私と私の母はきっと一卵性親子だったと思う・・・かつて美空ひばりとその母 喜美枝がそうであったように
私と母を繋ぐ根源的な思想は岡倉天心にある。私達は日本画を愛し、日本画の家に生まれたからだ。 そして妙好人の思想。
母は最後まで夢の中で日本画のための仕事をしていたようだ。寝ながら、脳に癌細胞が増殖する中でも手が常に動いていた
私にとって母は妹のようであった19歳しか年が離れていなく、私が変に達観しているせいもあるかもしれないが、四姉妹の末っ子であった母は、本当に可愛らしい人であったと思っている。
私は長男だったから私をお兄ちゃん、お兄ちゃんと呼んでいた事も彼女を妹のように思う要因だったのかもしれない。
母は同時に誇り高く、プライドも高かった。きっと私がやたらと誇りとプライドが高いのも芸能的な美意識の高さもアタビズム的なものもあるとしても大半は母から受け継いだものだと思っている。
我々の一族を繋いできたのもまた母であった。母は人の心の中に入ってゆくのが上手く友も沢山いた。この辺りは私とまったく正反対であったが、自分の事以上に他者を思いやれる者がいるとするならば私は母以上の人を見た事がない位、他者を思いやれる人だった
辛抱する事、堪え忍ぶ事も母のためにあるような言葉だ。母はとにかく辛抱強い、癌の傷みも周りに感じさせないほどに、常に明るく、むしろ他者の心身の心配をしていた位であった。
癌の闘病生活や治療にはその者の生命や死に対する哲学や思想が反映される事はよく知られている。母は漢方を中心とした様々な代替療法を試していたのと、近藤誠の癌擬きの理論、無治療の方針からの影響を受けていた。近藤誠の理論が正しいか否かはともかくとしても、西洋医学の既成の概念に風穴をあけてゆく可能性はある。立花隆などは近藤誠を正しかったと言っていたように記憶しているが、近藤誠に代替療法に関する知識があったならばもう少し違う方向に向かっていたように思う。基本的にかつての中医学も乳癌は十全大補湯等により治療していたわけで、いわゆる手術の概念は乏しかった。すなわち無治療の状態で漢方薬だけで癌の治療を行っていたわけだ。中医学、
厳密には中西医統合医療やホリスティック医学的な発想から作られた抗がん漢方と呼ばれるものに天仙液というものがあるが、カイジやメシマコブと並ぶか人によってはそれ以上というほどの抗がん作用があると言われている。
母はカイジやシベリヤ霊芝、天仙液、針灸、西洋医学においては放射線治療、ホルモン治療を行い、その他諸々の代替療法を行っていた。代替療法には信仰的な面が強いものもあるが、癌という怪物には信仰的な側面というのは母にとって必要であったと思っている。
生命活動が尽きようとするものが最後にすがる神が邪神であろうとも、そこにある揺るぎない信仰心を誰が否定出来ようか!?
私は母がした全ての選択を正しかったと思っている。その内のいくつかが寿命を縮めていたとしてもだ・・・
私の母は私の母とは思えぬほどに美しかった。私の女性観や恋愛観の元型はおそらくは母にあったであろう。
多分、私の思想や思考を最も理解してくれたのも母であったように思っている。そして私のあるがままの全体をここまで愛してくれたのもやはり母であったように思うのだ。
2015年10月31日19時6分
に母は亡くなった。2015年3月30日に愛犬を失ったから
2015年は私にとって最愛の二人を失った事になる。
母は2015年6月に乳癌の診断を受け、骨転移により寝たきりの状態になっていた。この段階で医師からは余命1年と宣告されていた。
ただ首、胸、腰への放射線治療とホルモン治療により2年~3年に伸ばせる可能性もあると伺い、我々はそれに賭けたわけだが
・・・
2015年10月2日に肝転移が見つかり、1ヶ月、1ヶ月が危なく、もって半年と宣告された
10月18日脳にも影が見つかり呂律が回りにくくなる
10月23日普通にいってもって1ヶ月。奇跡が起きて年を越せると宣告される。
10月24日衰弱によるのか?脳転移によるのか?肝転移でもこうした症状は起こりうるというが、話している間に意識を失う事が頻繁になる。意識レベルの著しい低下がおこる。
10月26日余命1週間、奇跡が起きて余命1ヶ月と宣告される。
10月30日の20時頃、私の教え子で母が大ファンであった著名なタレントが母の見舞いに来てくれた。母の意識レベル24日以降著しく低下していたが、彼とは一時間半も意識を保った状態で目を輝かせ楽しそうに話していた。
その夜も意識レベルははっきりしていて私は母に謝りたかった事、感謝したかった事の全てを話した・・・
彼は私の教え子であるが、芸能のもう一つの可能性という事を私に気付かせてくれた、また彼がいたからこそ母と最後の夜を過ごす事が出来、彼には一生ものの恩を感じている。
10月31日16時頃 脾臓破裂により母は苦しみだす。母は痛いというよりは何とかして車椅子に乗りたいと私に訴えていた。母は第六頸椎が癌の転移により潰れかかっていたため、リハビリの先生以外には車椅子に乗っける事は出来ない状態にあった。だが、その時の母は気が動転したかのように ただひたすらに車椅子に乗りたいという意思を私に訴えた。人は内臓が危機に陥ると何とかして身体のバランスをとろうと考えるわけだが、予想以上にアナロジー的な思考から内臓の叫びは発されるのだ・・・
二日ほど前から母は毎晩魘されていた。愛犬が夢に顕れ母に何か言葉を発するようにと告げるのだと言う・・・。我々はどこまでも言葉により原始母音により意識レベルを保とうとするのだ
。
母の名は~忍~ 我が師 折口信夫 と同じ音価を持つ 私はこの ~しのぶ~という言霊に導かれ今日までを歩んできた
私と母は一卵性親子であった。私は母と深い深い結び付きを感じていた
母の病室で私はいつも茶を飲んでいた。
あの子が友達よ・・・
茶でも飲もうか・・・?
一杯の茶に願いを込めて・・・
武田梵声
私と母を繋ぐ根源的な思想は岡倉天心にある。私達は日本画を愛し、日本画の家に生まれたからだ。 そして妙好人の思想。
母は最後まで夢の中で日本画のための仕事をしていたようだ。寝ながら、脳に癌細胞が増殖する中でも手が常に動いていた
私にとって母は妹のようであった19歳しか年が離れていなく、私が変に達観しているせいもあるかもしれないが、四姉妹の末っ子であった母は、本当に可愛らしい人であったと思っている。
私は長男だったから私をお兄ちゃん、お兄ちゃんと呼んでいた事も彼女を妹のように思う要因だったのかもしれない。
母は同時に誇り高く、プライドも高かった。きっと私がやたらと誇りとプライドが高いのも芸能的な美意識の高さもアタビズム的なものもあるとしても大半は母から受け継いだものだと思っている。
我々の一族を繋いできたのもまた母であった。母は人の心の中に入ってゆくのが上手く友も沢山いた。この辺りは私とまったく正反対であったが、自分の事以上に他者を思いやれる者がいるとするならば私は母以上の人を見た事がない位、他者を思いやれる人だった
辛抱する事、堪え忍ぶ事も母のためにあるような言葉だ。母はとにかく辛抱強い、癌の傷みも周りに感じさせないほどに、常に明るく、むしろ他者の心身の心配をしていた位であった。
癌の闘病生活や治療にはその者の生命や死に対する哲学や思想が反映される事はよく知られている。母は漢方を中心とした様々な代替療法を試していたのと、近藤誠の癌擬きの理論、無治療の方針からの影響を受けていた。近藤誠の理論が正しいか否かはともかくとしても、西洋医学の既成の概念に風穴をあけてゆく可能性はある。立花隆などは近藤誠を正しかったと言っていたように記憶しているが、近藤誠に代替療法に関する知識があったならばもう少し違う方向に向かっていたように思う。基本的にかつての中医学も乳癌は十全大補湯等により治療していたわけで、いわゆる手術の概念は乏しかった。すなわち無治療の状態で漢方薬だけで癌の治療を行っていたわけだ。中医学、
厳密には中西医統合医療やホリスティック医学的な発想から作られた抗がん漢方と呼ばれるものに天仙液というものがあるが、カイジやメシマコブと並ぶか人によってはそれ以上というほどの抗がん作用があると言われている。
母はカイジやシベリヤ霊芝、天仙液、針灸、西洋医学においては放射線治療、ホルモン治療を行い、その他諸々の代替療法を行っていた。代替療法には信仰的な面が強いものもあるが、癌という怪物には信仰的な側面というのは母にとって必要であったと思っている。
生命活動が尽きようとするものが最後にすがる神が邪神であろうとも、そこにある揺るぎない信仰心を誰が否定出来ようか!?
私は母がした全ての選択を正しかったと思っている。その内のいくつかが寿命を縮めていたとしてもだ・・・
私の母は私の母とは思えぬほどに美しかった。私の女性観や恋愛観の元型はおそらくは母にあったであろう。
多分、私の思想や思考を最も理解してくれたのも母であったように思っている。そして私のあるがままの全体をここまで愛してくれたのもやはり母であったように思うのだ。
2015年10月31日19時6分
に母は亡くなった。2015年3月30日に愛犬を失ったから
2015年は私にとって最愛の二人を失った事になる。
母は2015年6月に乳癌の診断を受け、骨転移により寝たきりの状態になっていた。この段階で医師からは余命1年と宣告されていた。
ただ首、胸、腰への放射線治療とホルモン治療により2年~3年に伸ばせる可能性もあると伺い、我々はそれに賭けたわけだが
・・・
2015年10月2日に肝転移が見つかり、1ヶ月、1ヶ月が危なく、もって半年と宣告された
10月18日脳にも影が見つかり呂律が回りにくくなる
10月23日普通にいってもって1ヶ月。奇跡が起きて年を越せると宣告される。
10月24日衰弱によるのか?脳転移によるのか?肝転移でもこうした症状は起こりうるというが、話している間に意識を失う事が頻繁になる。意識レベルの著しい低下がおこる。
10月26日余命1週間、奇跡が起きて余命1ヶ月と宣告される。
10月30日の20時頃、私の教え子で母が大ファンであった著名なタレントが母の見舞いに来てくれた。母の意識レベル24日以降著しく低下していたが、彼とは一時間半も意識を保った状態で目を輝かせ楽しそうに話していた。
その夜も意識レベルははっきりしていて私は母に謝りたかった事、感謝したかった事の全てを話した・・・
彼は私の教え子であるが、芸能のもう一つの可能性という事を私に気付かせてくれた、また彼がいたからこそ母と最後の夜を過ごす事が出来、彼には一生ものの恩を感じている。
10月31日16時頃 脾臓破裂により母は苦しみだす。母は痛いというよりは何とかして車椅子に乗りたいと私に訴えていた。母は第六頸椎が癌の転移により潰れかかっていたため、リハビリの先生以外には車椅子に乗っける事は出来ない状態にあった。だが、その時の母は気が動転したかのように ただひたすらに車椅子に乗りたいという意思を私に訴えた。人は内臓が危機に陥ると何とかして身体のバランスをとろうと考えるわけだが、予想以上にアナロジー的な思考から内臓の叫びは発されるのだ・・・
二日ほど前から母は毎晩魘されていた。愛犬が夢に顕れ母に何か言葉を発するようにと告げるのだと言う・・・。我々はどこまでも言葉により原始母音により意識レベルを保とうとするのだ
。
母の名は~忍~ 我が師 折口信夫 と同じ音価を持つ 私はこの ~しのぶ~という言霊に導かれ今日までを歩んできた
私と母は一卵性親子であった。私は母と深い深い結び付きを感じていた
母の病室で私はいつも茶を飲んでいた。
あの子が友達よ・・・
茶でも飲もうか・・・?
一杯の茶に願いを込めて・・・
武田梵声