異なる思考法から生まれているため 西洋医学的な発想からこれらを批判する事自体がそもそものおかど違いというのが、 人類学や民俗学を少しでもかじった事のあるものならば容易に解る事であろう。

私は折口信夫の民俗芸能学 や音楽人類学を専門としているもので武田梵声と申します。 あらゆる芸能発声の根源を極め、ボイストレーニングのバイブルと呼ばれた フースラー発声法 や インド哲学 も私の専門となります。


インド哲学をやっていますから アーユルヴェーダ や シッダ医学 それから ヨーガ各種もそれなりにやってきており、漢方 中医学 フェルデンクライス身体訓練法 アレキサンダーテクニーク 野口体操 メディスンマンの芸能 まで少なからず 代替医療の実践もかじってきたわけです。

西洋医学の根源というのもユナニ医学にあり、ヒルデガルトのようなアジア段階に立脚した思考から生まれてきているという事を我々はもう一度とらえ直した方がいいでしょう。

西洋医学もバイロジカルにやらねばならない時代に入ってきているのだと思います。

もちろん代替医療の中には本当に貨幣増殖にしか興味のないような完全なインチキも多々ある事も確かですが、しかしながらそれは西洋医学とて同様です。西洋医の中にもそういう腐ったやからから 名医までがいるわけです。そして真の西洋医学の名医というのは やはり西洋医学が根源に抱えた ヒルデガルト的な地平 すなわち 治療芸能的な地平を根源に働かせているような者だと言えます。




癌の治療の選択というのは、患者の生命に対しての生命哲学があらわれてきます。 生きざまが顕れてきます。 その選択は 周りの家族や 友人にとってつらい選択や 信じがたい選択の場合もあると思います。

代替医療というのは、場合によっては信仰的な面さへも持ちます。 我々は 癌と対峙した時 信念を曲げて生きるのか? 生きざま や信念や誇り、信仰をとるのか?

近代が抱えた様々な矛盾の中に 立たされます・・・

どんな選択をとるにせよ 全て 命をかけた選択なのであり、

その選択の全てはやはり尊いものなのだと私は思うわけです。

例え それが寿命を縮める事になったとしても・・・

家族や友人も場合によっては必死に患者を説得するでしょう・・・癌という病の前で 様々な思想や医療 信仰 が交錯してゆくわけです・・・

この葛藤自体が やはり 我々に生きる事と 死ぬ事を 思考させる 我々に死生学を思考させるわけです。 我々の生きる近代は 死 が隠蔽された社会であるがゆえに 我々には 死生を乗り越える 実感をもった 思想や哲学が喪失しています・・・

死生を前に我々に出来る事は何なのか? 洋の東西を超えて あらゆる信仰を超えて 我々は思考 してゆくべきだと思います。

川島なお美さん 心から ご冥福をお祈りします・・・


武田梵声

折口信夫 まれびと 死者の書 ほかいびと 芸能論 原始 ミックスボイス SLSミックスボイス 変容

$
0
0
松本様、佐々木様、デジマ様、金城様、それから ~ 至高のボイトレ フースラー真ミックスボイスを思考するブログ ~への質問を下さった 読者の皆様 コメントありがとうございました。 少しコメントが遅れてしまう事もあり、大変申し訳ありませんが、ご了承頂けますと幸いです。 また、ライブドアブログで書いています。 ~至高のボイトレフースラー真ミックスボイスを思考するブログ・・・~ は どんどんと盛り上げてゆきたいと考えていますので よろしければ 拡散 や ご質問もどんどん頂ければと思います。 今後

ボイストレーニングやボイスカルチャー的な側面の強いコメントには無音の音声で受けたものでも、ライブドアブログで返答させていただきますのでご了承下さい。また芸能学や民族音楽学、音楽人類学、演劇学、宗教現象学的な側面が強いコメントに関しましてはこれまで通り無音の音声で返答させて
頂きたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

またこのコメントが伝わっていますかどうか解りませんが、ツィッターで私を絶賛されていたKen様という方、ありがとうございます。大変に励みになります。


松本様、お子様がビンキダブダを模倣なすったのは素晴らしいですね 子供は古代の鏡といったのは 柳田国男ですが、子供の情動や身体性や遊戯、言語獲得の仮定それから
クーイングやボーカルプレイの中にあるプライマリーヴォウェルズ等々 古代や野生の芸能の萌芽が多々あります。 11月~12月辺りにレッスン参加ご希望との事、ご連絡お待ちしています。因みにパソコンメールを弾いてしまう設定になっているため 携帯メールからか お電話でのご連絡でお願いいたします。 私のDOCOMOのアドレスと携帯番号が フースラーメソードのプロフィールページに書いてありますので そちらからお願いいたします。
では日々の精進頑張って下さい。

デジマ様、夢からの類化性能の鍛練
頑張って下さい。

金城様、エラノス 折口信夫 籠り それから 後は沖縄が重要です。 レヴィストロースの野生の思考 から 折口信夫の芸能論 ウイーン学派の人類学までが 沖縄芸能の思考をベースにしているのですから

佐々木様、ライブドアにて返答させていただきましたので是非ご覧下さい。










私達は折口信夫の思考から、思考、思想、哲学、宗教、信仰、芸術、芸能、経済、政治、王権、とあらゆる学問が発生してくる根源的な場を

まれびと



芸能

という語彙から捉え直してゆこうと考えているわけです。

折口信夫

の思考というのは、あらゆる学問や芸能の根源に到達してゆく力を間違いなく持っており、

私達はこの場にいた

実際の至高の芸能人でありました


ほかいびと

の芸能力を捉えてゆかねばなりません

更に古代芸能や古代宗教

更にはエラノス的な地平をも捉えた

死者の書

の珊瑚の地平を捉え直してゆかねばならないでしょう

芸能の根源としての珊瑚というのは南方熊楠が捉えた粘菌の地平とも重なりを持ちます。

そしてそれは

アフリカ的段階や

ラスコー人、縄文人



秘密結社の芸能や籠り、創造神話の地平とも重なりを持ち

その力はインド覚者や世界各地のエソテリズムの地平とも重なるわけです。

エラノス的地平ではあらゆる学問や思考が生まれてくる場は


ディオニュソス




カーヒンのサジュウ

からと言えます。

それは折口信夫の

まれびと





ほかいびと

と即です。

折口信夫の思考を机上の芸能論で終わらせるのではなく

芸能の実践の場に再生させてゆくところに我々の目的はあるわけです。

折口信夫の都々逸的な節回しを今一度
捉え直す事で

列島のオリジンも見えてきます。

我々は日本文化のオリジンも喪失した世に生きており、何やら近代的なものに塗りかためられた古代風のもの、近世風のものを日本的と勘違いしているわけです。

こんなものは全て叩いてゆく必要があるわけです。

かつて国学はどこまで古層にゆけたのか?

民俗学は?

学問や思考や芸能の発生地点を喪失した

腐ったヌミノーゼを引っ掻き回す学問、思考、芸術、芸能はほぼかすに等しい・・・



もう一度

我々自身が籠りによりヌミノーゼを捉え

まれびと



ほかいびと

にならねばならない・・・。


まれびと

ほかいびと

無き芸能なんぞ

ゴミの価値もないのだ・・・







世界最高のボイトレ フースラー真 ミックスボイス の専門家にして チェザリー リード が理想と考えたオールドイタリアンスクール真 ミックスボイス をも専門とする 武田梵声です。

また SLSボイトレ SLSミックスボイス の チェザリー回帰思想家でもあります。

更に古今東西の芸能の根源を捉えた折口信夫の芸能論をも専門としています。




武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで


武田梵声のレッスンは

オルフェ音楽教室まで

http://e-koe.jp/


武田梵声の著書

『ボーカリストのためのフースラーメソード』 (リットーミュージック刊)


『こどものための究極正しい声のトレーニング』(リットーミュージック刊)

折口信夫 まれびと 折口信夫 ほかいびと その構造と未来芸能

$
0
0
ある特定の時代の特定の民族のモラルセンスが唯一のものとして 思い込む事はよくある事だ。 そしてそれはその民族の中にいるならば まあ従うべきだ。

だが それを思考してゆく、芸能をするものであるならば そのパラダイムを超えてゆく必要がある事は言うまでもない。


我々が目指すべきは

超 まれびと であり 超 ほかいびと

である。

それは変容に変容を重ねてゆかねばならない。

あらゆる芸能を突き抜けた先に顕れる未来芸能

は その存在さへ知るものが少ない。

これまでに世に存在した最高の芸能を知るものも やはり全体的には少ない。

我々にとって人の勝手な美意識はどうでもよく

あくまでも 野生の力 と 変容 を起こす力 に 立脚した 芸能こそが 重要なのだ。

ほかいびと

という とてつもない 芸能人が 万葉時代にいた事は知っていよう。

万葉人 や オオクニヌシ の古代的心性 の縮図のような芸能人 だ。

この 力 が 分化 したのが 様々な放浪芸なのだ。

だから我々は 放浪芸 と 変容 を交錯させてゆく必要性があるのだ。

粘菌 の プライマリーヴォウェルズ 折口信夫 まれびと 折口信夫 ほかいびと その構造と未来芸能

$
0
0
武田梵声です。私は、あらゆる芸能の根源を捉えた折口信夫古代芸能学を専門とするものです。また言語獲得以前の古代人の声や歌の構造を捉え、ボイストレーニングのバイブルと呼ばれたフースラー理論を専門とするものです。



フースラーはかつて人は自由自在に歌う事が出来たという事を生理学的に解明しました。



そして人は言語を獲得した事で喉の筋肉、喉を吊る筋肉のバランスを崩し声を不自由にしてしまったのです。





フースラーはアンザッツという筋電図実験により導き出した7つの声により、この喉と喉を吊る筋肉のバランスを回復させる方法も発見しました。




これにより古代の歌い手や古代の芸能人達のように自由自在な声が手に入るわけです。





現代のボイストレーニングというのは、ジャンルの目的に偏ったものがほとんどであり、





それは実際にはボイストレーニングではなく、ボーカルトレーニング、




~もしくはモラルセンス的なボイストレーニングと言えるでしょう、モラルセンスとは芸能学における術語で様々な含蓄がありますがここでは、美の枠組み的な意味合いで使用しています。俳優や声優、アナウンサー、プレゼンテーション等のために行われているボイストレーニングも実際には話芸のモラルセンス訓練であり、声の生理段階に働きかけてゆくものではないでしょう。


要するに喉の筋肉が自由自在になった人が、


それぞれのジャンルのルールを覚えるための練習がモラルセンストレーニングになるわけです。


ですのでまだ喉の筋肉が自由自在でない人、声が自由自在でない人は、


先ずは、フースラー及び17世紀型の訓練といった声の生理的段階を回復させねば、結局何にもならないのだと言えます。




にあたるものになります。


ボイストレーニングという以上は世界各地の現代大衆歌謡や大衆芸能~世界各地の古典芸能更に世界各地の民俗芸能や古代芸能の声まで、


すなわち人から発されるあらゆる声をその射程に持っていなければならないわけです。


それに唯一成功したのがフースラーでした。















武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで

オルフェ音楽教室 http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

ボーカリストのためのフースラーメソード(リットーミュージック刊)

こどものための究極正しい声のトレーニング(リットーミュージック刊)


武田梵声のライブドアブログ

武田梵声がフースラー発声学、リード発声学、チェザリー発声学、オールドイタリアンスクール発声学について語るブログ

至高のボイトレ フースラー真ミックスボイスを思考するブログ SLSボイトレ SLSミックスボイス チェザリー回帰の方法



粘菌 の プライマリーヴォウェルズ とは変な語彙だが 我々は 内臓の叫びとしての プライマリーヴォウェルズ を知る事で 結局は それは 粘菌的なるものの 叫び とリンクしてゆくだろう事に 気づくように思うのだ。

我々の芸能力の根源を支えるのは ほかいびと であり まれびと であり 粘菌である。

粘菌 をただただ 見てみるがよい 芸能の根源 が 立ち上がってくる

南方熊楠 はここから コズミックボイス コズミックダンス との即 を発見しており 萃点 をも捉えたのだ。


粘菌想観 こそ最も強力な籠りの一つだ。

インドの籠り態よりも強力やもしれない。


チベットの アボリジニーの増殖の態よりもだ。


あらゆる 生命 の交錯する場を見た時
我々は 死とか生とか その交錯する地平だとか・・・ヌミノーゼとか ・・・粘菌 や ・・・  取り合えずは猫の プライマリーヴォウェルズと戯れるの
も悪くないかもしれない。 猫達は美しい プライマリーヴォウェルズ を発する。 ノイズを込めた プライマリーヴォウェルズ を発する。 場合によっては 我々を デェフォルトモードからの籠りへとも誘導してくれるのだ・・・。


ただ粘菌 や 珊瑚礁 は 強力な籠り力を持つ。

粘菌想観 昭和天皇陛下 と 南方熊楠

最も 縄文の芸能 の本質 を捉えていたであろう 思考の巨人 を繋ぐものこそ

粘菌なのだ・・・

古代芸能の思考

$
0
0
今の世で アタビズム が発動する者は 稀だ。 我々は絶体にこのアタビズムを発動させねばならないし、そうでないならば やはり 芸能人としては不味かろう。

世の中には 芸能の思考もないもの達が芸能に憧れていたり

芸能の思考がないものが 芸能を裁いたりしておるから

何やら芸能の価値そのものが可笑しな事になっておるのだが

今まで 私はこういうもの達を 赦さない方向でいたが

ライブドアブログ のような 腑抜けたブログを立ち上げた事で大分

寛大な思考や情動が生まれてきた

まあ ライブドアブログ の真の目的も

言語獲得以前の 原始ミックスボイス への回帰にこそある

それは古代芸能のライフインデキスそのものであった

これまで古代心聲とか野生の聲とか 原始本然 等と呼んできたものと ほぼ同じである。

はっきり言って 私にとっては フースラー も リード も チェザリー もどうでもいい

この辺りは聲の本義からするならば ロジカル化する上で 役にたつものの 同時に近代的な思考だって多いのだから

フースラーの うたうこと ~SINGEN
に書かれている事にこだわるものもいるようだが

あれは、1965年に書かれたものであり、 当然 あれをあのまま やって良いのかと言えば そうではない

特に 科学的な メソードほど 改編しなければ ならない部分が出てくるのは当然の事だ

19世紀的な アホダラ メソード と混同するのと

改めてゆく事とは全く事なるという事は 我々はよく知るべきだろう。

それから 稽古とは そもそもが 秘儀だ 芸能指導とは ラディカル であればあるほどに秘儀だ。

金で 稽古が買えると思ったら 大間違いだ。

もちろん 金で買える段階もあるし、世の中の平均値からいうならば かなりの水準までは 金で交換可能であろう。

だが やはり 一番大事な部分というのは 貨幣 の交換の次元 (これもインチチューマやトウジンの地平と交錯しだすとまた変わってくる) とは異なったところにある事を知る必要があるだろう。


だから 師に 認められる という事が 基本的には重要な事だ


フースラーメソード以降に知り合った生徒達の質は圧倒的によい それまでの生徒達の中にも もちろん素晴らしいもの達は多々いるのだが、 フースラーメソードは全体的に生徒の質をあげてくれた事は確かだ。


古代芸能の思考を持ち出した。もしくは萌芽を持つもの達が集まってきてくれた

原始ミックスボイス というのは あらゆる芸能のフィジカル的な古代の核にして マレビトの核にもなる。

フースラーはフースラーに忠実でなかった。私はフースラー以上にフースラーに忠実である。

フースラーは言語獲得以前をマニフェストに掲げながら19世紀をみていた。 私は完全に古代をみている。 柳田もせいぜい中世だった。 まあ柳田先生は本当は 折口信夫先生以上の類化性能をお持ちであったが自ら封印されたわけだ


ネット時代とは リテラシーもない 頭の悪いもの達が 自由に発言出来るわけで それが拡散していくから 真実が濁りに濁りまくってゆく。

ヒッピーの魂もネットの根源には流れていて、瞑想だってネットの根源には流れているだろう

だがそれはサイトシーイング的だ。

我々は相当の馬鹿もの達を相手にせねばならないわけだが

如何にして変容さすべき かが問題である。





ただ世の中捨てたもんではない事もまた一つの真実だ

柳田や折口や南方や宮本常一の捉えてきた 民俗心性とは

やはり生活の心そのものであり、 あらゆるイデオロギーや信仰を超えて 素朴な感動を生み出してくれるものだ・・・ 私は人は醜いと思うが、人の美しさも多分誰よりも知っていると思う・・・そして私はこの数日で本当に美しいと思える 心遣いに心が奮えるほどの感動を覚えている・・・。

それはきっと民俗心性 と 死や病の領域と関わる 感動である・・・。

私の死生学 探究は まだまだ続く・・・
メメントモリ への思考は続くのだ。


泣き女 達の瞑想 涙の瞑想に入ってみるがよい ひたすらに涙を流すとバタイユ的な瞑想も立ち上がってくる ツァラトゥストラや マハカシャパ的な瞑想も立ち上がってくる。 そしてアフリカ的な泣き女とも交錯してゆくのである。

我らにとって重要なのは 涙と笑いが同じものであるという事に気付く事だ。これらは究極的な地平で重なりだしてくる

世界が解体されてゆく時も 我々は 涙と笑いが交錯する地平の瞑想をするはずだ バタイユが捉えた ヴードゥーや中国の瞑想 サクリファイスの瞑想をするものもいるだろう・・・

核の炎の中で平然と笑いながらコズミックダンス と コズミックボイス を表出してゆく事は かなり当たり前に出来る事だ 多分誰でも出来るはずだ

我々のアタビズム は本当に 日常と思い込んだ 破滅の中で 発動してゆくのである。

瞑想の中で アタビズムを発動させ 平凡のように見えた破滅の日常の中でアタビズムを発動させ瞑想にかえるのだ・・・。 アタビズムそしてアタビズム

我々の祝祭 は 予祝として の タマシズメを開始している・・・。

今回だけは

タマフリではなくタマシズメなのだ

増殖させてはならないのだ・・・。

細胞のコピーミスをこれ以上増殖させてはならない・・・一人の生命を救うために・・・。

クロサワ の 生きる の ブランコ のような事を
11月にはしたいものだ。 タマフリとしてではなく 死と生を思考するためにだ・・・。

歌を語るもの達へ!!! 美空ひばり を再考する。

$
0
0
私の名は武田梵声。世界最高の芸能学 折口信夫古代芸能学と 言語獲得以前の原始ミックスボイスの再生を研究した 世界最高の発声学 フースラー発声学を専門とするものである。



この世界の誰がなんと言おうと 歌、芸能に関する全ての 最高の基準は折口信夫とフースラーの思考を持つ、我々にこそある。


古代~現代までの全ての歌 芸能 から 真の 歌 や芸能に通低する
古代心性を取り出す事が我々の目的だからだ。

時代時代の流行りの勝手な好みを拡散するのも まあ 本当は悪い事ではない
そういう時代時代のモラルセンスを理解する事も我々にとって重要な事でもある。

だがそれと同時に 古代心性 を理解せぬ 者を 変容させてゆく必要もある事も確かな事だ



さて、ネットであまり 美空ひばり を検索しない私なのだが、 美空ひばり の歌をよく理解していない もの達があまりにも 多いようなので 少し話してゆきたいと思う。 と言ってもこれまでも何度も語ってきた事であるが、

私の研究対象からほとんど抜け落ちずにずーっと 寄り添い続けてきたのが美空ひばり である。

美空ひばり の 力は世界各地の民族音楽 民俗芸能 民謡を聴く事で見えてくる 。 間違っても アメリカのポピュラーソングや 西洋のハイカルチャーの歌謡を基準にしてはならない。

もっともこうした アメリカのポピュラーソング や西洋のハイカルチャー でさへ その土地の 民謡や民俗芸能を基板にしており、 西洋やアメリカのものであってもそうした民俗芸能や民謡は極めてアジア・アフリカ段階に存在している。もちろんアメリカや西洋のポピュラーソングや西洋のハイカルチャーもこの段階から判断してゆくのが正しく、そこから判断するのであるならば、ある意味での始まりの西洋芸能。始まりのアメリカポピュラーソングの思考から美空ひばりを分析してゆく事だって可能であろう。


まあ何よりも 放浪芸 のあらゆる要素が集積している点は重要であり、彼女が 他の国でも同時多発的に存在した 民族性を象徴してゆくような歌い手だった事が解るであろう。

ラター や カルスーム ネティ ショーシュアン プムプワン マリアタナセ レナ フェラのような存在だ。 それも 美空ひばり の放浪芸の集積率みたいなものは おそらくは上記の歌い手達以上だ。

こうした 視点から はじめて 美空ひばり のとてつもない 射程が見えてくる

腹式呼吸 だ 喉声 だ などという フィジカル的、自然科学的にも 態言語的にもチープな発想で ひばりちゃんを捉える事は不可能だ。 浪花節 や 放浪芸 を喪失したもの達は 哀れだ 根源の歌なしに 何が出来よう。 もちろん 根源の歌が 喪失した 我々だからこそ 出来うる 根源探究のもがきの歌 みたいなものだってある・・・そしてそれはやはり我々に残されたとりあえずの最後のラディカル歌謡にしてオリジン歌謡に近づく力と可能性を秘めたものであらう。


現代の 日本から 美空ひばり が生まれる事は ほぼあり得ない


放浪芸 と 浪花節 が無くなった世から なぜ 美空ひばりちゃんが 発生しようか?


MISIA や 宇多田ヒカル ドリカム と
美空ひばり は ある意味では比べる事は出来まい。


R&Bの根源を何と心得るか?

アフリカ の喪失は アメリカでも早くから進行していた

我々は ブルース の レジェンド達の節や声と 1960年代以降 ~場合によっては1950年代も危ないのだが、 ~
の根源的な節の差をどう捉えるのか?

美空ひばり に お門違いな否定を行い MISIA や 宇多田ヒカル や ドリカムを持ち上げるものがいるとすれば それはどうせ MISIA 宇多田ヒカル ドリカム の事もろくに解っていないか

せいぜい19世紀西洋の 埃をかぶった

思考から判断しているのであろう。

重要な のは 民俗心性 の節への顕れ

古代心性の節への顕れを捉えてゆく事だ。

ただ 美空ひばり だけが 手離しに 絶讚される メディアの傾向も同じように何も解ってはいまい。

ネット上に拡散する 埃をかぶった思考と同様だ。


もはや 美空ひばり を正当に評価出来るものはほとんどいないのだろう。


放浪芸 民俗芸能 世界各地の民謡を聴漁った 耳で 美空ひばり をもう一度聴いてみるがよい。


彼女は 時代時代で様々な顔をみせてくれ、 駄作や無難な作もあるにはある。
東京ドーム は マテリアル的には ボロボロでケアレスミス も多い だがそれをも超える ASCの発動もおこっているのが この公演のなんともアンビバレンスなところだ。


浅草十二階 芸能 の完成もある意味では ひばりにあったという事も出来よう。

どちらにしろ放浪芸や浪花節の集積である美空ひばり が 化石のようにして生きている 今はまだましなのかもしれない・・・ひばりの化石をみるといった竹中の預言はあたったのだ・・・


もしも 美空ひばり の化石さへも が完全に抹殺されるならば その時こそ 我々の放浪芸は 完全に解体されるのかもしれない


マレビトは解体されるのかもしれない…。


放浪芸 と マレビト はこれまでにも 何度も抹殺されてきた

これは 自然の秘密 宇宙の秘密 を知る 芸能であった・・・


我々は この 力が何度も抹殺されてきていて 今また かつてない危機にあるにも関わらず

なぜ 立ち上がろうとは せんのだ?


私は 不思議でしょうがないのだ。


仮にも 芸能 や 歌謡を 愛する 夢だ 人生だ と 語っている もの達が

その 芸能 や 歌謡の母たる

マレビト や 放浪芸能人 の危機や死に気づかないのは・・・。

だがもしかしたら もう・・・

折口信夫 まれびと 折口信夫 ほかいびと ~ エラノス会議 の至高 そして 原始ミックスボイス から 至高の超言語を発生させてゆく

$
0
0
世界最高のボイトレ フースラー真 ミックスボイス の専門家にして チェザリー リード が理想と考えたオールドイタリアンスクール真 ミックスボイス をも専門とする 夢遊病的ボイストレーナー武田梵声です。

また SLSボイトレ SLSミックスボイス の チェザリー回帰思想家でもあります。

更に芸能学のパイオニアにして、世界最高の芸能学である折口信夫古代芸能学も私の専門であります。




武田梵声のレッスンはオルフェ音楽教室まで


武田梵声のレッスンは

オルフェ音楽教室まで

http://e-koe.jp/


武田梵声の著書

『ボーカリストのためのフースラーメソード』 (リットーミュージック刊)


『こどものための究極正しい声のトレーニング』(リットーミュージック刊)



川崎様、コメントありがとうございます。 次回お越しの際に固定電話の方をお教え下さい。

また精神的なところから来ているならば抑肝散やミンハオ等もそうした効果が高いですし、これらは直ぐにてに入ります。もちろん証を明かにする必要がありますが



さて、私が既に至高の芸能を完成させているか否かですが、中々に難しい質問ですね

結論から言いまして、世にある芸能すべて、録音も含めてを遥かに凌駕してゆく芸能は既に完成しています。

私が研究する分野から考えるならば、モデル論的に其くらいのモデルは当然、あるわけですが、至高の芸能、超芸能というものは、やはり終わりなく常に増殖し続けてゆく粘菌のごとき存在なのであります。

私は多分、二歳位の段階で、


折口信夫 が 古代芸能 と 未来芸能について描いた まさに至高の芸能を模索した小説 死者の書 でドローンのように流れている 日想観を祖母から教えられていましたし、 祖母は 鈴木大拙が エラノス会議 において あらゆる芸能の核として 捉えた いわゆる 妙好さんでした。 あらゆるものに宿る 阿弥陀如来を直感的に捉えていたわけです。

祖父の方は 当時、あの七剣聖の身体性の根源を作った 新国劇の幹部にして、古神道の研究 特に 井上正鉄の研究をしていました。 天皇陛下の籠り態の核であった 息吹永世 や トゴトカジリ ミカガミギョハイ それから 言霊学の核になる ~素~ の研究にも力を入れていたわけで

物心ついた頃には、至高の芸能のビジョンというのはある程度 私の中にあったと思います。

また 日本画 や 水墨画 妖怪画 それから 魯山人 の思想に囲まれて育ち、寄席芸人のレジェンド達や

浅草十二階芸能の核にして、手塚治虫や長谷川町子の師匠であった田河水泡
までもが我が家には訪れておりまして

幼い頃に 様々な信仰、芸能、芸術、思想にそれもラディカルなレジェンド 達に囲まれてきたのは 私の 芸能力に大きな影響を与えていると思います。

これらが 画竜点睛してゆくのは、やはり インド哲学 や インド芸能 の 至高の理論である シャブダブラフマン や パラブラフマン の概念や 境地を知ってからです。 パラブラフマンは カルナータカの至高の芸能人であった ティヤーガラージャやディークタル、シャーマシャーストリーにとっても至高の芸能、至高の歌の境地でありました。

後にこれが 宗教現象学 や 元型論の ヌーミノーゼ論 の一つの核になってくる事にも繋がってゆき

最終的には 折口信夫古代芸能学 を知る事で 全ては 体系化されてゆきました。

それは 世界各地の 放浪芸 民謡 民俗芸能 伝承童謡 伝承遊戯  神話 昔話 バレ唄 バレ芸能 籠り態 を知る事 と リンクしながら 実感していったわけです。


三信遠国境地帯 の 霜月神楽

沖縄 先島 の アカマタ、クロマタ、シロマタ アンガマア マユンガナシ パーントゥ、 フサマラー 、アガリノウフヌシ 等の マレビト論 の核になってきた芸能

アカマタの元型であるドゥクドゥク


アフリカのムカンダ アボリジニのインティチューマ 南米 セルクナン の ヘイン ケーララの テイヤム

昔話、神話の

創造神話 トリックスター

それから世界各地の 妖怪 達

全ては芸能の根源と 未来とを我々に実感させてくれるものであり、どれもが 至高の変容から発生したものであり、至高の変容を発生させる力をもった芸能達でもあるわけです。

これらの 構造から 至高の芸能 は発生してくるでしょう。

そして 我々を待つのは 折口信夫 の更なる展開である

エラノス会議 と 人体交響劇

であるわけですが、

これらも結局は まれびと ほかいびと じゃれめ の未来的な姿か 粘菌 のような 妖怪として ヒエロファニーされてゆくわけです。

ここまでの至高の芸能、超芸能を発生させる発想は私の中で完成しています。しかしながら至高の芸能

ヌーミノーゼは常に増殖していますから・・・至高の芸能も常に増殖してゆくわけです・・・この増殖の運動すなわち 魂振り を永遠と刹那が交錯する世界で繰り返す事自体も至高の中身なわけであります。

日本の放浪芸の力 折口信夫 まれびと 折口信夫 ほかいびと 折口信夫芸能論 原始 ミックスボイス

$
0
0
武田梵声です。私は芸能や学問の根源と言われています折口信夫芸能論 と 世界最高のボイトレといわれるフースラー発声学を専門としているものです



~芸能、芸術、宗教、文学、哲学、思想、政治、経済、その他あらゆる学問に通低する根源を捉えた奇蹟の学問こそが折口信夫古代研究なのです。~


武田梵声のレッスンは

オルフェ音楽教室まで
http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

ボーカリストのためのフースラーメソード(リットーミュージック刊)

こどものための究極正しい声のトレーニング(リットーミュージック刊)


武田梵声のライブドアブログ

フースラー・ミックスボイス リード・ミックスボイス チェザリー・ミックスボイス オールドイタリアンスクール・ミックスボイス といったミックスボイスの様々な段階についてを思考するブログ、最終的には旧石器時代~言語獲得以前の原始ミックスボイスの再生を目指してゆきます。


~至高のボイトレ フースラー真ミックスボイスを思考するブログ SLSボイトレ SLSミックスボイス チェザリー回帰の方法~





質問

先日先生のこどものための究極正しい声のトレーニングをようやく手に入れました。

以前質問させて頂いたホーミーの事や他の国のわらべ唄が書いてありとても子ども向けじゃないくらい勉強させて頂いております。

今民族音楽にハマっており色々な国の音楽を聴いております。
そしてフースラーメソッドの巷間芸能のうたを好きでよく練習しております。
こういう日本の巷間芸能歌はどう調べれば音源が手に入りますでしょうか?








日本の巷間芸能は基本的には既に絶滅しており、今あるのは、いわゆる芸態のみの再現になります。それでこの巷間芸能がいつ滅びたのかと申しますと
やはり60年代~70年代前半にかけてといえます。
まあ、これらは世界規模でそうであったと言えるでしょう。この巷間芸能の最後の姿を記録したものこそ小沢昭一がまとめた~日本の放浪芸シリーズ~です。
巷間芸能、放浪芸を総括的にまとめたものはこれだけでしょう。日本の放浪芸の映像編においては(DVD)インドや韓国の放浪芸にまでのびており、もう少しで世界各地の放浪芸の体系化までいけそうだっただけに残念ではありますが、この仕事は芸能史における最重要な仕事の一つです。全ての芸能はここを源にして思考するというのが芸能学や演劇学の基本であるのですから、

一卵性親子 死生学 母権論 恋愛元型論 フィジオノミー元型 天仙液 抗がん漢方 カイジ 近藤誠 無治療 肝転移 脳転移 肝臓破裂 脾臓破裂

$
0
0
私と私の母はきっと一卵性親子だったと思う・・・かつて美空ひばりとその母 喜美枝がそうであったように

私と母を繋ぐ根源的な思想は岡倉天心にある。私達は日本画を愛し、日本画の家に生まれたからだ。 そして妙好人の思想。

母は最後まで夢の中で日本画のための仕事をしていたようだ。寝ながら、脳に癌細胞が増殖する中でも手が常に動いていた

私にとって母は妹のようであった19歳しか年が離れていなく、私が変に達観しているせいもあるかもしれないが、四姉妹の末っ子であった母は、本当に可愛らしい人であったと思っている。

私は長男だったから私をお兄ちゃん、お兄ちゃんと呼んでいた事も彼女を妹のように思う要因だったのかもしれない。

母は同時に誇り高く、プライドも高かった。きっと私がやたらと誇りとプライドが高いのも芸能的な美意識の高さもアタビズム的なものもあるとしても大半は母から受け継いだものだと思っている。

我々の一族を繋いできたのもまた母であった。母は人の心の中に入ってゆくのが上手く友も沢山いた。この辺りは私とまったく正反対であったが、自分の事以上に他者を思いやれる者がいるとするならば私は母以上の人を見た事がない位、他者を思いやれる人だった

辛抱する事、堪え忍ぶ事も母のためにあるような言葉だ。母はとにかく辛抱強い、癌の傷みも周りに感じさせないほどに、常に明るく、むしろ他者の心身の心配をしていた位であった。

癌の闘病生活や治療にはその者の生命や死に対する哲学や思想が反映される事はよく知られている。母は漢方を中心とした様々な代替療法を試していたのと、近藤誠の癌擬きの理論、無治療の方針からの影響を受けていた。近藤誠の理論が正しいか否かはともかくとしても、西洋医学の既成の概念に風穴をあけてゆく可能性はある。立花隆などは近藤誠を正しかったと言っていたように記憶しているが、近藤誠に代替療法に関する知識があったならばもう少し違う方向に向かっていたように思う。基本的にかつての中医学も乳癌は十全大補湯等により治療していたわけで、いわゆる手術の概念は乏しかった。すなわち無治療の状態で漢方薬だけで癌の治療を行っていたわけだ。中医学、
厳密には中西医統合医療やホリスティック医学的な発想から作られた抗がん漢方と呼ばれるものに天仙液というものがあるが、カイジやメシマコブと並ぶか人によってはそれ以上というほどの抗がん作用があると言われている。
母はカイジやシベリヤ霊芝、天仙液、針灸、西洋医学においては放射線治療、ホルモン治療を行い、その他諸々の代替療法を行っていた。代替療法には信仰的な面が強いものもあるが、癌という怪物には信仰的な側面というのは母にとって必要であったと思っている。

生命活動が尽きようとするものが最後にすがる神が邪神であろうとも、そこにある揺るぎない信仰心を誰が否定出来ようか!?

私は母がした全ての選択を正しかったと思っている。その内のいくつかが寿命を縮めていたとしてもだ・・・

私の母は私の母とは思えぬほどに美しかった。私の女性観や恋愛観の元型はおそらくは母にあったであろう。


多分、私の思想や思考を最も理解してくれたのも母であったように思っている。そして私のあるがままの全体をここまで愛してくれたのもやはり母であったように思うのだ。





2015年10月31日19時6分

に母は亡くなった。2015年3月30日に愛犬を失ったから

2015年は私にとって最愛の二人を失った事になる。

母は2015年6月に乳癌の診断を受け、骨転移により寝たきりの状態になっていた。この段階で医師からは余命1年と宣告されていた。

ただ首、胸、腰への放射線治療とホルモン治療により2年~3年に伸ばせる可能性もあると伺い、我々はそれに賭けたわけだが
・・・

2015年10月2日に肝転移が見つかり、1ヶ月、1ヶ月が危なく、もって半年と宣告された

10月18日脳にも影が見つかり呂律が回りにくくなる

10月23日普通にいってもって1ヶ月。奇跡が起きて年を越せると宣告される。

10月24日衰弱によるのか?脳転移によるのか?肝転移でもこうした症状は起こりうるというが、話している間に意識を失う事が頻繁になる。意識レベルの著しい低下がおこる。

10月26日余命1週間、奇跡が起きて余命1ヶ月と宣告される。

10月30日の20時頃、私の教え子で母が大ファンであった著名なタレントが母の見舞いに来てくれた。母の意識レベル24日以降著しく低下していたが、彼とは一時間半も意識を保った状態で目を輝かせ楽しそうに話していた。

その夜も意識レベルははっきりしていて私は母に謝りたかった事、感謝したかった事の全てを話した・・・

彼は私の教え子であるが、芸能のもう一つの可能性という事を私に気付かせてくれた、また彼がいたからこそ母と最後の夜を過ごす事が出来、彼には一生ものの恩を感じている。

10月31日16時頃 脾臓破裂により母は苦しみだす。母は痛いというよりは何とかして車椅子に乗りたいと私に訴えていた。母は第六頸椎が癌の転移により潰れかかっていたため、リハビリの先生以外には車椅子に乗っける事は出来ない状態にあった。だが、その時の母は気が動転したかのように ただひたすらに車椅子に乗りたいという意思を私に訴えた。人は内臓が危機に陥ると何とかして身体のバランスをとろうと考えるわけだが、予想以上にアナロジー的な思考から内臓の叫びは発されるのだ・・・

二日ほど前から母は毎晩魘されていた。愛犬が夢に顕れ母に何か言葉を発するようにと告げるのだと言う・・・。我々はどこまでも言葉により原始母音により意識レベルを保とうとするのだ


母の名は~忍~ 我が師 折口信夫 と同じ音価を持つ 私はこの ~しのぶ~という言霊に導かれ今日までを歩んできた

私と母は一卵性親子であった。私は母と深い深い結び付きを感じていた

母の病室で私はいつも茶を飲んでいた。








あの子が友達よ・・・

茶でも飲もうか・・・?

一杯の茶に願いを込めて・・・



武田梵声

インド芸能とインドの思考 世界各地の籠り態 世界各地のシャーマニズム 世界各地の仮面の芸能 世界各地のマレビト 折口信夫 マレビト

$
0
0
武田梵声です。私は芸能や学問の根源と言われています折口信夫芸能論 と 世界最高のボイトレといわれるフースラー発声学を専門としているものです



~芸能、芸術、宗教、文学、哲学、思想、政治、経済、その他あらゆる学問に通低する根源を捉えた奇蹟の学問こそが折口信夫古代研究なのです。~


武田梵声のレッスンは

オルフェ音楽教室まで
http://e-koe.jp/

武田梵声の著書

ボーカリストのためのフースラーメソード(リットーミュージック刊)

こどものための究極正しい声のトレーニング(リットーミュージック刊)


武田梵声のライブドアブログ

フースラー・ミックスボイス リード・ミックスボイス チェザリー・ミックスボイス オールドイタリアンスクール・ミックスボイス といったミックスボイスの様々な段階についてを思考するブログ、最終的には旧石器時代~言語獲得以前の原始ミックスボイスの再生を目指してゆきます。


~至高のボイトレ フースラー真ミックスボイスを思考するブログ SLSボイトレ SLSミックスボイス チェザリー回帰の方法~



・質問

人間の生き方の表れが全て学問として捉えれるのですね。そう考えると膨大な数になりますが、知ることや生きる事が楽しくなってきますね。世界は広いですね。

才能1つにしても射程の違いで捉え方が色々あるのですね。いわゆる芸能人を目指すなら古代の思考を甦らせつつ、職業歌手なら今の流行を汲み取らないといけないですね。どちらも持ち合わせるにしても訓練は必要ですね。

やはり喉を鍛える事や、歌を上手くなるには何かしらの発声をしないといけないものなのですね。

発声に関する事ではないのですが、質問よろしいでしょうか?
アーユルヴェーダや武術、音楽、哲学その他インドには全てが詰まっている気がします。
インドにはヨガがありますが、インドの武術家や芸能人はヨガをしていたと以前先生のブログで拝見しましたが、他の国でヨガのようなものはありますか?






返答

確かにインドを源として思考する事であらゆるモノの根源を捉えてゆく事は可能なように思います。 東洋的なロジックと西洋的なロジックが交錯するようなバイロジカル性がそもそもインド的思考の中にはあります。

武術は ダヌルヴェーダ 医学も 後はシッダ医学等もあり、経済学はアルタシャーストラ、 セクソロジーはカーマスートラ 演劇、芸能はナーティヤシャーストラ 他にも民俗芸能、民俗信仰、民謡、昔話も豊富にあります。特に北東部の先住民の芸能やケーララの芸能は重要です。ケーララではテイヤムというすこぶる古い芸能からカラリパヤットの身体技法、ソーパナムスタイルと呼ばれる歌唱スタイルが複雑に絡みあった芸能の縮図、集大成的な地です。パンチャタントラという昔話集はグリムなどからも注目されタイラーから原始心性を最も多く残す芸能と言われた昔話の更なるライフインデキスとしても注目されたものです。イソップ寓話の原型としても名高いものです。

さて、ヨーガのようなものが他の地域にあるか否かですが、ヨーガは人類学的には瞑想更には籠り態に分類されるものです。そういう意味において世界各地に同様のものがあります。いつもアフリカやアジア、オセアニアの紹介が多いので、珍しく西洋のものから紹介してゆきたいと思います。
例えば西洋世界においてもユダヤ神秘主義やグノーシス主義の中に籠り態や瞑想が存在しています。いわゆる神秘主義、エソテリスム系の信仰には基本瞑想はつきものと思われてよいでしょう。グノーシス主義においては具体的な方法は文献上は不明のように思われますが、多くの研究者から籠り態的なるものがあったであろう事が示唆されています。またゲルマンの秘密結社やケルトにはバードやドルイドと呼ばれるかなりラディカルな芸能人がおりましたから籠り態は存在していました。
こういった態の蘇りは基本的にはブラヴォッキーやクロウリー等の近代エソテリスムにより復活を遂げてゆきます。
後はラスコーの洞窟壁画から推測される洞窟の芸能はかなり総合的な籠り態のテクニックがあったであろう事がブルイユ神父やルロワグーラン等の研究から推測してゆく事が可能です。

洞窟芸能的なものはアボリジニーのインティチューマにも代表的な籠り態があり、同様のタイプはチベットのランシンのテクニックの中にも存在しています。

日本にも民俗芸能の中に様々な籠り態がありますが、テクニックとして体系化していったのは出口王仁三郎や本田霊学によるものが大きいと思います。

北米先住民の中には後のトランスパーソナル心理学の代表的な籠りテクニックになってゆきますホロトロピックブレスワークのアーキタイプが存在しています。

南米にはアフリカ芸能の集大成と言われているブドゥンがあり、各地でサンテリア、カンドンブレ、マクンバ等と呼ばれております。こうしたものに通低する身体的な籠り態はカレンダと呼ばれる身体技法からモデル的に取り出す事が可能です。
南米にはインディオの治療の芸能が盛んでして、いわゆるメディスンマン達の籠り態が代表的なものになると言えます。


オセアニアにはハウスタンダランの通過芸能の中にやはり代表的と申してよろしい籠り態が存在しています。

西アジアはカーヒンのサジュウの態をベースとしながらスーフィーの旋回舞踊やカッワリーなどでもファナー と呼ばれる西アジア最高の籠りの境地に行く事が可能です。

南アジアにおいてはやはりヨーガやタントラがベースとなります。これらはかつて交錯し、分離し、そしてまた融合しています。 ヨーガはラージャヨーガやバクティ、ジニャーニャ、カルマがおこる前から ハタヨーガ的なものこそがアーキタイプでした。ゴーラクシャナートにより現在のハタヨーガは発想されましたが、これは極めて古い籠り態をルネッサンスしたものと考えた方がよいように思います。ジョーギーやマンガニヤルといった放浪芸人もしくは、こうした芸能人の更なる原型となるような芸能人の籠り態にヨーガのプロトタイプはあったのだと考えてよいでしょう。ゴータマ・ブッダのアーナパナサティ等もネワール人の籠り態を変化させ、上記のヨーガとシンクレさせたものだったと言えます。

東南アジアにはムノンガルの籠り態の中に最も古い形の一つを見る事が出来ます。

北アジアにもシャーマニズムの概念の発祥となったエヴェンキ族、縄文人とDNA的に最も近いとされるブリヤートの中に古い籠り態を見る事が出来ますし、天空飛翔型のシャーマン、ポゼションとエクスタシーの全てを見る事が出来ます。 倍音唱法もこの地の籠り態やシャーマニズムも密接に結びついており、サハの白シャーマニズムの中にはノイズを伴い倍音唱法を聴く事も出来ます。

東アジアにも土着のシャーマニズムや毛坊主的な存在が基層にあり、そこに様々な籠り態があります。おそらくは平田篤胤が取り出した古神道のコアとしての神仙も東アジア全体の基層に蠢くものであったと解釈していってよいものと思われます。朝鮮半島のムーダンや台湾のタンキー、蕃族の籠り態、ハウルー等、泣き女の態も代表的なものと言えます。

アフリカはいわゆるピグミーのホケットやコイサンのキアーが最も古いものとなり、中央アフリカのムカンダやダホメーのブドゥンの中に典型的な籠り態を見る事が出来ます。

こうした世界各地の様々な籠り態から顕れてくるのが仮面の芸能 マレビトです。またこれらは通過芸能とも密接な関係を持ちます。それから神話の表出、特に創造神話の表出も秘密結社の籠り態と関係しているわけです。

マレビトはオセアニアにおいてはアバンやマイが、アフリカにおいてはムヨンボやギテンガ、アメリカ先住民ではフォールスフェイス、ヨーロッパにはマスカが、アジアには韓国のタルチュムやインドネシアのバロン、列島の榊鬼や天伯等が代表的なものになるでしょう。

こうしたマレビトそのものの芸能も籠り態的な要素を持つ事からマレビトになるための籠り態とマレビトの発する芸能との境界もまた曖昧なものです。

こうしたものは世界各地の芸能の始源の芸能になる事は間違いありません。
これらを捉える事こそ芸能の基本となり、また至高に成りうるのです。

瞑想 シャーマニズム ASC 催眠 籠り トランスパーソナル心理学 神秘主義 折口信夫 まれびと 折口信夫 ほかいびと 原始ミックスボイス

$
0
0
デジマ様コメント頂きありがとうございます。今の私にとって大変に力になると同時に母も喜んでいると思います。ありがとうございました。またシマムラ様母へのお気遣いとても感謝しております。他にも、多くの生徒様から母や私を気遣う言葉を頂きました。心から感謝しております。ありがとうございました。

川崎様 コメントありがとうございます。

さて、脳内麻薬をより強力にするのは、今の段階ですと極めて危険だと思います。かつての日本やインドのように社会が漂泊者やヒジリを差別しながらも受容していた社会と近代は異なります。それ故にASCの極致までゆき、戻ってこれないような情動バランスもしくは情動を越えた状態になるならば、中々に近代生活との真釣りをとるのは難しいように思うからです。確かにもう少し深い状態にゆき、それを日常レベルに浸透させる事でカルマヨーガやワークのような地平で生きる事で楽に生きてゆく方法もあるにはありますが、現在の情動の状態を考えるならばそれもリスクはあるように思います。やってみる価値もあるとは思いますが、
クンダリーニやタントラも強力な籠り態ですからね、そちらの世界から帰ってこれずに近代思考や近代的な情動との真釣りをとるのが大変なわけです。山伏あたりは精進落としによりそういった真釣りをとろうとしてきたわけです。近代人が強力に簡易にASCの極致にゆけるのはエサレン研究所やヒューマンポテンシャル革命系の実験的なボディーワークやセラピーがあります。代表的なものはやはりスタニスラフグロフのホロトロピックブレスワークでしょうか、北米先住民の籠り態であるサンダンスをアレンジしたものですが、強力な効果はあると思いますが極めてサイトシーイング化しやすいのが難点のように思えます。
チベット密教やポン教のランシンの基礎技法も暗黒舞踏の基礎技法との類似性もあり強力なものと考えられます。まあこうした動的籠り態の方が強力かつ簡単にASCにはゆきます。コイサンのキアーなども強力です。原始ミックスボイスの場となるホケット態も強力なASC効果を持ちます。BPM180超えの太鼓の律動は我々を強力に変容させるのです。ただ何度も申し上げるように強力なゆえにサイトシーイング的でもあるわけです。
こういった籠りやASC世界を浸透、持続させる方法を開発したのはゴータマ・ブッダやマハビーラでしょうか ゆっくりした呼吸法は我々を籠りの世界へゆっくりと導き、さらにその世界を日常の表層の思考や意識の内部で発動させてゆく事も可能とさせてゆきます。ただこういった態においても禅病的な状態にはなりうります。白隠禅師のように強迫性障害的になる場合ももちろんあります。白隠は神仙的な内観の法等により回復していったわけですが、この精神的な病理世界はASCレベルと関係があり、一面的には多大なヒントもあるわけですが、シャーマン達のようにあらゆる意識レベルに移行できないようだと近代社会との真釣り上厳しいわけです。
また次回の稽古の時に細かくお話が出来たらと思っています。

水木しげる 野坂昭如 を偲ぶ。 ディズニー エラノス の思考。 折口信夫 まれびと 折口信夫 ほかいびと 原始ミックスボイス

$
0
0
私の名は、武田梵声。世界最高の芸能分析法、折口信夫古代芸能学と世界最高の発声学であるフースラー発声学を専門とする。芸能の評価、芸能音声の分析において我々を超える方法は、今のところ存在しないであろう。それを踏まえて以下の事を読んでもらいたい。





水木しげる 野坂昭如 はメインストリームにいた数少ない 古代人であった。 メインストリームの成功者の大半は、芸能人を含め基本的には、近代人の代表だ。

私の幼き頃のあだ名は、妖怪博士であった。 また水木しげるにより、私が崇敬する 妖怪総大将 ぬらりひょん が大衆化された事も感謝すべきところだ。 藤澤衛彦の思考を拡張していった事は、この翁と童子の閾にあり、山と海の閾にあったこの妖怪の力を開花させた。またアフリカ神話の要にあるいわゆる瓢箪性もこの妖怪王にはあった。まさしく まれびとの王であった。水木しげるは、手塚治虫からの嫉妬も受けていた。また白土三平をおちょくるその精神も素晴らしい。スウェーデンボルグ、南方熊楠、井上円了、出口王仁三郎への評価もまた注目に値する。
後は近年では、出雲人への思いも注目すべきだ。折口信夫のまれびとの原像は、万葉人にあり、万葉人の理想は、出雲人にあり、出雲人の理想は、大国主にあった。それは、そっくりそのまま列島人の原像でもあろう。

水木しげるは、トライ人の芸能を通じて、日本における小泉文夫以前の民族音楽ブームのまさにパイオニア的な存在でもあった。また晩年にも先住民の妖怪や精霊のフィールドワークは行っており、井上円了が世界中の妖怪や精霊を封印したとするならば水木しげるは、世界中の妖怪や精霊を再生させていったと言えるだろう。 それは、ある意味では、南方熊楠の神社合祀令への反対と同様の構造を持つ。

鬼太郎の元型が飴買い幽霊にあると謂うことも重要である。これもまたユーラシア全土に拡散した。原始心性を多く残した昔話である。

水木しげるのナマケモノ思想も好きであった。だが私は、一点だけ水木の主張で苦手な点があったのだが、それさへも彼のひょうひょうとした性格によりチャラになるかのようだ。

のんのん婆の思考というのも水木の原光景であると同時に列島人全体の民俗の無意識に繋がっている事だろう・・・

野坂昭如、クロード野坂の思考というのは、まさに神や妖怪、精霊の領域に達していよう。現役最強の芸能人とは、全く彼の事を言ったのだ。その力は、見方によっては、美空ひばりをも超えていると言える。それは放浪芸能人の構造や機能を集約したかのようなその思考と肉体がある最も重要な部分すなわちライフインデキスにおいて美空ひばり以上の古層に達している点にある。

彼のエロ事師達や、YWCA、それからマリリンモンローノーリターン等は最高であった。特にYWCAとエロ事師は群を抜いていた。 今村昌平により映画化もされたそれに肉体を与えたのも小沢昭一によってであった事も注目に値しよう。澁澤や三島からも絶賛された彼の小説は、三島はもちろん澁澤をも凌駕していたかもしれない。

そして我々は、以外な事にその思考がディズニーに繋がってゆき、更にはエラノス精神にも繋がってゆく事を知る事になる。 ディズニーの最高傑作と一般的に名高いファンタジアの春の祭典の章は、古代芸能と宇宙創造~生命進化のアナロジー的な物語となっているが、そもそも古代芸能自体、古代人の思考自体がインイロテンポーレを源にしており、宇宙創造へのアナロジー構造を古代芸能や神話、昔話が持っているわけである。こういったエラノス的思考は、キャンベルを通じてジョージルーカスに多大な影響を与え スターウォーズが表出されたのは、有名な話だ。

ストラヴィンスキーの原始主義は、伊福部昭にも多大な影響を与えている。ストラヴィンスキーは、ニジンスキーとのやりとり等から察するにやはり古代人には成りきれていないのだ。

しかしながら、ストラヴィンスキーが舞踊史、身体史に与えた影響は計り知れないものがある事も確かだ。

ディズニーの脳は、ティモシーリアリーのように冷凍保存されている。かつてウォルト・ディズニーは、その芸能、芸術の完成のために日本列島の巷間芸能のライフインデキスにお忍びで触れにきた。だが残念ながらそれはディズニーの作品には表出される事はなかった。
もしもディズニーの中にある即席化されたエラノス的思考と野坂昭如の中にあった列島の巷間芸能のライフインデキスがシンクレをおこしたならばそれこそが超芸能になり得た可能性がある。それは、昔話や神話のライフインデキスを更なる超越へと向かわせるからだ。

それは全くホカイビトやマレビトの未来的な蘇りであり、祝祭性を再び宿らせたマラルメやルソー的な未来演劇の誕生でもある。そしてバタイユやフレイザーのサクリファイス芸能の未来的な復活さへをも意味し、それら全てを超越してゆく可能性すらあるのだ。


質問を頂いた方々、ライブドアブログ
フースラー真ミックスボイス にコメントを下さった方々も含めまして、返信が遅くなっています事を心からお詫び致します。必ずお返事致しますので、しばしお待ち下さい。

さて 川崎様、芸能の本質が古代性の再獲得。聖なるものとの遭遇にあるというのは、正しいです。
また他者に見せ、聴かす事の本質や起源もそこにあります。そもそも感染芸能、感染教育こそがその本質にあるわけです。 グルジェフは世界各地の芸能、芸術を客観芸術、客観芸能と主観芸能、主観芸術とに分類していますが、客観芸能、客観芸術こそが正しく、主観芸術、主観芸能は間違っていると考えました。客観芸能とはすなわち変容性を持った芸能の事です。倍音唱法やタージマハール等を例にあげていますが、ここには世界各地の民俗芸能、民族芸能、民芸、民謡、昔話、神話、洞窟壁画、動産芸術、岩陰彫刻等や一部のアバンギャルド芸術も含まれてきます。しかしながら自身の表現といった極めて近代的な価値の強い主観芸術であっても極度の泣き、笑い、もしくは感動を引き起こせばそれは結局のところ変容に向かうのであり、主観芸能の主張や思想の浅薄さは解体されラディカルな変容世界を表出させてゆきます。かつての万歳の笑いやバタイユ的な笑い。マハカシャパ的な笑い、ツァラトゥストラ的な笑い、泣き女的な泣き、ウツメ的な泣きは、主観を、超えてすでに集合的無意識、アラヤ識へと向かっているわけです。芸術や芸能の作者の意図の大半や世界観というのも大事な事ですが、根源にあるのは、そうした表層の思考や思想を解体してゆくヌミノーゼ的なるものです。芸能や芸術は多層で出来ているため禅竹の六輪一露のような思考を持つ事が何よりも重要になります。これによりあらゆる段階の芸能を把握してゆく事が、可能となり、そしてそれは常に根源場においてヌミノーゼにより解体され続けているものなのです。現代芸能人やタレントが我々のいう芸能人と異なると思われる気持ちも解りますし、事実相当に異なるのですか、現代芸能人やタレントも歴史的にはマレビトの子孫である巷間芸能人の直系の子孫にあたります。世界各地の芸能のメインカルチャー、カウンターカルチャー、サブカルチャーはそもそもマレビト的なる力により発生してきましたので、少なくとも形骸化したマレビトではあるわけです。それも相当に形骸化しているから我々にとっては大した力がないように見えてしまうわけです。それは世界各地の現代メインカルチャーの大半が多かれ少なかれそのようなものです。1970年代前半でマレビトは死んだのです。

我々はマレビトを甦らせねばならないわけです。それは神や妖怪の領域の芸能です。現在神の領域にある芸能はまあほとんどないでしょう。先日亡くなった野坂昭如が神の領域の芸能のほとんど唯一の生き残りでした。それは、古代のマレビトの力をどれだけ残しているかにかかっています。それは、野生の肉体性であったり、野生の声であったり、野生の思考であったり、野生の情動であったり、するわけですが、結局は最高のヌミノーゼに触れ、それをいかに指示表出するかにかかっているわけです。そしてこの指示表出は、世界全体に、感染し世界全体を変容させるし。またさせなければ、ならないわけです。全ては変容であり、変容のためにあるわけです。





世界最高のボイトレ フースラーメソード と そのフースラーが理想と考えたオールドイタリアンスクールのボイトレメソードを専門とする夢遊病的ボイストレーナー武田梵声です。 オールドイタリアンスクールのボイトレメソードは、SLSボイトレに多大な影響を与えたチェザリーもが理想のボイトレとしていたものです。
また古代~現代までの世界各地のあらゆる芸能を分析する学問の最高峰 折口信夫の古代芸能学も専門としています。



武田梵声のレッスンは

オルフェ音楽教室まで
www.e-koe.jp

または、こちらのアドレスまで直接お問い合わせください。

武田梵声レッスン受付
bonjyou@yahoo.co.jp

武田梵声の著書

『こどものための究極★正しい声のトレーニング』(リットーミュージック刊)

『ボーカリストのためのフースラーメソード』
(リットーミュージック刊)

紅白歌合戦平均ソングとは?JPOPの平均。松田聖子赤いスイトピー。世界は劇空間、祝祭空間、芸能空間になりうる25年の虚実皮膜マレビトを待つ

$
0
0
私の名は武田梵声、世界最高の芸能学である折口信夫古代芸能学とボイトレのバイブルと呼ばれたフースラー発声学を専門としているものだ。


年が明けた。マレビトの力は?ホカイビトの力は?列島のどこまで浸透している?マレビトは訪れたか?ホカイビトは訪れたか?諸君は、今一度それを自問自答するべきだろう・・・

かつて寺山修司は、その演劇実験により、この現実世界そのものを劇空間化してゆこうと考えた。それは、実際には、世界を虚構化するのではなく、世界の真の姿をあぶり出してゆく行為に等しかっただろう。この世界自体が、ほとんど思い込みにより成立している。 そこにサクリファイスされてゆくのは、我々かそこらの間が抜けた者達かは、謎だ。どうとでも捉えられる。しかしながらサクリファイスされてゆく実感があるのは、我々位であろう。精神と精神的肉体を八つ裂きにされてゆくハンを実感出来るものは、やはり真の芸能人だけなのた。
孤独というのは素晴らしいものだ。これだけが我々を芸能の本質へと向かわせる。それは、集団芸能においても沸騰の中で結局はそちらの世界へと変容してゆく。
先日はNHKで紅白平均ソングなるものを作っていて出来はともかくテーマとしては興味深いものであった。歴代紅白ソング約3千曲の楽曲分析にやや問題はあるとは思うが、日本大衆歌謡のメインストリームに最も使用された語彙は、~夢~であるそうだ。
そして2010年代にワードが大きく変化しているのも興味深い。NHKは東日本大震災の影響と見ているようだが、まあそうだろう。大衆歌謡というのは、どんなに商業化しようともやはり時代を写す鏡となにうるし、そうでなければならないだろう。

歴代のワードは、夢を1位にして、
2位心

3位涙

4位恋

5位愛

となっている。ただこれはたかだか一時間番組でやるには少し荷が重いように思う。戦後70年の大衆歌謡はそれこそ放浪芸の集大成であったのだから、紅白歌合戦のオオトリに私はクロード野坂が聴きたかった。昨年は、松田聖子の赤いスイトピーが最後というのは、松本隆の記念すべき年である事を考えるならば納得がゆく。風街を感じさせる松本ソングの代表と言ってもいいだろう。

それから国本武春も亡くなったのには驚いた。彼が今の世に浪花節を世に広めていった功績は大きい。心からご冥福をお祈り致します。

クロード野坂 水木しげる 現浪花節のシンボル的存在としての国本武春 昨年も多くの命と別れてきたが 我々は今後芸能の道をどのように歩むべきかをこの者達は、我々に問いかけてくるかのようだ。

2020年代の大衆歌謡の平均ソングに出現するワードは

僕ら 場所 すべて

となるとコンピューターが予測したようだ。
ただ我々はコンピューターも予測不能な列島の野生の上にいる事を肝に深く銘じるべきだろう。

列島の野生が大変革期にあるなかその列島の野生の
ライフインデキスであるはずの我々芸能人が大変革期にいなければならないのは当然の事だ。

深く深く瞑想し、列島の野生と対話するのだ・・・グロソラリアやサジュウが自己表出される時まで・・・その時に列島の野生をタマフリする事の出来る歌が発生する。生命や死と向き合える歌が発生する。

私は、2015年程に死を思考した事はない。否、我々にとって芸能にとって死は要ゆえにこれまでもずっと思考してきたつもりではあった。だが2015年はあらゆる段階において死を思考せざる負えない年であった。まだ野生の死生学は誕生していない。この異界との通路が開かれている正月にこそ

我々は死を思考すべきだろう。 縄文人は死をケガレとは見なかった 旧石器時代人も 死を思考してゆく 死と瞑想を交錯させてゆく・・・マレビトの来訪を待ちながら・・・

シャンノース トラヴェラー バード ドルイド 西洋の古層の身体と音声そして節

$
0
0
世界最高のボイトレ フースラーメソード と そのフースラーが理想と考えたオールドイタリアンスクールのボイトレメソードを専門とする夢遊病的ボイストレーナー武田梵声です。 オールドイタリアンスクールのボイトレメソードは、SLSボイトレに多大な影響を与えたチェザリーもが理想のボイトレとしていたものです。
また古代~現代までの世界各地のあらゆる芸能を分析する学問の最高峰 折口信夫の古代芸能学も専門としています。



武田梵声のレッスンは

オルフェ音楽教室まで
www.e-koe.jp

または、こちらのアドレスまで直接お問い合わせください。

武田梵声レッスン受付
bonjyou88@yahoo.co.jp

武田梵声の著書

『こどものための究極★正しい声のトレーニング』(リットーミュージック刊)

『ボーカリストのためのフースラーメソード』
(リットーミュージック刊)



さてシャンノースについての質問ありがとうございます。

こちらはケルト系の民謡ゆえに広く捉えるならばやはりバードやドルイドとの関連もあると考えて良いと思います。ケルト系の放浪芸能人に今も活躍するトラヴェラーと呼ばれる放浪芸能人がいますが彼らはケルト系民謡の名手です。シャンノースは古層の節を持っていますね、最近ではこうしたケルト系民謡をいわゆるグランドオペラ的な喉頭バランスで歌う人が増えていますが完全な間違いです。
こうしたケルト系民謡は、アメリカにも渡りブルースと分かちがたく結び付き今でも世界各地の大衆歌謡の遺伝子となっています。またケルト文化は縄文文化との類似も指摘されていますので、シャンノースの射程というのもかなりのものと考えて良いと思います。

千本桜 初音ミク 小林幸子 ボーカロイド 演歌の民謡的可能性について

$
0
0
世界最高のボイトレ フースラーメソード と そのフースラーが理想と考えたオールドイタリアンスクールのボイトレメソードを専門とする夢遊病的ボイストレーナー武田梵声です。 オールドイタリアンスクールのボイトレメソードは、SLSボイトレに多大な影響を与えたチェザリーもが理想のボイトレとしていたものです。
また古代~現代までの世界各地のあらゆる芸能を分析する学問の最高峰 折口信夫の古代芸能学も専門としています。



武田梵声のレッスンは

オルフェ音楽教室まで
www.e-koe.jp

または、こちらのアドレスまで直接お問い合わせください。

武田梵声レッスン受付
bonjyou88@yahoo.co.jp

武田梵声の著書

『こどものための究極★正しい声のトレーニング』(リットーミュージック刊)

『ボーカリストのためのフースラーメソード』
(リットーミュージック刊)


紅白の小林幸子の千本桜は評判が良かったようだが、これは元々 初音ミク によるボーカロイド曲であった。 私は、小林幸子の千本桜を歌う姿を見ていくつかの可能性を感じている。演歌の未来やJPOPの未来を思考するならば、その根源にある放浪芸やワークソング的な民謡性、俚謡性は常に働いていなければならないのだが、残念ながら多くの現代大衆歌謡がその力を喪失しつつある。だが初音ミクをはじめとしたボーカロイドはある種の読み人知らず的な民謡性は持っている事は確かだ。かつてシンセサイザーが楽の器に関しては民族楽器までその射程に持ち得たようにボーカロイドにもそうした可能性は開かれているだろう。 もしも 美空ひばりが生きていたならば小林幸子よりも先にこの曲を歌っていたように思うのだ。小林幸子はかつてひばりの物真似からスタートしているし、古賀の弟子の一人でもあったからどことなくひばり的な面影がある事は確かだろう。特にスカシやスカシ声 といったソウチンオウ由来の声明の声態は古賀により意図的に演歌に導入されていった技だがその節回しはひばり的ではある。ところどころに挟む唸り節もだ。演歌歌手の今後の一つの可能性はこのあたりにあるのではと思っている。それは単純にニコニコ動画との連動や初音ミクのカバーをするといった事も含むが、演歌を如何にハイカラなものにし、JPOPを如何に鄙振り化させるかというバランスは最も重要にしてデカイ問題だ。
この千本桜のカバー数の多さもYouTube上で確認する事が出来るが、かなりコミックソング化され替え歌や春歌的になっているものさへある。ネット空間はやはり世界をある種の古代化させる力はあるにはあるのだろう。その源には元ヒッピーがおるのだから、それからアランチューリングみたいな存在も源におるのだから
千本桜が大正ロマンをテーマにしているところも悪くない。大正と縄文は芸能的に極めて重要であり、特に現代大衆歌謡の源を思考する時にも大正は要になるのだ。

千本桜に限らず。ボーカロイドやボーカロイド曲には実はかなりの可能性があるだろう。かつてネットやコンピュータは、否全ての機械は人の脳と精神の拡張のために開発された。エジソンはエソテリスムの最終装置として発明したわけだ。それらの大半は不発に終わったが、ボーカロイドも人の声の新たな可能性を拓いてゆく そういった未来を思考する事は機械と人の関係を見つめ直すならばあながちあり得なくはないだろう。 そして機械もまたアフリカへと向かうべきである。この歩みよりがトインビーのいうアジアアフリカの科学のようなものが発生する可能性になりうる・・・?
2010年代はボカロがJPOPに与えた影響は大きい。カラオケにおいてもボカロはブームになっており、アニメや身体性、それからアバンギャルドにまでその力は浸透している。 我々はこの可能性の行く末を見てゆく必要はあるように思うのだ。
Viewing all 231 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>